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やっぱ小河はデブってた。

2015-02-25 02:36:00 | オレッちの日々
ホンマは2月20日に書こうと思ってたんですが、書き始めるとやっぱ長くなって、土日も忙しくて、ちょっと過ぎてしまったけど、せっかく途中まで書いてたんで、最後まで書きました。

僕が生まれた時に住んでいた家は、ウエスタンクラブと言うソープランド(今もあるよ)の向かいにありました。
そこから南へ数十メートル、スチュワーデスと言うソープランド(今はプレシャスって名前だよ)から、西へ数十メートルのところに小河の家がありました。
親が言うには僕は小河と幼稚園に入園する前から出会っていたらしいです。
そんな幼い時の記憶はないけど、ただ小河は幼稚園の時からデブってた。

小学校に入学すると、低学年の時はよく小河と遊んでいた。
高学年になると小河は学校終わってから電車に乗って遠くの塾に行くようになった。
塾がない日も家に帰って勉強してた。
僕は家に帰ってランドセルを置いて毎日遊びに行ってた。
塾も近所の小さな塾に行ってた。
放課後遊ぶことは少なかったけど、学校ではよく一緒にいて、家が近所なので一緒に帰っていた。
帰りに小河は通ってる塾の話と自衛隊の話をよくしてた。
小学生のクセに愛読書が丸(自衛隊の雑誌)だったのだ。

今思えばかわいそうなんだろうけど、電車に乗って遠くに行ってることが、小学生ながらに僕は羨ましく思っていた。
電車に乗って僕の知らない所に行っていることが、少し大人に感じていたのだろう。
他にも、恋愛やオシャレ、先生や友達への振る舞いなど、全てにおいて僕の一歩先にいる存在だった。
簡単に言うとませたガキだったのだろう。
ただやっぱり小学生の時もデブってた。

中学に入学すると小河が一緒のクラスにいた。
中学受験に落ちたのだ。
でもやっぱりええとこの塾に通っていた。
ただガリ勉と言う奴ではなく、部活や学校の委員や行事など、何かと忙しくやるタイプの奴だった。
あとませてたので彼女もいた。
中学でも放課後遊んだ思い出はあんまりないけど、学校ではよく喋っていた。
そしてエロについてもやはり僕の一歩先にいる存在だった。
童貞で丸坊主(当時は神戸市の規則で中学生は丸刈りだったんです)でオマケにデブのクセに友達と顔射について語っていた。
僕はその横で、意味がわからないのに、分かるわ~とうなずくタイプたっだ。
(そんなこと大人になっても出来へんで!)

そんな小河とも何度か遊んだことはある。
小学生の時は近所の公園で野球したりしてたが、中学生になると買い物に行ったりしていた。
ドブみたいな町で育ったクセにオシャレ
に敏感だった。
ただオシャレに関しても小河は僕の一歩先にいる存在だった。
小学生なのに髪型を気にしてムースをつけて学校に来たり、
僕ら世代では古着に興味持つのも早かったような気がする。
ただやっぱり中学の時もデブってた。

高校になるとさすがに同じクラスにはいませんでした。
小河は神戸で一番の公立高校に行っていた。
当たり前だが小河と学校でも会わなくなった。
それでも神戸の震災の時(高1の時)一番に大丈夫か~と僕の家に来てくれり
どこで知ったのか?僕が停学になった時、一週間ぐらい毎日家に来てくれた。

その他に会ったりした記憶はないけど、離れても何となく僕のことを気にしてくれてる感じがした。
でも卒業してからの進路とかは知らないままだった。
なので高校の時の小河がデブってかはあまり知らない。

僕が専門学校に通っている頃、小河がオシャレチキで働いているってことを、たぶん山田から聞いた。
オシャレチキは僕ら世代にとってはちょっと憧れの神戸のショップだった。
実際に行ってみると店に小河が立ってた。
そんな小河がまた一歩、いや二歩ぐらい先にいる感じがしたが、
でも僕はもうその頃、ライブハウスによく行くようになり、今まで思ってたオシャレを勝手に全否定してたので、オシャレチキに足を運ぶことも少なく、その後小河と会うこともなくなった。

その頃は小河だけでなく、同級生とか専門学校の友達とかもべつにいいかな?と変に少しとがった時期だったかもしれない。
ライブハウスと言う自分の居場所を見付けて、それ以外は受け入れない感じだったのかも?
同時に小河もオシャレチキという自分の居場所を見付けていたのだろうか?

