
最近になってなぜかしら家内が普段使いのお茶碗を揃えようとしているようで、購入したお茶碗が本日の作品紹介の作品です。
朝日焼 鹿背茶碗 16代松林豊斎作
16代松林豊斎(松林佑典)作 共箱・共布・栞付
口径*高台径*高さ

朝日焼(あさひやき)とは京都府宇治市で焼かれている陶器で、宇治茶の栽培が盛んになるにつれ、茶の湯向けの陶器が焼かれるようになったようです。
江戸時代には遠州七窯の一つにも数えられています。朝日焼という名前の由来については、朝日山という山の麓で窯が開かれていたという説と、朝日焼独特の赤い斑点(御本手)が旭光を思わせるという説があります。

宇治地方は古くから良質の粘土が採れ、須恵器などを焼いていた窯場跡が見られています。室町時代、朝日焼が興る前には、経歴も全く不詳な宇治焼という焼き物が焼かれ、今も名器だけが残されていますが、今日、最古の朝日焼の刻印があるのは慶長年間のものです。

しかし、桃山時代には茶の湯が興隆したため、初代、奥村次郎衛門藤作が太閤豊臣秀吉より絶賛され、陶作と名を改めたというエピソードも残っていることから、当時から朝日焼は高い評判を得ていたことになります。後に二代目陶作の頃、小堀遠江守政一(小堀遠州)が朝日焼を庇護、そして指導したため、名を一躍高めることとなったとされます。

同時に遠州は朝日焼の窯場で数多くの名器を生み出していますが、三代目陶作の頃になると、茶の湯が一般武士から堂上、公家、町衆に広まっていき、宇治茶栽培もますます盛んになり、宇治茶は高値で取引されるようにり、それに並行して朝日焼も隆盛を極め、宇治茶の志向に合わせて、高級な茶器を中心に焼かれるようになっていったようです。

朝日焼の特徴:朝日焼は原料の粘土に鉄分を含むため、焼成すると独特の赤い斑点が現れるのが最大の特徴でとされ、そしてそれぞれの特徴によって呼び名が決まっています。
- 燔師(はんし):分かりやすく解釈すると、師匠が焼いた物という意味。赤い粗めの斑点がぽつぽつと表面に浮き出たような器を指します。
- 鹿背(かせ):燔師とは対照的に、肌理細かな斑点が見られる器。鹿の背中のような模様から名付けられたようです。
- 紅鹿背(べにかせ):鹿背の中でも、特に鉄分が多く、よりくっきりと紅色が見えるものを指します。

朝日豊斎は、現在16代目となっており、伝統的な陶芸家の家継です。その作品の多くは、伝統的で郷愁を誘いながらもどこか気品にあふれており高級感を感じさせます。さらに、独創的な造形や色づけの雰囲気なども他には無い魅力の一つとされます。
14代朝日豊斎は、1921年に13代の長男として京都府の宇治市に生まれます。幼少の頃より、伝統を守る陶芸家の家系に生まれただけに、自らもこの道をたどることへの覚悟が出来ていたと言います。幼い頃から数々の名作を自らの目で見ていた経験から、センスを身に着けていきました。以後、陶芸の研究を深めて行くために、国立陶磁器試験場に入り、様々な陶芸の研究に励む日々を送ります。そんな中でも自らの作品づくりを怠る事なく数々の作品を生み出していました。
1943年には、国立陶磁器試験場を退職し、3年後に朝日焼14代を襲名する事となります。無煙登窯を築窯し、その作陶ペースを上げていきます。三笠宮妃殿下、三笠宮容子内親王殿下に火入式で御来窯御台臨を賜っており、「玄窯」と御命名され、「豊斎」印を拝領しています。
1995年には、京都・大徳寺本山で得度しており、大徳寺派管長・福富雪底老師より「猶香庵」を授かります。信仰に関係深く数々の作品を生み出すきっかけとなったようです。
朝日焼は品格の高い茶器を作陶する事でも陶芸界では有名であり、遠州七窯や不昧十窯にも上げられています。また、粘度に鉄分をふくむ事から、焼成すると独特の赤い斑点が現れるといった特徴も持ち合わせています。

朝日豊斎(松林豊斉)と名乗っているのは下記の3代のようです。
14代:大正10年(1921)~平成16年(2004)
別号:猶香庵。朝日焼窯元に生まれ、父13代松林光斎のもとで修業を積む。国立陶磁器試験場にて楠部彌弌に師事。昭和21年(1946)朝日焼14代を継承。松林豊斎を名乗る。
15代:昭和25年(1950)~平成27年(2015)
14代豊斎の長男として生まれる。名古屋工業技術試験所で釉薬の研究を積んだのちに父のもとで作陶。
16代(当代):(松林佑典) 昭和55年(1980)~
大学卒業、一般企業への就職から京都府立陶工高等技術専門校を経て25歳頃から父に師事して作陶を始める。平成28年(2016)16代松林豊斎を襲名。
本作品は16代松林豊斎が襲名する前の作と思われ、箱には(松林)佑典と記されます。


はてさて家内が普段使いに使おうとして購入した作品・・・、センスがいいのか悪いのか??