織内将男の山旅の記録

若かりし頃よりの山旅の記録です・・!!

西丹沢・大室山(Ⅱ)

2008年07月25日 | 西丹沢:大室山
昔、夢中になっていた「山」に関する過去の雑記、メモを整理しながら記載しております。
お茶など出ませんが、同じ趣味、興味のある方は立寄って御覧ください。
現在と比較しながら眺めるのも一興でしょう・・。



西丹沢・大室山(Ⅱ)

白石峠⇒加入道山⇒大室山
昨夜のお酒が少々頭に残ってはいるが・・、暖かいコーヒーを沸かし、軽い朝食を済ませて登行の準備に取り掛かった。
さあ、これからいよいよ西丹沢の主峰・「大室山」のの登行に取り掛かる。


箒沢のを後に中川川の清流を右に見ながら、幅広の林道は徒歩1時間余り「県立青少年キャンプ場」まで続いていた。これより先は登山専用の山道になり、二股に分かれている。左は、我等がこれから向かう白石峠を経て「加入道山」、「大室山」のコースであり、右方向は、桧洞丸と大室の鞍部・「犬越路」の峠で、帰路に通る予定である。

犬越峠は、その名の通り乱世の戦国期、武田信玄が自国の甲斐へ戻る途中、犬を先導して越えたという言い伝えによりその名が付けられたといわれる。白石峠から大室山は、神奈川県と山梨県の県境でもある。


これより白石峠へ向かっては早速ながらジグザグの登りで、白石沢の清流が見え隠れしている。 右手に大滝が現れてきた、名前が付いているのか不明だが「白石大滝」とでも名付けておこう・・。
この辺りより藪、ササの間を縫うように急登が続いている、間もなくして鞍部・白石峠へ到着した。
昨夜の飲みすぎ食べすぎのせいであろうか・・、途中、発汗のためかなりの苦汁に苦しめられたため、充分な休息をとる。 峠周辺からは丹沢の主稜・蛭が岳や桧洞が悠然と見渡せる。

峠から加入道山へは一投足であった。
ブナの大木が目立ちはじめ、いよいよ西丹沢の山域らしくなってきたころ、三角点の標石がある小ぢんまりとした山頂へ着いた。
頂上(1418m)は、ベンチが数台設置されているだけの静かな頂であり、付近に遠慮がちに避難小屋(無人・トイレ無)がある。
緑期のころは樹林に阻まれて展望はほとんど無いだろうが、今は落葉期である・・、木々の間から山並みに混じって富士が微かに遠望できた。

加入道山(かにゅうどうやま)とは・・、
面白い山名だが、日本山名事典(三省堂)によると大入道伝説によるものか、あるいはシカが多いところから鹿入道がその名の由来であるらしい。
樹林(ブナの原生林である)に囲まれて展望は無いが、落ち着いていて好感のもてる山頂である。 
目的の「大室山」は、既に堂々たる山容を眼前に現している、そして、我等を呼び寄せてもいる様だ。
俗っぽい言い方をすれば、“ここまで来たら、もうこっちのもんである”。


加入道山頂のベンチで一息いれて、これより本峰・大室へ向かう・・。
一つのピーク(前大室山)を過ぎ、なだらかに下っていくと破風口というキレット状(切戸・山稜がV字形に深く切れ込んで低くなっている所)の所に達した。 その名の通りの風の通り道のようで、さわやかな風が吹き抜けていた。
ザレた瘠せ尾根であるが、特に危険な様子は無い・・。

これより大室への最後の登りとなる・・、とはいっても極端な登りではなく平坦な地が広がる箇所もある。元は湿性地であったのだろうか・・?丹沢には珍しく園地の様であり、枯れた草原状の平地に植生保護のため木道が敷かれてある・・、実に気持ちの良いところである。次の西ノ肩も、ブナと林床のバイケイソウに囲まれて、なかなか気持ちいい場所であり、新緑の季節はいいかもしれない・・。実は、ここが犬越への分岐になり大室はこの先になる。一服したい所であるが本峰はすぐ其処に見えているので先を急ぎ目指した。