その後小河のことは、関西のオシャレ雑誌カジカジでたまに見る程度だった。
ただなぜか毎回BOO(ブー)という名前で登場していた。
確かに雑誌で見てもデブってた。
それからしばらくは空白の時間が流れ、たまに山田に会った時に聞くと、小河は東京のオシャレチキで働いていた。
またしばらくして聞くと、いつの間にか結婚していた。

20代の頃、小河はどんどん遠くに、そしてどんどん先に行っていたので、デブってたのかどうかもわからない。

何がキッカケかはわからないが、30代になると、また小河とよく連絡を取るようになっていた。
でも東京にいたので会うことはほとんどなかった。
32の時、僕が本を出すことになったことも、小河はどっかで知って連絡して来てくれた。さらにオシャレチキで取扱ってくれて、出版イベントまでしてくれたのも、全ては小河キッカケだった。
それからオシャレチキのイベントで小河が神戸に帰って来る度に、僕と山田と3人で会った。
小河の子供が生まれたのもその頃で、3人で焼肉食べた。
その後僕の家にも来たかな?
3人で話すと、まずはオシャレの話をする。
僕と山田が小河に「なんやその格好意味わからん」と言うのが始まりだった。
でも、もう小河のオシャレは僕らと違い仕事になっていた。
ジーパン買った~革ジャン買った~とは違っていた。
小河は僕らにオシャレチキの話をよくした。
社長のことからスタッフのことまで、小河はオシャレチキのことが好きだったんだろうな~
それから同級生の最近の話をして
最後に僕が、せっかく福原に生まれたことやし、みんなでソープランド行くか~て言うのが締めだった。
結局行かないんだけど、僕は本気でした。

30代になると、変にとがった部分もなくなり、今まで以上に小河と自然と話せるようになった気がしていた。
ただ東京に行ってもやっぱりデブってた。

また僕が東京に行くことがあると小河に連絡した。一昨年かな?アナーキーの再結成観に行った時は、東京のどこかもわからんような閑静な住宅街にある家に泊めてもらった。
その半年後、オシャレチキのイベントで神戸に来た時は、僕の部屋に泊まって帰った。
「あっちゃんの部屋は落ち着くわ~」小河はいつもそう言ってくれた。
ただ小河に会ったのはソレが最後だった。

去年の2月20日、オシャレチキの前川社長から、「小河が交通事故で亡くなった」という電話があった。
とりあえず僕は山田にそのことを伝えた。
葬儀の日時会場はその日の夕方に連絡が入った。葬儀会場は東京だった。
そんなん橘自治会館でやったらええのに!と思いながら、翌日新幹線で山田と東京に行った。

お通夜の会場は人で溢れかえっていた。
僕の知っている人はほとんどいなかった。
どうやら東京のオシャレ関係の人達が多かったようだ。
翌日の告別式では芸能人も来ていた。
たぶんこの人達は僕らの知らない小河(BOOO)のことを知っているんだろう。
でも僕らにとってはやっぱ小河は小河でしかなかった。

事故現場を山田と見に行った。
小河が事故にあった246と言う道は、片道三車線で上に高速が通っている広いまっすぐなの道だった。
こんなところで車にひかれる理由がわからなかった。
さらに小河はデブってるから、確か時速100キロまで耐えれたはずなのに、亡くなった理由もわからなかった。

でも世の中にはおかしな奴がいるみたいだ。
酒を呑んでから車の運転をして、信号無視をしながら、暴走していたそうだ。
青信号を渡ってる小河にぶつかった時の速度は時速130キロ。
下道で130キロって狂ってるよね。

今回はさすがにちょっと遠くに行き過ぎたようだ。
そして死ぬ時もやっぱ小河はデブってた。

小河が亡くなった日、僕と山田は思い出に?ある物を作ることにした。
小河と言えば何か?僕らの中では決まっていた。
いつもの意味わからんファッションしてたけど、唯一カッコイイと思ってた物があった。
ソレは自衛隊が好きだった小学生の頃の小河が首からぶら下げていたドックタグだ。

ドックタグは当時の流行りでもあったかもしれないが、そんなこと知らない小6の僕らに、戦場で爆弾に吹き飛ばされても身元が分かるようにと言うドックタグの意味を教えてくれた小河が、とんでもなくカッコ良く感じた。
(日本の小学生に必要あるのか?)

だから僕が首からぶら下げているドックタグは、映画トップガンのトムクルーズの影響でもなく、稲村ジェーンの時の加勢大周の影響でもなく、乱痴気の小河の影響なのだ。

僕のドックタグには名前と生年月日と血液型と2014年2月20日と刻まれてます。

人は生きているといろんな節目を作る。
子供の頃は誕生日と正月しかなかったが、入学して、就職して、結婚して、子供が生まれて、店を出したり、本を出したり、バンドをしたり、または自然災害だったりと、人によって節目はいろいろとあるけど、こんな節目もあるんだな~

この一年は何となくちょっと不思議な一年でした。
ありがとう小河。




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