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織内将男の山旅の記録

若かりし頃よりの山旅の記録です・・!!

南ア・鳳凰三山紀行(30) 「鳳凰山大神」

2012年06月16日 | 南ア・鳳凰三山紀行
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南ア・鳳凰三山紀行(30) 「鳳凰山大神」 .







オベリスクの麓にある鳳凰山大神と祠




鳳凰山をを象徴する地蔵岳のオベリスクは天然の石碑で、その造形美は見るからに神々しさおも感じさせる。
この天然自然の佛形は昔の人たち、特に山岳修験者たちの信仰心をいやが上にもソソッタに違いない。
よく観ると花崗岩質の岩山の風化作用によるもので、その基部は砂に被われていて現在もその浸食作用が進行しているのが判る。
地球の時間経過を考えるときの遠い遠い将来には、やがて消えてゆく運命なのであろうか。


オベリスクを下りてくると岩の隅に「鳳凰山大神」と書かれた碑があった。
角柱の標柱にがあり、直ぐ横に祠が祀ってある。

気がつくのだが、隣の高嶺・甲斐駒ヶ岳も古くから信仰の対象となっている。
山梨県側の山麓の横手・竹宇両集落には駒ヶ岳神社が鎮座しており、そこから山頂にいたる信仰の道・黒戸尾根には現在も信仰にまつわる多くの石碑や石仏が残り、山頂には横手駒ケ岳神社の奥宮の石碑が立つ。


一方、この鳳凰山系には信仰の厚い山なれど、現在に至っても参詣の象徴である神名備(神の鎮座する山や森、神社の森)や社宮仏閣というのは存在していない。
だが、鳳凰山には猿田彦や鳳凰山大神が祀られている。

鳳凰山大神とは自地神の山の神名で、本来なら日本神話に登場するような山の神が祀られていたのであろう。
それが平安期以降の神仏習合によって神と仏が合体し、ゆくゆくは仏が神に成り代るという所謂、日本の神は本地である仏・菩薩が衆生救済のために姿が変わったという、本地垂迹説が一般化してしまう。



地蔵岳の大岩塔(オベリスク)は、大日如来の化身であるともされている。 
元より、本地垂迹でいう天照大神の本地は大日如来だとされている。

しからば自地神である鳳凰山大神とは、本来は天照大神のことかも知れないのである。
ご存知、天照大神は八百万の神の中でもトップに属する太陽の女神なのであり、日本国の祖神である神武天皇の直系にあたる皇祖にの神でもある。
そして、燕頭山の下に当たる旭岳の山頂には猿田彦が祀ってある。


先にも記したが、猿田彦とは道祖神のことも言われ、登山道に登山の道標と安全を祈願するために祖神が祀ってあるのは極めて自然であろう。
猿田彦(サルタヒコ)は、日本神話に登場する祖神で、「古事記」や「日本書紀」の天孫降臨の段に登場してくる。

邇邇芸尊(ニニギ)が天降りしようとしたとき、高天原から葦原中国(日本国土)までを照らす神がいた。 
その神は鼻が長く、背丈は大きく、目が鏡のように、ホオズキのように照り輝いているという。 そこで天照大神(アマテラス)、その神の元へ遣わして誰であるか尋ねるよう命じた。 

その神は国津神(天津神は高天原にいて天降った神の総称、それに対して国津神は地に現れた神々の総称とされている)の猿田彦で、邇邇芸尊らの先導をしようと迎えに来たのであった。
猿田彦は天照大神に指示で天孫降臨の際に邇邇芸尊を道案内をしたということから、道の神、旅人の神とされるようになり、道祖神と同一視されているのである。



次回、 「赤抜沢の頭




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南ア・鳳凰三山紀行(29) 「ウエストン」

2012年06月15日 | 南ア・鳳凰三山紀行
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南ア・鳳凰三山紀行(29) 「ウエストン」