西ノ肩からひとまず大室山山頂(1588m)を踏んだ・・。

次回へ続く・・。


西丹沢・大室山(Ⅰ)

2008年07月25日 | 西丹沢:大室山
「登山、丹沢山塊、西丹沢・大室山」
「西丹沢の大室山は登山対象としての人気は薄いようだ・・。
ガイドブックなどで展望の悪い山という評価が定着してしまったせいもあろうが、登山者が少ないおかげで整備された登山道は意外なほど良く保全されている。この山は山頂の展望を目的とする山ではなく、山歩きそのものを楽しむ山なのである。
美しい樹林の中、土の感触を味わいながら歩くことができる。」



西丹沢・大室山(Ⅰ)

昔、夢中になっていた「山」に関する過去の雑記、メモを整理しながら記載しております。
お茶など出ませんが、同じ趣味、興味のある方は立寄って御覧ください。
現在と比較しながら眺めるのも一興でしょう・・。



西丹沢の稜線


山行年月:昭和44年12月13,14日
場  所:西丹沢・大室山(1588m)
人  員:2名
主コース:箒沢⇒白石沢出合⇒白石峠⇒加入道山⇒大室山
     ⇒犬越峠⇒白石沢出合⇒箒沢
徒歩時間:凡そ8時間




西丹沢・登山基地「箒沢」

関東地方南部、神奈川県の山愛好家で、最初に登った本格的な山は何処か・・?、と
訊ねると大方の人は概ね「丹沢」と答える。 これは、一般的な人への返答だが、少しでも山をカジッたことの有る人は「丹沢の何処の山か・・?」と重ねて聞くだろうが・・。
それ程、親しみやすく近距離にあるのが「丹沢山塊」である。

この山は、最高峰が「蛭が岳」(1673m)程度の2000mに満たない山であるが、主として西部地域に大表されるがブナの原生林や美しい渓谷美が存在山域である。
山塊は、東西40km、南北20kmの範囲で神奈川、山梨、静岡の三県に跨っている。一名、相模の屋根といわれるのが「丹沢」である。

小生が山好きになって最初に登ってのもこの山である。 たぶん、登り納めがあるとすれば同様に、この山域であろう・・。
先月、丹沢山(1567m)へ挑戦したばかりで・・、蛭が岳を目指して、裏丹沢へ貫けようと思ったが、小屋の状況と大雨で撤退したばかりであったが・・。この丹沢・表尾根の山々は、10指に数える位入山しているが、西の山域は未だ未踏の地であった。

そして、今回も新しいルートを求めての登行となった。
今回は、その西の代表的山域「大室山」(1588m)の山行で、昭和44年12月13日、暮れも押し迫った土曜日の午後の出発となった。
尤も、この年代の土曜日は、週休二日制などは未だ実施されてなく、せいぜい半ドンが“関の山”であった。 因みに、土曜日を休日とする週休二日制(週五日制)が広く採用されるようになったのは、1980年代頃よりである。
 

土曜日の夕刻、「水炊きの材料」を詰め込んで出発した。
伊勢原の友人「鈴木氏」と同行して、小田急・新松田の駅が19時、ここからバスに揺られて中川温泉へ、そして、今度は徒歩で凡そ1時間で「箒沢」に到着した。
に入って、道路際のすぐ左手に鬱蒼とした杉の大木が圧倒している。これがうわさの「箒の箒杉」であった。


箒沢の”箒杉”

小生がこの地を初めて訪れた3年後の昭和47年、丹沢地域は集中豪雨に襲われた。
この時周囲は土砂崩が多発し、多くの樹木が流される中で「箒杉」だけは残り、土砂崩れを防いだという。もしこの杉がなければ 被害はもつと大きくなったといわれていて、云わば、箒沢は集落を救ったのである。箒杉の名前の由来は、この地の名前の 「宝木沢」からとったとも、また樹形が箒に似ているところからきたとも言われ、多くの書物にも紹介されている。
国指定天然記念物指定、幹周・1200cm 、樹高・45m、 樹齢・推定2000年 と言われる。


