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織内将男の山旅の記録

若かりし頃よりの山旅の記録です・・!!

尾瀬紀行(29)燧ケ岳 「尾瀬の湿原」

2011年07月09日 | 尾瀬
.




 尾瀬紀行(29)燧ケ岳 「尾瀬の湿原」    、



熊沢田代、広沢田代など燧ケ岳の北側には段状に広大な湿原が出現している。

尾瀬はもちろん湿原で有名であり、来訪者の九割は尾瀬沼、尾瀬ヶ原の風光もさることながら、湿原に生殖する水芭蕉などの可憐な植物群を見に来るのである。 
これら尾瀬一帯の高地、山岳地の湿原を「高層湿原」といっている。



小生、「日本一周の旅」で、特に北海道の沿岸地には釧路湿原やサロベツ原野などの低地などに湿原が多く点在しているが、北海道には実に日本の湿原の80%が集中しているといわれる。 
一部はラムサール条約など水鳥の生息地、渡り鳥の飛来地としても有名である。


では一体「湿原」とは何か・・?、
どのような過程で出来上がるのか、チョット探ってみたい。



湿原とは、大まかには多湿・低温の土壌に発達した草原のことで、動植物の枯死体の分解がされずに炭化し、地表に泥炭が堆積してできる現象である。 
構成植物や生態系の条件などにより低層・中間・高層湿原などに区分している。 
地方によっては湿原のことを谷地(青森)とか田代(群馬)とも称しているようである。


地質学辞典などによると・・、
『 湿原とは泥炭が堆積した上に形成される草原状の原野で、泥炭地ともいう。 一般に寒冷な気候条件の下に発達し、この条件のもとでは、枯死した植物の腐敗・分会が妨げられるので、遺体は泥炭となって堆積し、その上に次々と草原が生育していく。
一般に低層湿原(low moor)・中間湿原・高層湿原(high moor)などが区別されるが、低層湿原ではヨシ・スゲ類など、高層湿原ではミズゴケ・ヌマガヤ・ホロムイスゲなどが特徴的。日本では北海道の低湿地や尾瀬ヶ原などが有名 』 と明記している。


湿原は地質の変化過程の現象を表しているとも言われる。
湿原は、主に浅い湖沼や潟などが次第に堆積物で埋まり陸地化したもので、平地にある浅い湖沼は周囲からの土壌の流入、それに水中や水辺の植物の生長とその植物の遺体などによって堆積し、次第に浅くなり、終いには陸地と化す。 
所謂、地質の変化過程の一端を示すものである。

このような湖沼→湿原→森林(陸地)と変化していくことを湿性遷移とも言い、長い年月の間に陸化していく途中の草原地域が湿原なのである。

特に寒冷地では、湖沼やあるいは排水の悪い平坦地に生えていた植物の遺骸があまり腐腐食しないで堆積し、栄養分の少ない植物遺体が長期にわたり積もり積もって土壌を形成する。 

そのような湿原ではや表面の水分の栄養分が乏しいか、栄養分があったとしても地表にあまり染み出ないなどの特徴から、大形の樹木などが生育せずヨシ、アシ、コケ類などがよく生育する。 
従って、希少な野生の動植物が多く生息しており、世界的に貴重な生態系を形成するところもある。

国内の湿原では北海道など高緯度の地域や本州では高地、山岳地に多い。


湿原は、常に植生の生育、枯死、堆積を繰り返しており、機構や立地条件によって低層から中層、高層湿原といった姿に変化し、最終的には陸地へと変化していくものと考えられる。 

では、高層とか低層と言われる「層」とは何を意味するか・・?。
元より高層湿原とは、尾瀬のように高い山の上にある湿原という意味ではなく、湿原の植物が枯死して泥炭化し、それが次第に堆積した結果「層」になり、これが何層にも高く積み上がった状態をさしている。
因みに、この泥炭層は1ミリの厚さとなるまでに1年かかるといわれている。

その形状や植生から以下の三種類に分類される。


高層湿原
分解されず堆積した泥炭が多量に蓄積されて、周囲よりも高くなったために地下水では涵養されず、雨水のみで維持されている貧栄養な湿原を指す。 代表例に尾瀬ヶ原やサロベツ湿原があげられる。 植生はミズゴケ類が主体で温暖な地域では、枯れた植生がすぐに分解されてしまうため高層湿原は発達しない。 まれに、冷たい湧き水などがある場合に、それに近いものが形成される。 氷河期の遺存種など、貴重な動植物が生息する場合が多い。