上高地にあるウエストン・レリーフ



地蔵ケ岳の岩塔は高さは、実は基部から26メートルともいわれる。
甲府からもよく見え地蔵仏、大とんがり、オベリスク、ウエストンピークなどと呼ばれていて、その名の通り山の頂に立つ天然の大仏塔である。
1904(明治37)年7月、イギリスの宣教師ウォルター・ウエストンが初めて頂上に立ったといわれ、その名がついたのであろう。


ウエストンは(1861~1940)はイギリス人宣教師であり、日本に3度長期滞在した。
日本各地の山に登り『日本アルプスの登山と探検』などを著し、日本アルプスなどの山及び当時の日本の風習を世界中に紹介した登山家でもあり、訪日の前後にはマッターホルンなどのアルプス山脈の山に登頂している。

新婚早々1902年(明35)6月、ロッククライマーのエミリ夫人を伴い再来日し、2年後に夫人と一緒に地蔵岳のオベリスクを登ったといわれる。
1905年3月に帰国するとき、銀行員で山岳随筆家の小島烏水らを晩餐会に招き、欧州各国にあるような登山クラブを日本にも作るように奨め、小島ら7人は同年10月、登山愛好家393人を集めて登山会を設立している。
1909年(明42)に日本登山会と名付けて小島を初代会長に、ウエストンを名誉会員に推戴した。

小島烏水は四国・高松出身の登山家としても知られ、山旅や旅を趣味として「日本風景論を著わし1905年、日本山岳会の初代会長となる。
「日本アルプスの登山と探検」を書いたウォルター・ウエストンとの交流によって、烏水は甲斐の山々に興味を持ったとあり、槍ヶ岳を登った烏水にウェストンは興味を持ち、両者の間で文通が頻繁に行われた。

烏水は、『山岳文学序』の中で、
『今日の苛烈なる戦局下、山川跋渉記の如きは閑文学として憚られる如くであるが、自然の王者としての、山の有つ美しさは、人間性の美しさを、研ぎ出す明鏡ともなる。思うに祖国日本の山々は、今日いよいよ偉大なる親愛の言葉を、南洋東亜の山々の戦士たちにも、遥かに投げかけるであろうし、南洋諸島の何々富士は、本朝の富士山と、母体を同じうする一系統の生い立ちと、普遍性の合い言葉を有しているであろうことを考へれば、此際、山岳文学を講じ、山岳紀行文学を発表することを、あながちはぢるには及ぶまい。』と記している。

2009年に公開された映画・『劒岳 点の記』では、陸軍参謀本部陸地測量部測量隊である柴崎芳太郎の好敵手として描かれている。
1907年(明治40年)、古来から前人未踏の「死の山」といわれてきた北アルプスの名峰・剣岳(2999m)に、不屈の闘志、献身の心、仲間の絆を信じて挑んだ男たちの物語で、山岳小説の創始者ともいわれる新田次郎作品を基に製作された。

しかし実際は、烏水は剣岳へは登頂しておらず、陸地測量部や柴崎芳太郎との交流も無かったのではとされている。



大きな岩が積み重なった中から巨大な2枚の花こう岩が伸び上がっている。
因みに、「オベリスク」(obelisk)とは、
古代エジプトのファラオ(古代エジプト王の称号)が記念碑として作った四角錐の柱塔で、先端はピラミッドの形をしているといわれる。 
太陽神の神殿の前に建て、柱面には王の事跡などを記す銘文や図案の刻まれたものも多い。 古代エジプトの作ったものを、ローマ皇帝などがそのレプリカを作ったともいう。 1メートルに満たない小さなものから30メートルを超える大きなものまで,実際多数のオベリスクが作られたが現在,大型で野外に立っているものとしてはエジプト、イタリアをはじめフランス、イギリスなど全部で30数本しか残っていないという。



次回、 「鳳凰山大神」





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南ア・鳳凰三山紀行(28) 「オベリスク」

2012年06月14日 | 南ア・鳳凰三山紀行
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南ア・鳳凰三山紀行(28) 「オベリスク」








