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織内将男の山旅の記録

若かりし頃よりの山旅の記録です・・!!

尾瀬紀行(14)尾瀬 「燧ケ岳」

2011年06月19日 | 尾瀬
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 尾瀬紀行(14)尾瀬 「燧ケ岳」  ,



燧ケ岳」の山容は富士形の円錐形の弧峰で、晴れた日には360度の展望が楽しめ、頂上は柴安、俎、ミノブチ岳、アカナグレ岳、御池岳など五峰から成り立っている。

余り知られていないが東北以北では最高峰の峰であり、因みに、群馬・上州側と福島・会津側との県境は尾瀬沼の中央を分け合っている。

一方、燧ケ岳とは対照的な「至仏山」は尾瀬ヶ原の西側に位置し、なだらかな山容で相対峙している。 
見るからに至仏がたおやかな女性的な山なら、燧は男性的に毅然として実よく、登山意欲を駆り立てるのである・・!。


燧ケ岳は標高2,356mで福島県に属するため、東北では一番高い山であり、同時に尾瀬界隈は一番新しい火山性の山岳でもある。
実は、燧ケ岳の噴火溶岩により、堰き止められて出来たのが尾瀬沼で、海抜1,665m、周囲約8km、水深約9.5mの山岳堰止湖であった。

湖畔周辺は大江湿原、小淵沢湿原、田代といわれる湿原群が取り巻き、季節ごとに様々な美しい花を咲かせているのは周知である。
因みに、尾瀬沼の西側、白砂峠を越えた「尾瀬ヶ原」は、標高1,410mで東西約6km、南北約2kmの規模で池塘やその中の浮島、河岸の拠水林などの大湿原を形成している。


上記のように、尾瀬ヶ原より尾瀬沼のほうが255mも高いのである。
従って、尾瀬沼の水は沼尻川となって尾瀬ヶ原を潤し、更に只見川、阿賀野川の大河となって日本海に注いでいる。 
つまり尾瀬沼は阿賀野川の水源地域でもあるのだ。

次回、尾瀬は高原か山か・・?



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尾瀬紀行(13)尾瀬  「雪の尾瀬沼」

2011年06月18日 | 尾瀬
大清水⇒三平峠⇒尾瀬沼⇒沼尻⇒燧ケ岳⇒御池(泊)⇒裏燧林道(田代群; 御池田代、姫田代、上田代、ノメリ田代、横田代、西田代、天神田代、兎田代)⇒三条の滝⇒平滑の滝⇒赤田代⇒下田代(見晴十字路)⇒白砂峠⇒尾瀬沼⇒長蔵小屋(泊)⇒大清水
(昭和48年(1973年)5月3日~5日)




 尾瀬紀行(13)尾瀬 「雪の尾瀬沼」  ,




未だ雪を被る尾瀬沼と燧ケ岳




三平峠からは尾瀬沼に向かう木道は急な下りとなる。
展望の効かないうっそうとした森から、やがて前方の見通しの利く個所も出てくる。 
尾瀬沼や本日の目的地・「燧ケ岳」の鋭峰もチラホラ見渡せる。


尾瀬沼方面へと15分ほどの下りで、階段状に置かれた木道をリズム良く降りると、眼下には尾瀬沼や大江湿原を望むことができた。
やがて登山者の声と山小屋が見え、三平下に到着する。

あの絵のような景観がとびこんできたのだが、一昨年の白と緑と茶色の三層の世界とはチョッと異なって、今は未だ白と茶褐色の二層の世界であった。


尾瀬沼湖畔は未だ完全に雪の下にあり、多いところでは1メートルもありそうであった。
尾瀬沼は冬季全面結氷する。
実際は結氷というより、雪で埋まると言った方が適切なのかも知れない。 

厳冬期には沼の上を歩いて渡れるようになるらしいが、今の時期は(五月初旬の連休)は気温も上がり、氷結した湖面も緩み始めているので立入り禁止になっている。
普通、尾瀬沼に入るには大清水まで車で入れるのだが、大清水までの道路が開通する時期と前後して尾瀬沼の氷が弛み、上を歩けなくなるともいわれる。
どちらが先になるかは,その年の積雪量や気温の変化によって変わってくるのは当然である。


天候は快晴の上天気とまでは言わないが、薄い高曇りのため展望は十分に満足できるものであった。
白い湖面からヌーと立ち上がっている「燧ケ岳」はさすがに尾瀬を際立たせる名峰である。 

尾瀬一帯は何処を見ても、何処から眺めても各ショットが素晴らしいが、特に夏季、満々と水を湛える湖面に映す「逆さ燧」は、この地から望めると尾瀬随一の景観ではないか、と小生は勝手に思っている。

