夜噺骨董談義

収集品、自分で作ったもの、見せていただいた品々などを題材に感想談など

忘れ去られた画家 手鞠 伝太田聴雨筆

2016-06-29 05:04:31 | 掛け軸
まくりの状態で入手した作品が数多くなってきたので、それほど上等な表具が必要ない作品を、廉価な表具に試しにしてもらいました。



「梅下鳩図」(仮題 荒井寛方筆)の作品ですが、梅を描かれた作品に「桜」文様の生地で表具?

「梅下鳩図」という題より「早春」が適切でしょう。榊原紫峯に同図の作品があります。



家内とも相談しましたが、これは完全なミスマッチです。せめて同じ「梅」の生地なら・・。



作品が台無しということで表具したところに申し入れたところ、直してくれるそうです。



またまた再表具・・。また掛け軸の紐ですが、正式な紐の処理を知らず、紐が短いことがあります。長いならまだしも短いのはどうしようもありませんね。



掛け軸の扱いを知らない御仁があまりにも多いのにはびっくりです。表具を生業とするものはきちんと勉強しなくていけません。

さて、本日は初登場の太田聴雨の作品どうのこうというより、彼の送ってきた人生を振り返り、「人間万事塞翁馬」の言葉を考えてみました。

昨日は某会社の株主総会に出席し、社長の座右の銘は「人間万事塞翁馬(じんかんばんじさいおうがうま)」とのこと。社員はその意味を知っているのでしょうか?

手鞠 伝太田聴雨筆
絹本着色軸装 軸先 合箱入
全体サイズ:横*縦 画サイズ:横570*縦490

表具がなされていない状態、「まくり」の状態での入手です。



2016年5月にまくりの状態で入手した作品。印章は「陸奥士刀」の白文朱方印が押印され、他の参考作品と印章は一致しますが、当然、共箱などは一切ありません。



ところで「陸奥の国」とはどこからどこまでかご存知でしょうか? 意外に広いものです。



「聴雨」という号は、元代の禅僧・煕晦機の「「人間万事塞翁馬(「じんかん」が正しい読み)、推枕軒中聴雨眠(推枕軒中雨を聴て眠る)」からちなんだ名前が太田聴雨の由来です。「人間万事塞翁馬」は知っていても下の句は知らない人が多いでしょうね。

「推枕軒中聴雨眠」は「すべてをうけいれて平然と寝ているさま」という意味ですが、社会人たるもの夜はゆっくり眠れて一人前。ただ。悩みに悩みぬく過程を経てのことです。



太田聴雨は仙台の上杉の出身、切手趣味週間の切手の図案になった作品も描いています。

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太田 聴雨:(おおた ちょうう)1896年(明治29年)10月18日~1958年(昭和33年)3月2日)。大正から昭和時代にかけて活躍した日本画家。本名は栄吉。初号・別号に翠岳。

生い立ち:宮城県仙台市出身。父は聴雨が生まれて間もなく妻を離縁したため、聴雨は母の愛情を生涯知らずに育った。後年、「制作の動機は、母を慕う心の永遠化にある」としばしば人に語っており、この生い立ちが聴雨芸術の根幹を作ったといえる。聴雨は役所では祖父の四男として届けられ、山師だった聴雨の父は不在な事が多かったため、祖父の元で育った。祖父は二日町(青葉区)で寿司屋を営んでおり、幼少から飯炊き、水仕事、漬物の仕込みと言った家業を手伝わせていた。

11歳の時祖父が亡くなると、叔父や叔母に引き取られ物思いに沈む少年になっていった。1910年(明治43年)上杉通小学校を抜群な成績で卒業。翌年14歳の時、東京で印刷工として働く父に引き取られ、上京。間もなく川端玉章門下の内藤晴州の内弟子となる。聴雨の画号もその頃から使い始め、元代の禅僧・煕晦機の「人間万事塞翁馬、推枕軒中聴雨眠(あめを聴きいて眠ねむる)」に由来する。その3年目、食費を負担しきれなくなり父宅へ戻る。家計を助けるため、不本意ながら書画屋の仕事に就き、夜画作する日々を送る。