オベリスク基部


オベリスク





真っ白な砂と大きな岩に無垢な神秘的なものを感じる。
30分も進むと最高峰観音岳(2840m)で、そこからは富士山が青空に映えている。
賽の河原を見下ろす地蔵岳(2764m)は白い巨岩というか、奇岩のようだ。
2~5mはあろうかと思われる縦長の白い岩で無数に青い空に縦に何本も重なって林立している。

ここの岩で岩登りの訓練をする人が多いという。
神・仏の多い神聖な場所で大丈夫なのかと、変な心配をするが、何だか登りたくなるのも山家としての心意気かもしれない。

暫く、圧倒的な展望を満喫してから、目の前のオベリスクの岩頭に登った見ることにした。
地蔵岳の天辺まで登るのは小生の技術・装備では無理そうなので他の人も登っている最後の大岩の基部まで登ることにする。
オベリスクの二つの巨岩の間にロープが何本も垂れているので、それにつかまってエッコラ、ヨッコラ。
岩にも足をかけられるホールドが刻まれているので、わりと何なく登れる。
オベリスクは写真で見ていて知ってはいたが、想像以上にかなり大きい岩である。
天候が良かったこともあって、南アルプス、八ヶ岳が良く見える。
しかし最後の大きな岩まで来ると相当な高度感である。
岩はしっかりしているしロープが掛かっているので不安感は無いが、遠くまで見渡せることもあって高度感は相当なものである。
結構高度があるので登りごたえもあり、充実感もあって、オベリスクからの見晴らしもまた最高である。
自信が無く、不安を覚えたら引き返す勇気も必要であろう。

オベリスクに登って周りを見ると 雲がかかったり晴れたりはしているが八ヶ岳から北岳方面まで良くみえた。
天気予報ではとても展望は期待できそうに無かったがこれなら大いに満足である。
オベリスクの影になって富士山は見れなかった


『 全山総じて尊仏となし、尊仏総じてオベリスクとなす 』



次回、 「ウォールター・ウエストン





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南ア・鳳凰三山紀行(27) 「地蔵和讃」

2012年06月13日 | 南ア・鳳凰三山紀行
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南ア・鳳凰三山紀行(27) 「地蔵和讃」






山上のお地蔵さん






『地蔵和讃』

これはこの世のことならず  死出の山路の裾野なる
さいの河原の物語  聞くにつけても哀れなり
二つや三つや四つ五つ  十にも足らぬおさなごが
父恋し母恋し  恋し恋しと泣く声は
この世の声とは事変わり  悲しさ骨身を通すなり

かのみどりごの所作として  河原の石をとり集め
これにて回向の塔を組む  一重組んでは父のため
二重組んでは母のため  三重組んではふるさとの
兄弟我身と回向して 昼は独りで遊べども
日も入り相いのその頃は  地獄の鬼が現れて
やれ汝らは何をする  娑婆に残りし父母は
追善供養の勤めなく  (ただ明け暮れの嘆きには)
(酷や可哀や不憫やと)  親の嘆きは汝らの
苦患を受くる種となる  我を恨むる事なかれと
くろがねの棒をのべ  積みたる塔を押し崩す

その時能化の地蔵尊  ゆるぎ出てさせたまいつつ
汝ら命短かくて  冥土の旅に来るなり
娑婆と冥土はほど遠し  我を冥土の父母と
思うて明け暮れ頼めよと  幼き者を御衣の
もすその内にかき入れて  哀れみたまうぞ有難き
いまだ歩まぬみどりごを  錫杖の柄に取り付かせ
忍辱慈悲の御肌へに  いだきかかえなでさすり
哀れみたまうぞ有難き  南無延命地蔵大菩薩