この後、あの名峰へ挑むことになる・・・!!。


次回、「燧ケ岳




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尾瀬紀行(12)尾瀬 「三平峠」

2011年06月16日 | 尾瀬
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 尾瀬紀行(12)尾瀬 「三平峠」   、






五月初旬の三平峠と峠付近からの燧ケ岳




ジグザグの登山道をやっとのことで登り、周囲の風景が見えるようになったら急な登りは終わりで、そこからは樹林帯の中をなだらかに登る木道となり、その先に三平峠の頂上があった。

三平峠は、峠といっても針葉樹であるオオシラビソなどの深い森の中にあり、地図の看板とベンチがあるくらいで、峠らしい展望はない。
標高が1,762mあり、スタート地点の大清水が1190mであるから、凡そ570m標高を上げたことになる。 

登山時間は標準タイムでも2時間半の道のりだから、一山登ったと同じ様なものだろう。
従って、こちら大清水から三平峠を経て尾瀬沼に入るコースは、尾瀬周辺でも比較的辛いコースとなっているのが実情である。
だが、尾瀬沼へ到る三平峠(1762m)への苦しい登りはここまでである。


峠には、群馬県尾瀬憲章の看板があり、次のように記してあった。

一 尾瀬を訪れる人は、その自然を愛そう。
一 尾瀬に接する人は、その利用に責任を持とう。
一 尾瀬を尊ぶ人は、その景観を破かいから守ろう。
一 尾瀬に親しむ人は、その豊かな恵みに感謝しよう。
一 尾瀬に誇りを持つ人は、その美しさを後世に伝えよう。

尾瀬を後世に伝えることは、群馬県民あげての願いであろうが、全国の自然を愛する者の願いでもある。


半分雪に埋もれた木道の両脇にはベンチが設えてある。 
誰かが払ってくれたのだろう、半分雪に埋もれたベンチも表面は綺麗に装っている。 
ここで息を整えるべく一時の休息をとる。 

今は人っ子一人いない静寂の中で、遠く遠慮がちに小鳥の声が、“チチチチ・・・、”と聞こえてくるのみである。



ここ三平峠、そして福島県側の沼山峠は昔から尾瀬に入る交通の要所で、三平峠は古くは尾瀬峠と呼ばれていたらしい。 
幕末、この峠道は会津と沼田を結ぶために沼田街道と呼ばれ、戊辰戦争では会津藩などの東軍は檜枝岐の人々を道案内として峠付近を探索し、西軍(官軍)に戦いを挑んだといわれている。
ただ、何時、何の理由で三平峠という名称に変わったかは定かでない。

次回、「尾瀬沼



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尾瀬紀行(11)尾瀬 「一の瀬の岩清水」

2011年06月16日 | 尾瀬
大清水⇒三平峠⇒尾瀬沼⇒沼尻⇒燧ケ岳⇒御池(泊)⇒裏燧林道(田代群; 御池田代、姫田代、上田代、ノメリ田代、横田代、西田代、天神田代、兎田代)⇒三条の滝⇒平滑の滝⇒赤田代⇒下田代(見晴十字路)⇒白砂峠⇒尾瀬沼⇒長蔵小屋(泊)⇒大清水
(昭和48年(1973年)5月3日~5日)




 尾瀬紀行(11)尾瀬 「一の瀬の岩清水」   、




写真;現在の岩清水




ここ一の瀬から橋を渡ってすぐ左に入る。
ここから本格的な山道となるが、木道が整備されているので歩き易い。 

でも、木道にはそこここに雪が残っており、ちょっと滑り易い場所もある。 
丁寧に敷かれた石たたみの山道を通るたびに、ここを作ってくれた先人達に感謝の気持ちを感ぜずにはいられないのである。  


森の中は未だ多くの雪が残るが、足元にはところどころ山野草の新たな芽吹きも感じられ、一部のところでは群生もしているようである。 
周囲の木々はヤシオツツジの芽が大きく膨らんでいるのも確認できる。


ここから三平峠まで、約一時間のがんばり所である。
どんどん標高を増す「十二曲がり」とも呼ばれる登山道を登って行く。
標高が高くなるにつれて広葉樹から針葉樹へと自然の様子が移り変わりつつあるのが判る。 
併せて残雪の量も増えはじめる。

途中で息を整えながらも感じる山の清々しい空気や周囲の清冽な様相は、山歩きそのものの魅力を充分に感じることが出来る。



途中で「岩清水」があり、この湧き水で口を潤し、熱った顔を冷やしながら、再び、チョット休憩する。
きれいな清水が岩肌から湧いていて、実に清々(すがすが)しい。 
地元では「一杯清水」と呼んでいるようで、命の湧き水でもあった。