低層湿原  、
一般には湿原と言うと低層湿原を指す場合が多い。 有名な北海道・釧路湿原の80%は低層湿原どという。 表面が平坦で地形面と地下水面とがほぼ同じで、湿原の表面まで冠水しているものを言う。 又、地下水で涵養されているため、集水域での開発はその地下水位を変化させ、周囲を改造しただけでも湿原は変質や減少が進み、さらには消失してしまうことがある。
余計だが・・、言うべきでないことを言ってしまったあとを「低頭失言」という・・?。

中層湿原  、
低層湿原から高層湿原に移行するときの湿原。 地下水で涵養され植生が維持されている低層湿原と、雨水のみによって植生が維持されている高層湿原との中間の性質を持つ湿原。


次回、 「湿原の進化



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尾瀬紀行(27)燧ケ岳 「広沢田代」

2011年07月08日 | 尾瀬
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 尾瀬紀行(27)燧ケ岳 「広沢田代」  ,





広々としたその名も「広沢田代」、正面の山稜は大杉岳




次第に透明度が増してきた天空は見通しも良く、燧ヶ岳の迫上がりも湿原全体も全て見通すことができる。
だが、地表は何せ全ては雪ノ下である。 
次回こそ本当の湿原を見に再びやってくることを心に決めた。

 
この木道が下りついたところは熊沢田代の最低鞍部であり、その後は下山ながら再び、僅かではあるが上っていく形になっている。 
階段状の雪面を一歩一歩進む。 
アイゼンは既に熊沢田代で脱いでいる。 

長時間の登行で身体はすっかり疲れているようであり、緩い上りであるがかなりハードに感じる。 
左脚がピクピクしはじまっていて、関節痛の危険信号を発しているようだ。

なだらかなピークを過ぎると再び樹林帯の急峻な下りとなる。 
ここへきて再びアイゼンを着用しようか思案したが、ママヨこのまま下ることにする。


シラビソやコメツガ、ダケカンバの潅木帯の中にアズマシャクナゲが密生している。 

見下ろすと、林の合間から大きな池塘が幾つもある広沢田代がぽっかりと森の台地に広がっているのが見える。 

左の下方には既に登山道の左側からは裏燧の小沢平方面や奥まで長い御池田代や上田代も良く確認出来、下田代も姿を現している。

併せて、平ヶ岳の向こうには、越後駒ヶ岳や中ノ岳が見えているが、その右に大きくギザギザな峰を見せているのは荒沢岳だろう、所謂、越後三山である。


樹林帯の急坂を抜けると正面に再び白の原野が広がった。 広沢田代(標高1,756m)である。

広沢田代は熊沢田代よりは規模は小さいが、大小の池塘が数多く、高層湿原の植物が豊富なことでも知られる。 
今は無論、雪の下であるが、よくよく見ると水ッ気を含んだ黒ずんだ部分が染み出ていてそれらしい姿を見せている。

こちらも中央部に休憩エリアがあるらしく、案内標柱が広沢田代を示している。 
通過するのは勿体無い気もするので、取り敢えず小休止をする。

すぐ眼前は大杉岳であろう、そこからなだらかに派生してい会津駒に達している。 
明日、体調が良ければ会津駒を往復する予定であるが、左足がチョット、ビビリつつあるので明日の状態によってであろう。 


次回は、「尾瀬の湿原



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尾瀬紀行(26)燧ケ岳 「熊沢田代」

2011年07月07日 | 尾瀬
.



 尾瀬紀行(26)燧ケ岳 「熊沢田代」   ,




熊沢田代から燧ケ岳を望む



急斜面の森林帯を抜けると信じられないような光景が広がっていた。
眼前には大雪原が広がっており、会津駒ヶ岳の稜線もきれいで遠方は平ケ岳、越後駒、荒沢岳などの会越国境の名峰が雪原を前景にして連なる。 


ここは「熊沢田代」で、本来なら池塘に長い木道が敷かれていて、ベンチからは水生植物の群落・キンコウカ、ワタスゲ、トキソウなどが咲き乱れるところである。 
その構図は尾瀬屈指のビューポイントで、燧ケ岳を目の前に「尾瀬で一番美しい道」とも言われるところである。


見通すと、今は真っ白い雪の原っぱが広がるのみで、ただ、木道部分がややせり上がり、道筋、ふみ跡もしっかり確認できる。


本来、階段状の木道が付してあるが、今は雪面の緩い斜面をゆっくり下ってゆくと、間もなく平坦な中央部の休憩地に達した。 
誰が払ったのか休憩スペースの木道広場のベンチ部分だけが露出していて、お陰で快適に休憩を取ることができた。