山間の渓流、中川川の畔にある箒沢キャンプ場の一角適地に、早速幕営した。無論、この時期はキャンプ場は開設しているはずも無く、云わば、無断使用であったが・・。
水炊き料理をフーフー云いながら食す・・、当然、本年最後の年末年始の「八ヶ岳越年登山」の計画を練りながらであるが・・。
妙なもんで、山に入って、これから山に登ろうという時に、次の山の計画を話し合うというのも、山人・・?、だからこそか・・。
それにしても、山中で味わう手料理は一味違う・・、酒量も一段と増えて、話し合いがまとまった頃、やっと夢路に就いた・・。既に周囲は深々と更けわたっていた。
夜半に、寒くて目が覚め一枚着込んで更に眠りに就いた。

明けになり、目覚めて気がつくと一段と寒さが身にしみる。テントから這い出して小用を足しながら行き逢いの人に聞いてみた、「冷えますね・・、これで気温はどの位ですかね・・?」「マイナス5~6度くらいだね・・」、寒いはずである、夕べのアルコールが未だ充分に体内に残っており、そのため身体はソコソコ熱っているのだが、手足が何とも冷たいのである。 相棒は、未だ夢の中らしく、仕方なくもう一度寝袋に潜り込んだ。

次回へ続く・・。


丹沢:「丹沢山」(後編)

2008年07月25日 | 表丹沢:丹沢山

現在の丹沢山頂「みやま荘」

「山」に関する過去の雑記、メモを整理しながらブログに投稿しております。
お茶など出ませんが、同じ趣味、興味のある方は立寄って御覧ください。
現在と比較しながら眺めるのも一興でしょう・・。



丹沢山塊:「丹沢山」(後編)


山行日――――昭和44年11月2日~3日
同行者―――単独
ルート――――ヤビツ峠⇒表尾根⇒塔ノ岳⇒丹沢山⇒塔ノ岳⇒大倉尾根⇒大倉
天候―――――曇のち雨


「丹沢山頂で難渋・・、」
11月2日(日曜日)、午後3時も回った頃であった・・、それでも予定より1時間も遅れたではあるまいか・・?。
山頂は、樹林に囲まれていて、塔ノ岳に比べて決して見晴らしが良いとおは云い難いが、しかし、これはこれで結構だとも思った。
山小屋「みやま山荘」も遠慮しがちに立っていた・・、今夜はこちらでお世話になります・・、と無言の挨拶をして・・。

ザックを横において山頂付近を暫くブラブラとする。
風に吹かれながら木の葉がハラハラと身に降りかかり、小鳥のさえずりも心なきか寂しそうである。
思えば大山などの一人行を除けば、単独行は初めてであった。 こうして一人でボンヤリ歩いていると、世間の憂さを忘れて実にサッパリ観はあるが、どこか裏さみしい気が無いでもない・・。
気がつくと鹿の親子であろう・・、のんびり草を食んでいた・・。
時間の経過とともに登山者の数もだいぶ増えてきたようであり、そろそろ宿泊の受付をしておこう・・。

玄関には既に大勢の人が受付待ちで並んでいた、そして話を聞くと既に部屋は満員状態であると言う・・。
2日、3日は連休とあって小屋はもう超満員で畳1畳で2人位の混みようであると・・。仕方なしに今夜は野宿と決め込んだ・・。
山小屋すぐ横の、木の幹に適当なスペースを見つけて・・、食事はボンカレー、生キュウリにマヨネーズ、鰯の缶詰と、それにウイスキーを流し込みながらの簡素なものであった。