「地蔵和讃」にはいろいろあって、作者によっては勿論のこと、それが唄われた地方によっても、たとえ同じ表題でも歌詞が違っているという。     


江戸時代になって地蔵信仰は民間信仰と結ばれて広まり、子育・火防・盗難除・病気平癒など庶民のあらゆる願いをかなえてくれる仏として各地につくった。
また、各地に地蔵講が結成され、各月に地蔵の縁日を決め祈るようになり、地蔵盆は子供たちを楽しませてきた。
冥府(冥土、冥途;死者の霊魂が迷い行く道。また、行きついた暗黒の世界)において亡者を救う思想は、子を失った親たちの信仰を集めると同時に、地蔵と子供は強く結びつき、子育地蔵・子安地蔵の名で各地に地蔵信仰という名で信仰されている。

鳳凰山、地蔵岳の名前から想像で出来るように、この山は古くから山岳信仰登山が盛んであったの山で、この賽の河原から奈良時代と思われる仏や古銭も発掘されているという。
そういえば先にも記したが、この鳳凰山には奈良時代の天皇であった孝謙天皇がお登りになったという伝承がある。



次回、 「オベリスク」





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南ア・鳳凰三山紀行(26) 「賽の河原地蔵」

2012年06月12日 | 南ア・鳳凰三山紀行
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南ア・鳳凰三山紀行(26) 「賽の河原地蔵」



賽の河原



地蔵仏
(稜線付近、吹きっさらしの賽の河原に無数に立つの地蔵仏)


昨年秋、同じ山梨県の「大菩薩峠」を訪れたが、丁度、峠の上部に「賽の河原」があった。この地は、昔の大菩薩峠とも言われるところである。
小説・「大菩薩峠」でも有名であるが、中里介山氏はこの大菩薩峠をイメージして書いたのだろう。 当地の賽の河原の様子を次のように記載している。

『 どうじゃ与ハ、恐ろしいことではないか。頑是(がんぜ)ない子供がやっと積み上けた小石の塔を、鉄の棒を持った鬼が出て来て、みんな突きくずすのじゃ。なあ、これを他人事(ひとごと)と思ってはいけないぞ、追善作善(ついぜんさぜん:先祖や死者に対する供養)のつとめというをせぬ者には、みんな鬼が出て来るじゃ、何をしてもみな成り立たないで、みんなくずれ出すのじゃ。よいか、他人事と思ってはいけないぞ 』


又、更に「賽の河原」で思い起こすところは、北八ヶ岳の白駒の池から稜線の高見石を経て渋の湯へ至る途中、高見石からの西側斜面が広大な礫石群に覆われていて、この一角を賽の河原の称している。
高見石から渋の湯までの道は物凄い大岩、岩、岩の連続で、炎天下の賽の河原をピョンピョンと下らなければならず、足に痛みが走ったのを昨日のように覚えている。


そんなわけで賽の河原には普通、多くのお地蔵さんが願いを込めて祀られている。
因みに、「お地蔵さん」として親しまれている地蔵菩薩は、六道(衆生が善悪の業によっておもむき住む六つの迷界のこと、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天のこと。六観音・六地蔵・六道銭・六道の辻などはこれに由来する)で苦しむ衆生を教化・救済する菩薩でもある。

日本では平安時代から広く信仰されるようになり、一般的には左手に宝珠、右手に錫杖を持っているとされる。 また、その姿は頭を丸めた僧の形をしていて、六道の救済に当たることから、六地蔵の信仰が生まれましたとする。
又、子どもを守るということで、幼くして死んで賽の河原で苦しむ子どもを救済、賽の河原でお地蔵さんが子供を庇護する話は「地蔵和讃」によって民衆に広がり、それらにもとづいて多くの地蔵石仏がつくられたという。

これは「賽の河原地蔵」の物語である。
話の概略は、あの世にいたる途中にある河原が賽の河原である。親に先立ち死亡した小児がこの河原で父母の供養のため小石を積んで塔を作る。すぐに鬼が来てそれを壊す。また積み始める。際限のない労作業が続く。そこへ小児を救いに地蔵菩薩が現れる、という話である。



次回、 「地蔵和讃」





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