ところで、一の瀬まで平行しながら歩んできた車道は、右へ大きく迂回しながら山中へ消えていたが、ここ岩清水あたりで再び現してきた。 
しかし、この車道はこの先へは延びている様子は無く、この地で完全に途切れていた。

これで良かったのである・・!!。


昨年、この地を訪れたときは林道工事が盛んに行われていて、工事用のブルの音が騒々しく清冽な泉に反射して異様な音を発していたもんである。 
そして、その直後この岩清水は破壊されたようであった。

先にも記したが、実はこの岩清水は沼田街道の大清水から三平峠への伸長工事で、1971年6月、ブルドーザーによって無惨に潰されたのである。 

だが、この泉はその後、自然に近い状態で復元されたようではある。 
尤も、今ここの岩清水は今や塩ビ管を通して流しているので、風情がなく、やや寂しい感じは否めない。


次回、「三平峠



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尾瀬紀行(10)尾瀬 「古代の沼田街道」

2011年06月15日 | 尾瀬
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 尾瀬紀行(10)尾瀬 「古代の沼田街道」  、



もう一つ、この地域の点線国道を含む沼田街道は、古代・平安期の頃には開かれていたらしい。

平家全盛の頃、後白河天皇の第2皇子である高倉宮・以仁王(もちひとおう)は、専横を振るう平家に対して政権打倒を抱くようになる。 
そして、同調者・源頼政のすすめもあって諸国の源氏諸侯へ平家打倒の触れを出す。(治承・寿永の乱) 

しかし、反平家勢を当てに自らも挙兵を試みたが、準備が整わないうちに計画が平氏方に漏れ、頼政は討ち死に、高倉宮も討ち死にしたとされた。 
だが、一部に高倉宮は行方不明になっているともいわれていた。

この時、高倉宮・以仁王(京都三条の高倉の館に居を構えていたので三条宮ともいう)の屍体の確認が完全ではなかったらしく、伝承ではその場を逃れ、東海道から甲斐・信濃の山路を越え上野(群馬県)の沼田から尾瀬、桧枝岐に抜け、そして大内(大内の宿)にたどり着いたという。

この時、同行していた以仁王の臣下に「尾瀬氏」(尾瀬中納言藤原頼実)という者がいて、彼は村人に『 あの山の向こうには、素晴らしい景色の湿原や沼がある 』ことを知らせ、「尾瀬ヶ原や尾瀬沼」の場所を知ることになる。 

だが、従者の一人である尾瀬氏はこの地で負傷し、間もなく病気のために息を引き取る。 一行は沼の麓の湿原に塚を築き「尾瀬院殿大相居士」と改名し、手厚く葬ったという。 
この時以来「尾瀬」という名称が付いたともされている。 

尚、この時の尾瀬氏は、以仁王本人という説もある。
以仁王と頼政の挙兵は短期間で失敗したが、その後の影響は大きく、以仁王の令旨を奉じた源頼朝や源義仲、甲斐源氏、近江源氏などが各地で蜂起し、治承・寿永の乱(平氏政権に対する反乱)が起こり、正規の源平合戦への幕を開けることになる。



湯之谷村銀山平の一角に「尾瀬三郎」の銅像が立つ・・!。

説明には・・、
『 尾瀬沼の発見者である尾瀬三郎中納言は、左大臣藤原経房の次男という高貴な生まれ。今から800年ほど前、時の権力者・平清盛と一人の女性をめぐる争いに敗れ、都を追われこの地に流れ着いた。都を去る時に皇妃から渡された虚空蔵菩薩像を生涯肌身離さなかったという。この悲恋の物語は現在まで語り継がれている 』・・、とロマンチックストーリーとしての伝承があるようだ。


湯之谷村の伝承に、尾瀬大納言藤原頼国の話しが伝わる。
後白河天皇第二の皇子高倉宮・以仁王は平氏追討令を全国の源氏に発し、挙兵をうながした。(これが後に平家滅亡のきっかけとなる) しかし、ただちに平氏側に企ては発覚し、奈良街道井手の里にて三十歳で討死したとされている。 

しかし、伝説では以仁王はひそかに再起を計るべく脱出を図ったとしている。
一行は沼山峠を越え、越後へ向かうが、供をしていた藤原頼国は、弟頼実の眠る尾瀬のふもとに留まることを決意し、以仁皇も願いを聞き入れ、これより尾瀬大納言藤原頼国は尾瀬平に住むことになったという。

次回、「一の瀬の岩清水




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