11月の山頂ともなれば相当冷え込むのは必須であろう、其れも覚悟の上でのことであるが・・。
寝支度は、とにかく着れる物を全部着込んで、その上に雨具まで着け、足下は空っぽにしたキスリングをつっ込んだだけであった。
周囲を見渡すと数人が簡易テント(今でいうツェルト)で、潜っている人もいるようだ・・、この地はキャンプ地やテント場ではなので、正規にテントを張ることはできない・・。

夜も更けてきて黒ずんだ上空を見上げると、若干の星々が見受けられる・・、W字形のカシオペア座も有った。 
ただ、ムラ雲が時おり、その僅かばかりの光の跡を消し去り、移動してゆくのが判るのである。 落ち着かない雲の動きが、少々なりともきになるのであるが・・・。
頬をかすめる空気も、どことなく湿った感じがするのである・・。

夜半、0時(12時)も過ぎた頃であろうか・・、
面(つら)に冷たいものを感じた・・!!。
何たることというか・・、やはりというか・・!!、冷ややかな風とともに、ついに雨がやって来たのである。
しかも、それはボタボタ落ちるかなり大粒の雨であった。
野宿であるから、多少の寒さや風には何とか我慢が出来るが、雨には手の施しようがない、雨具を着けてても雨の中でジッとしているわけにはいかないのである。

慌てて、山小屋の親父さんを叩き起こした。 
迷惑そうな寝ぼけ顔で「ご覧のとおりだよ・・、よかったら横の薪小屋使ってもいいよ、お代はいらないよ・・」・・と
仰るとおり玄関の土間まで人で埋まっていた。

薪小屋といっても、母屋にへばり付いている二尺足らずの屋根だけの小屋であった。
だが、雨だけは凌げ、濡れずにすんだのは幸いであった・・。
それにしても、一人身の侘しさをしみじみ味わう夜になったもんである・・。

(翌日、主脈縦走の予定で有ったが大雨のため中止撤退、そのまま塔が岳から大倉尾根を下った。)
  


「山の詩」

山は百面百態あり、山は生き物だ・・。
そんな山、大自然の包容に身を託す。
そして自然の有り難さを、しみじみ味わい感嘆する。
そんな山に、惚れたのかもしれない。
 
時に、山は極端な排他的性格をあらわにし、
われ等、人々を拒もうとする、・・が
その時、われ等はあらゆる知と観察と勇気、決断を以って、
自然の猛々しさに対処し、困難を克服する。
 
底知れない自然を相手に、
その時、自分を観つめ、還元し、
自然の中で、自分を高揚させる・・。
本当の山相手の所業は、こんなもんかもしれない。


≪終り≫


引き続き、「丹沢山塊」を紹介します。


丹沢:「丹沢山」(前編)

2008年07月25日 | 表丹沢:丹沢山
「山」に関する過去の雑記、メモを整理しながらブログに投稿しております。
お茶など出ませんが、同じ趣味、興味のある方は立寄って御覧ください。
現在と比較しながら眺めるのも一興でしょう・・。



丹沢山塊:「丹沢山」(前編)


山行日――――昭和44年11月2日~3日
ルート――――ヤビツ峠⇒表尾根⇒塔ノ岳⇒丹沢山⇒塔ノ岳⇒大倉尾根⇒大倉
同行者―――単独
天候―――――曇のち雨



小生が始めて「丹沢山塊」へ足を踏み入れたのは昭和40年初頭の頃で、未だ20代の頃であった。
始めの頃は、東丹沢の低山を徘徊していたが、次第に「大山」や表尾根の「塔が岳」等にも入るようになった。
しかし、広大な丹沢山域の内、中央帯の核心部、や西丹沢には未だ到ってはいなかった。そして、初めて核心部の丹沢山や蛭ケ岳を目指そうと思ったのは昭和44年(1969年)の11月になってからのことあった。