青樹会:1913年(大正2年)巽画会第13回展に《鏡ヶ池》を出品して初入選。当時、巽画会は新進画家たちの登竜門であるだけでなく、青年画家の育成を謳って定例の研究会を開いていた。聴雨はこれに参加すると共に、終生の画友となる小林三季ら同輩の仲間と別に研究会を持ち、研究を40数回重ねた1918年(大正7年)青樹会とした。

既に会の中心人物となっていた聴雨は、会として展覧会を開いて世にでるため、信者と偽って浅草メソジスト教会の部屋を借りて第一回展を開く。翌年の第二回展以降、作品を公募して会の拡張を図る。この頃の聴雨は、文展や院展に出品した形跡がなく、青樹会の発展に自分の未来をかけていた。この頃の作品はあまり残っていないが、そうじて文学趣味でロマンティシズムを感じさせる作品が多い。

1922年(大正11年)には「反帝展・反院展」を旗印に、日本画の小団体である高原会・蒼空邦画会・行樹社・赤人社と第一作家同盟を結成する。これは日本のプロレタリア芸術の先駆けとして知られているが、その主体である高原会一派の政治色が明確になると、その年のうちに青樹社はこれを脱退している。ところが、翌年第六回展を開いていると、ちょうど関東大震災が襲い、経済的基盤をもたない青樹社は資金難に陥り、会員は四散してしまう。深い挫折を味わった聴雨は、生活のために挿絵は手がけるものの本画制作の筆を絶ち、再起に三年を要した。

院展同人へ:1927年(昭和2年)三季の紹介で前田青邨に入門して再出発する。既に31歳になっていた聴雨の心を支えたのは聖書であった。院展に二年続けて、キリストを主題とした作品を出品するも落選。1930年(昭和5年)今度は一変して、当麻寺の中将姫伝説に取材した《浄土変》(現在所在不明)で、第1回日本美術院賞を受け一躍脚光を浴びた。その後も、《お産》《種痘》《星をみる女性》などの名作を送り出していった。

1944年(昭和19年)家族とともに伊豆・下田に疎開、同26年に東京芸術大学助教授になるまでの7年間を過ごす。戦後、岩絵具を厚く塗り込める日本画が流行しても、当初聴雨は伝統的な日本画を守ろうとした。1948年(昭和23年)の《二河白道を描く》は、正にそうした画家の自画像と言える。しかし、1950年(昭和25年)ごろから方向転換を図り、岩絵具本来の色を活かしながら色面を構成することで、物の形を表す画風へ進むと思われる最中、1958年(昭和33年)脳出血のため死去。享年61。

代表作「星をみる女性」:昭和11年の改組帝展に出品され、文部省買い上げとなった。
作品中の望遠鏡は、昭和6年に国立科学博物館1号館が完成した時、屋上に設置された日本光学製の20cm屈折望遠鏡がモデルになっている。90年趣味週間小型シートの図案となっている。(273×206㎝ 東京国立近代美術館蔵)

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「父は聴雨が生まれて間もなく妻を離縁したため、聴雨は母の愛情を生涯知らずに育った。」

「幼少から飯炊き、水仕事、漬物の仕込みと言った家業を手伝わせていた。」

「11歳の時祖父が亡くなると、叔父や叔母に引き取られ物思いに沈む少年になっていった。」

「食費を負担しきれなくなり父宅へ戻る。家計を助けるため、不本意ながら書画屋の仕事に就き、夜画作する日々を送る。」

「関東大震災が襲い、経済的基盤をもたない青樹社は資金難に陥り、会員は四散してしまう。深い挫折を味わった聴雨は、生活のために挿絵は手がけるものの本画制作の筆を絶ち、再起に三年を要した。」

「岩絵具本来の色を活かしながら色面を構成することで、物の形を表す画風へ進むと思われる最中、1958年(昭和33年)脳出血のため死去。享年61。」



ふむ~、「人間万事塞翁馬、推枕軒中聴雨眠」か

さて本作品もまくりの状態の作品ですが、同じ表具師に頼むとしましょう。「梅下鳩図」は快く再表具するということになりましたし・・。

「骨董万事塞翁馬」。


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