気が付くとこの地は南北の傾斜地の中央にあたり、つまり、湿原の底の部分に相当する。 
絵や写真でみても判るとおり、この部分の休憩地の両側には池塘が存在しているはずであるが、今は雪の閉ざされていて現物を見ることはできない。 
ただ、その面影が何となく判るような気もする。


因みに、シーズンともなると熊沢田代は緑の草原、秋には草紅葉が広がり、その中央に湿原の中を木道がうねりながら伸びている。 
そして、木道を挟んで佇んでいる二つの池塘との景観美が見事にマッチして、更に、で南に燧ケ岳、北側には会津駒のたおやかな峰との景観バランスが見事に絵になっているのである。 

人によっては尾瀬界隈では、一番の景観地はこの地であるともいう。
7月ともなるとワタスゲの花群落、8月上旬はキンコウカの花群落が乱舞する。

尚、田代とは普通、田や苗代のことであるが、尾瀬やその周辺では湿原のことを「田代」と呼ぶ場合が多い。 

尾瀬ヶ原も大きく分けて、西側より上田代、中田代、下田代に区分されているようである。



大休止の最中、6人程の中年女性と思しきグループがやってくる。 
かなりの軽装でワイワイガヤガヤ賑やかそうである。

重装備でたった一人の小生を見て、さも珍しそうに・・、
「大変そうね、どちらから・・?」
「あの天辺から降りてきたの・・?」
「一人で大変ね・・!」
「これからどちらへ・・?」
「今度、私たちも頂上へ行ってみたいわね」

などど各人が興味本位で聞いてくる。
”どちらから・・、” もないもんである。  道は一本のみで、登りか下りだけなのである。 

やや閉口しながら、適当に答えていたが、よく見ると小奇麗で、品の良さそうなご婦人方であり、趣味の会のグループで時折、関東郊外等ににハイキング程度の山歩きを楽しんでいるらしい。

今回は桧枝岐まで旅行に来たらしいが、天気も良さそうなので宿の主人の案内、紹介で御池まで送ってもらい、ここ熊沢田代まで観光ハイクに来たとのこと。


貴婦人達・・? に囲まれて悪い気はしないが、多勢でやや圧倒されそうでもある。 
そそくさと支度をして熊沢田代を後にした。


次回は、「広沢田代




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尾瀬紀行(25)燧ケ岳 「下山」

2011年07月06日 | 尾瀬
.



 尾瀬紀行(25)燧ケ岳 「下山」  ,





燧ケ岳下山途中から観る、熊沢田代付近と会津駒の連山




周囲の連山を飽くことなく眺め、心身ともに満足して下山することにする。
先ずは石祠に無事な下山をお願いして山を降りる。 
下山路は熊沢、広沢の両田代から御池方面へと降りることになる。



爼山頂から、いきなり急斜面の雪面が待っていた。
見晴らしの良いところを下るが、景色に見とれている場合ではない。 
足元を充分見つめ、ステップを充分確かめながら一歩一歩下る。 

幸い踏み跡は充分に有り、見通しの良いところでなので迷う心配は無く、また、急斜面ながら雪が充分に締まっているので、雪崩の心配も無いようだ。

雪を被った大きな岩塊、ハイマツの急坂、シャクナゲのトンネルを下りながら、気が付くと眼下の熊沢、田代の雪の原っぱが(本来は湿原)、幽山の楽園のように輝いている。 
その上に、会津駒をはじめ西会津の山塊が圧倒的である。
  

山腹をトラバースするように高度を下げ、再び樹林帯へ入る。 
ハイマツ、シャクナゲ、ダケカンバの樹林帯、そしてナナカマドなどの潅木林と植生の変化も面白い。


一つのパーティーがスキー板を背負って上がってきた。

「お疲れさん、頂上まで行かれるんですか・・?」
「ハイ・・!」
「見通しも良く、今日は最高ですね。 お気をつけて行ってらっしゃい」
「ありがとうございます」


こちらは下りだから気が楽である。
あちらは重たいスキーの板を担いでの登行であり、それに、歩いて登るのは大変であるが、スキーで滑る降りるのは一瞬である。

小生もスキーは若干やるが、ゲレンデスキー専門で山スキーは残念ながら経験がない。 
チョット羨ましい気がしないでもないが、それにしても山頂直下の急斜面は大変だろうな・・!。 
後は潅木帯の林間を縦横に駆け抜け、両田代の大雪原を滑りながら、御池へ降りるのであろう。 
確かに陽気もよく、時節柄、雪も充分締まっているし、又、燧ケ岳のコースは山スキーとしての条件も整っているようである。  


ところで、気が付いたが彼らの背負っているスキーの板は通常のゲレンデ用の板と違って、やや細めであり、取付け金具もシンプルである。 
つまり、「テレマークスキー」だったのである。