今回の山行予定は、表尾根から塔が岳、丹沢山、蛭が岳、焼山から裏丹沢の青野原へ到るルートで、所謂、「丹沢主脈ルート」と言われるコースである。
丹沢の登山としては初めて小屋泊まりをする事になるのであるが、この山塊も山小屋は比較的充実していて、特に表尾根コースは各ピークに小屋が存在し、皮肉っぽく「小屋ヶ尾根」などと呼ばれるほどである。

今回は小屋泊まりでも自炊が目的であるため、しかも単独行ということもあって日帰り登山とは異なり装備も当然膨らんでしまった。それに、もう一つの目的は、近々の来シーズン、北アルプス・穂高の「涸沢」辺りでキャンプ登山をするためのトレーニングも兼ねていたである。

装備用のザックといえば、今は西洋型というか・・、縦長の軽量合成繊繊のものが主流のようであるが、当時は綿作りの黄色いゴワゴワした、両サイドに大きなポケットを備えた幅広の物であった。
因みに、これは「キスリング」といってキャンバス製の大型ザックで、発案者であるスイスの登山用具製造業者「キスリング」氏の名前に由来しているという。
厚い木綿のキャンバス地はそれ自体に防水性があるが、さらに防水性を高めるために熱したワックスを溶かして塗布することも時には行われたという。 
駅の改札を通るときに横幅が広すぎて引っかかるので、体を横にしながら改札を通り抜けていたことから、かつてはキスリングを背負って山に出かけるわれ等若者たちは「カニ族」とも呼ばれた。
今ではめったに使っている人を見ることがない。

1980年前後頃アメリカでは、「トレッキング」(trekking)という山歩きが流行していた。トレッキングとは・・、登頂を目指すことを主な目的としている登山に対し、特に山頂にはこだわらず山の中を歩くことを目的としている言葉である。
トレッキングの装備はバックパッキングといって、ナイロン製の縦型バックで、その形状がいかにも斬新だったといわれる。
この姿が、固くて重いコットンキャンバス製のキスリングスタイルのリュックサックが一般的だった当時の日本人登山家を大いに驚かせたといい、その後、この様なナイロン製のバックパックが導入され、次第に普及していって現在に到ったと言われる・・。


その大型のキスリング・スタイルで表尾根を行く・・。
ヤビツ峠から二の塔、三の塔までは順調な登りであったが、烏尾山から行者ヶ岳を経て新大日岳に至るまではアップダウンも激しくなり、山の様子も一変する。
ヒヤリとする岩場もあり、鎖場も現れ、重量のキスリングの影響もあって相当の疲労を感じている。そして木ノ又大日からの最後の詰めは標高差約100mの登りで塔ノ岳山頂(標高1,490m)へ達する。

本日、11月2日は日曜、次の3日は祝日でもあり、山は紅葉の時期の真っ盛りであり、山々の広葉樹は真っ赤とまではいかないが、黄色や褐色に染まっている。
こんな時期でもあろう・・、登山路は大勢の登山客で大賑わいである・・。
塔ノ岳山頂は、数回来てお馴染みであるが、余りの人の多さにビックリである。
平坦な山頂からは広大な展望が楽しめるはずだが、上空は遥か霞がかかっているようで余り眺望は望めなかった、それに、人の多さも手伝って早々に山頂を後にした・・。

尊仏山荘の脇から「丹沢山」への道は始まが、ゆっくり歩いても塔ノ岳から丹沢山へは片道1時間強であろうか・・?。
塔ノ岳山頂からは下り一方の道が暫く続くが、降りきったころにあるのが「日高」(ひったか)というところで、やや湿地帯とも云うべき所に木道なども敷かれてあった。

ここからは竜が馬場までフラット&アップダウンの道が続く。
この付近は山奥のため既に紅葉も終わったのであろうか・・、風によって木々がサラサラと葉を落としているのが何とも風情を感じるのである。
ほぼ中間地てあろうか、竜が馬場のベンチでしばし休憩とする。周辺はブナの巨木やシロヤシオツツジの樹林が取り囲み、気持ちの良いところである。
笹尾根ともいうべき、笹の茂った登山道を上り下りを繰り返すうちに、どうやら「丹沢山」の山頂に到着したようである。

