土佐のくじら

土佐の高知から、日本と世界の歴史と未来を語ろう。

東西の結界 (伊勢神宮と出雲大社)

2013-08-05 18:45:56 | 古代日本のミステリー

土佐のくじらです。
拙ブログにお越しの皆様、ここ数日の歴史日記で、弥生時代の謎は解けましたでしょうか。(笑)

弥生時代は地味な印象がありますが、この時代は、古代史の謎に満ち満ちております。

いつの間にか、米作が始まり、
いつの間にか、卑弥呼が魏志倭人伝に登場し、
いつの間にか、神武東征が行われ、
いつの間にか、大和朝廷が出来上がっている。

そして、いつの間にか、日本に天皇制ができあがり、いつの間にか、日本神道が日本に定着しています。

それらは、一つ一つの出来事が、それ単独でも凄いことなのに、それらがとても静かに、そしていつの間にか物事が進んでおります。

私は、とても不思議な感じが致します。
弥生から、史実のある飛島・奈良時代までというのは、とてもミステリアスな期間ですね。

学校の授業で、ただ単なる事実として、私たちは自国に起こった過去の出来事として、当たり前の出来事の如く、「ふ~ん、そうなんだぁ。」と、何気に学んで参りましたが、この時代は、日本が生まれ変わり、そして、現代にまで影響を与え続けている、ものすごい時代なのだと思います。

その、”もの凄い変化”が静々と、そして淡淡と行われた・・・という事実の謎を、私は、最近の弥生シリーズで、ある程度解明できたのではないかと、自負しております。

要するに、大和朝廷に繋がる、日本の神話の時代は、水面下で極秘裏に執り行われた、静かな国創りだった・・・という新説です。
隣国朝鮮半島諸国に、ヤマトの国政への介入をさせないことが、神武東征の目的であり、その為には、隠密裏に作業を行う必要があった・・・というのが、私の自説です。

つまり、稲作とヤマトの国の政治形態、そして、日本神道の信仰形態の普及が、この頃同時進行で日本全土に普及しましたが、これを執り行ったのが他ならぬ、”九州のヤマトの国の人たちだった”・・・とすると、全ての謎が繋がり、つじつまがあうのです。

さて、ヤマトの国が近畿地方に根を下ろす頃、今も残る日本の二大神社が建設されます。
伊勢神宮と、出雲大社です。
場所は、三重県と島根県ですね。

宗教的には、この2つの神社は、大和朝廷を護るための東西の結界として造られた・・・と言われているようです。

私は霊的なことは、あまり分かりませんので、「そうなんだぁ。」と思うしかないのですけど、地形や海流の知識を踏まえた上で、この2つの地域を見た時には、霊的な側面意外に、別のものが見えて参ります。

それはやはり、軍事的な側面です。

弥生後期には、紀伊半島以東の地域も稲作は普及しており、九州のヤマト勢力は当時この地域にまで、影響力自体は持っていたと思われます。
しかし恐らく、近畿地方ほどの完全な成功にまでは、至れなかったのではないでしょうか。

それがその後の、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の東征伝説や、坂上田村麻呂の、東国攘夷の戦いにつながったのだと、私は思います。

伊勢神宮のある、三重県の志摩半島は、三重県の南端であり、そのまま舟を出せば、黒潮に乗って、東国にいち早く辿り着けます。

軍事拠点、特に海軍の基地としての伊勢神宮に、私はどうしても着目してしまいます。

また出雲大社も、朝鮮半島からの船からの攻撃に対する、軍事拠点としての一面があったように私は思います。

当時出雲の国は、ヤマトの国の最大の同盟国であったと思われます。
10月を、【神無月・かんなづき】と言いますが、出雲の国では、【神在月・かみありづき】と呼びます。

明らかな、”特別扱い”ですね。

ヤマトへの国譲りの見返りとして、この時期に出雲の国で、日本の神々の合議を行うことになったから・・・という、いわれが残っていますね。

出雲の国が、古来日本の国創りに、多大な貢献をした証であろうと思われますし、同時に地理的に、極めて重要な地点にあったと思われます。

出雲が朝鮮半島諸国に、万が一寝返るようなことになれば、ヤマトは、とたんに窮地に立たされる位置関係にあるからです。
また出雲の国は、独自で朝鮮半島諸国と、日本海の海流を使っての、交易をしていた節もあります。
朝鮮半島南部から船を出し対馬海流に乗れば、自然と出雲地方に流れ着きます。

出雲大社の主宰神、大国主命(オオクニヌシノミコト)は、経済繁栄の神ですが、それは、当時の出雲の貿易による富・・・
も象徴しているのかも知れません。

この地理的政治的に、大変重要な拠点である出雲にも、巨大神社が建設される・・・
これはやはり、対朝鮮半島諸国対策と、出雲の国の謀反対策ではなかったか・・・と、私は考えてしまいます。

建設当初の出雲大社は、現存するものとは佇まいが違い、とても長い階段のある、超高層構造だったということです。
出雲大社は神社という、宗教的な建築物のみならず、見張りやぐらの機能も、有していたのではないでしょうか?

日本神道は、政治と軍事と宗教が一体ですから、そう考えれば、つじつまが合うのではないかと私は思っております。
つまり、伊勢神宮と出雲大社は、大和朝廷のある奈良盆地から見れば、軍事的拠点としての機能も持っていたと、私には思えるのです。

                                      (とりあえず 完)


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