テレマークスキーはゲレンデでも時折見かけるが、其の滑り方は特徴があって、回転するときは踵(かかと)を固定しないために脚を交互に出しあい、重心を低くしてターンすることであろう。 

テレマークスキーは、主に「山岳スキー」で採用されやすいスタイルで、用具がシンプルかつ軽量で、ブーツの柔らかさも相まって歩きやすいのである。 
板にシール(滑り止め)を着けると、緩斜面ならそのまま登ってゆける利点もあり、山歩きとスキーを同時に楽しむことができるのである。


次回は、「熊沢田代




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尾瀬紀行(25)燧ケ岳 「燧ヶ岳神社・・?」

2011年07月05日 | 尾瀬
.



 尾瀬紀行(25)燧ケ岳 「燧ヶ岳神社・・?」  ,



尚、「燧ケ岳」の山名の由来について、『新日本山岳誌』よると・・、(要旨)

『 福島県と群馬県の境界線は尾瀬沼を通っているが、藩政時代も境界争いが絶えなかったため、元禄11年(1698年)6月2日に沼田領土出村と会津領檜枝岐の山守や名主が境界を尾瀬沼と定めたと古書にある。 そのため古来、尾瀬沼を「さかひ沼」とも呼んだ。 
沼田街道筋は檜枝岐村の草創のころからあったと思われ、平安時代の村の記録にもあることから隣国との境界争いが長い間つづき、現在でも取水計画が問題となっている。 (中略) 雄大な山姿は古くから燧大権現として崇められ、星家に伝わる『家寳記』(家宝記)巻十三によれば次のようにあり、本村内の愛宕神社境内に社殿を建立して現在に至っていることが分かる。 「燧大権現 有会津郡檜枝俣山 是ハ燧嶽ノ頂ニ天長九年壬子「葛木一言主命」ヲ祭村民為鎮守」 天長九年壬子は832年にあたり、駒形大明神は弘仁七丙甲(816年)に鎮守崇神と同書にあるので平安時代初期に両山は開山されていたことを知ることができる。 近年になって平野長蔵は1889年8月20日に俎に登頂し、同年9月24日に石祠を建立した。 平野長蔵は神官の資格を得て、自ら神事を司った。 』 

と記されている。


ただ、山頂石祠は檜枝岐本村に祭られている燧ヶ岳神社の奥の院としたとあるが、檜枝岐には燧ヶ岳神社はどうしても見当たらず、本村には檜枝岐歌舞伎でも有名な愛宕神社が鎮座するのみのようだ。 

燧ヶ岳神社は、火を噴く山であったことから火打ち山ともいわれ、火を鎮めるために社でもあり、このことは愛宕神社の由来由緒も同様の意味をもつ。 

或は、燧ヶ岳神社と愛宕神社は、名前を替えた同一神社ではないか・・??。


尚、「燧ヶ岳」は、凡そ500年前にも噴火した若い火山といわれる。 
この時、檜枝俣の七入地区あたりには影響を及ぼしたとされているが、燧ヶ岳の溶岩ドームはたいへん穏やかに出現したらしく,その為か麓の檜枝岐そのものには損害らしいものなく、噴火の模様を書いた古記録なども存在しないという。 
500年前というのは16世紀で、室町期の末期から戦国時代に当る。

実際の激烈噴火の年代は地質学的に云えば凡そ8,000年前頃とされ、この時、山体崩壊を起こして尾瀬沼や尾瀬ヶ原が生成されたとされている。



真正面にのびやかな会津駒の山容が実に堂々として良い。
そして、すぐ隣に見えている同じようなピークである柴安は、頂上の外輪山系では最も標高があり、所謂、燧ヶ岳の標高はこのピークを指す。(俎板より10メートルほど高い) 

俎板から柴安へは緩やかな下り、そして上りがあってピークに立つと、何より尾瀬ヶ原と至仏山の展望が壮大で美しい。 

眼下には尾瀬沼の全貌をはじめ日光連山、奥鬼怒から連なる帝釈山塊、那須連峰、会津駒、平ヶ岳、巻機山、谷川連峰から武尊山等360度の眺望が楽しめる。 


思えば、深田久弥氏が私的に定めた「日本100名山」の山容が、この周囲に10指余り目にすることができるのである。 

山の頂上は周囲の山を眺める「展望台」とも言われるが、正にこの地は其の通りで、眼前の山塊から遥かな山並みまで、一面の画像に例えるなら驚嘆するほどの立体画像としても捉えられ筈である。

眺望を満喫した後は、北側のルートから一路下山を辿ることになる。


次回、「燧ケ岳・下山




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