後編に続きます・・、「丹沢山頂で難渋・・、」


丹沢物語(7)

2008年07月23日 | 丹沢物語

「丹沢の渓谷」


裏丹沢、早戸川源流「早戸大滝」

次に、丹沢は渓谷、沢も魅力のあるところである。
「丹沢」の名称の由来は、秋になると山が赤く(丹は赤い意味がある)染まるからとか、アイヌ語のタンザであるとも言われるが、朝鮮語でタン(谷)からきているのが納得であろう・・、丹沢は真しく谷沢の山なのである。

渓谷は比較的明るく、新緑と秋の紅葉は素晴らしい。
渓谷下部はそのわりに広く、ゴーロ石が多い、これは大正期に起きた、あの関東大震災の震源地であり、この時大幅な崩壊現象があったという。中域から奥域にかけては大小の滝が連続し、山稜直下はガレや岩場が急峻となって突き上げる。 

丹沢の沢歩きは夏場が最適で、技術に応じて初級から超上級までバラエティーに富んでいる。
小生も主に表丹沢の沢である葛葉沢、新茅の沢、モミソ沢、本谷沢など比較的安易な沢に入っているが、沢歩きの楽しみの一つに渓谷植物・山草を眺めることでもある。
イワシャジンやランの類、イワヒバなど珍しいのが観られる・・、時には1株、2株頂いたこともあったが・・。

表丹沢の沢はどちらかと言うと、初級から中級クラスの沢が多く、比較的距離も短い。
丹沢の沢といえば、やはり西丹であろう・・、山そのものが奥深いため渓谷、沢も深く、大きく、急峻である。
主な渓谷では玄倉川水系の小川谷、ユーシン最奥部の各沢や中川川水系の東沢、西沢の各渓谷は初級から上級までバラエティに富み、渓流、滝も大きく険しいようである。
丹沢湖の西から流れ込む「世附川水系」は、もっぱら渓流釣りに人気があるようだ・・。

ここで、丹沢の滝のうち「大滝」を紹介しておこう・・、その名も「丹沢大滝」(早戸大滝ともいう)という。
宮ヶ瀬湖から早戸川に入ると林道が続く、観光センターまで車で入れるので、ここから先は徒歩になる。
雷平まで山道や河原を辿りながら、幾つかの枝沢を渡りきると本沢の早戸川は左の沢に入る、更に進むと右手から本谷沢が左手から大滝沢に出合う。
大滝沢に入ると間もなく三段の滝が見えてくる、これが早戸大滝である。 険しい尾根筋の直下にあって、この上は、かの丹沢山である・・。


昔は、山と言えば若者の独壇場であった・・!!。
丹沢は昔も今も大繁盛であるが、今はやはり中高年の登山ブームもあってか高齢者が大多数を占めるようであ、山も大分様変わりしたもんである。
丹沢は東京に近く、手軽に行ける、谷川と丹沢は東京近郊にあって大衆登山の二大流行地なのである。そして、谷川岳に劣らずこの山も遭難事件が頻繁に起こっている。特に、近年は高齢者の事故が多く、経験未熟な単純な遭難が起こっているらしい、小生も高齢の域に達したが心したいものである。

現在、丹沢山地は首都圏近郊の山として、年間30万人以上の登山者、100万人以上の観光客が訪れる。登山、ハイキング、沢登り、渓流釣り、キャンプなど多彩で、帰途の最にはそろぞれの温泉も楽しめる。(東丹沢の各温泉や鶴巻や中川温泉等々)、レジャーや保養レクリエーションのエリアとして賑っている。


「そうだ、丹沢へ行こう・・!!。」
尚、次回からは、実際の丹沢山塊への入山の記録です。