古稀背包客放浪記

古稀バックパッカーの東南アジア見て歩る記

四川省西蔵の光と陰

2009-10-27 16:53:56 | 日記
その13 還暦背包族(bei bao zu)ベイバオズ

2009年10月20日(火)

今日は朝から雪だ。昨日は雪線が3500M位まで下がって居たので今日は甘孜の街も雪の中だ。まだ積もっては居ない。
徳格(デルゲ)へ行く積りで宿を出る。バスは8時30分発だ。毎日ぶらぶら歩いていた通りを早朝の7時に普通に歩く。汽車站まで30分位で歩いていたのが15分ほどで着いてしまう。まだ一時間以上もある。
昨日は汽車站の前に徳格行きのミニバンが三四台止って客引きをしていたが、今日は一台も居ない。変だ。
汽車站が8時15分になってやっと開いた。昨日のメモを見せる。ちょっと待っていろという仕草をする。暫くすると四五人のチベッタンと僧侶が数人来て、窓口のおばさんと話をしている。「デルゲ」という言葉が聞こえるので、彼らもデルゲに行くのだろう。多少安心する。
しかし暫くすると、彼らは雪の降る中を街の方へ戻っていった。発車時刻を少し過ぎている。あわてて窓口のおばちゃんに先程のメモを見せる。何やら喚く。メモを出して書いてくれと言うと、「大雪、車不帰、没有」
要するに、大雪でバスは有りませんと言う事らしい。一日一本のバスが運休では手の施しようが無い。まだ雪は降っている。甘孜に来春まで閉じ込められるかもしれないと言う恐怖に駆られる。
移動しよう。昨日、通過したタンゴまで戻って、ラルン ガル ゴンパに行ってみよう。
ミニバンの溜まり場である、中央の十字路付近まで歩いていく。今日の天候の為かいつもよりバンが少ない。「タンゴ」「ルーフォー」と言ってる客引きが少ない。
タンゴがチベット式の名前で、ルーフォーと言うのが中国式の名前で同じ街を指している。この辺では中国式の名前の他にチベット式の名前も通用するのだ。看板や商店名などは漢字とチベット文字の併記が普通で、地名などの固有名はチベット式のほうが多いような気がする。そして、漢字が通用しないことのほうが多い。学校教育を受けている筈なのに漢字の読み書きが出来ない。特にチベット僧は殆んど漢字を解さない。普通語の会話は多少出来るようだ。
8時50分頃にタンゴ経由「色達」(セルタ)行きというミニバンの二番目の客になる。しかし、満員になるまでは発車しないので暫く待つことに成る。四人の僧侶と三人のチベッタンが揃った。運転手を入れて九人だ。おい、待てよ、乗車定員は運転手を含めて七人の筈だ。それに荷物の多いこと、屋根の上やら座席の間やらにドカドカ詰め込む。九人目の客は、運転席と助手席の間で股間にシフトレバーがある。それでも運転手は斜めに構え、タバコを吸い、鼻歌まで歌って運転する。たいしたもんだ。動き出したのは10時15分だった。
街の出口の交通検問所は、窓ガラスの曇りと、雪のため難なくパスする。通過したらフロントの曇りと窓ガラスの曇りを拭きワイパーを動かした。したたかなもんだ。

タンゴの入り口で股間にシフトレバーを挟んでいた客が降りていった。前は運転手と助手席に一人になった。タンゴには午後1時30分に着く。昼食休憩だと言う。ラルンガルゴンパの二人の僧に付いて行く。8元の耗牛肉ミンチの面を食べる。僧持参の塩茹での耗牛肉をご馳走になる。その後一人で街をブラブラする。発車の時間を確認していなかったので早々に戻る。
1時間経っても誰も戻ってこない。2時間経っても誰も戻ってこない。そう言えば運転手が皆の電話番号を聞いていた。連絡用なのだ。
運転手が戻ってきたのが15時40分。二人降りたので残りは5人だが、坊主が帰ってこない。その内に残りのチベッタン二人の荷物を降ろして隣のミニバンに積んでいる。運転手がお前も移れと言う仕草をする。坊主も戻ってきて荷物を移動する。そして、空いた先程のバンに甘孜へ行く客の荷物を積み込み始めた。客の交代をしているのだ。成る程考えたものだ。そして料金をよこせと言うが、色達までの料金をよこせと言う。おかしいが仕方が無いので払うが、きっと降りる時に揉めるに違いない。
新しい運転手にラルンガルゴンパは降りられるのかと聞くと「OK」と言う。

ミニバンはやっと16時に動き出した。まだ150kmも有るというのにもう日が傾きかけている。
しかし、途中の景色は又素晴らしかった。雪景色の4000mの高原をミニバンが跳ばす。道路は舗装と未舗装が半々ぐらいだが未舗装道路の凹凸が少なく結構飛ばせる。峠は4270mであった。最高記録だ。吹雪で寒いが記念に写真を一枚撮る。

ラルンガルゴンパには20時過ぎに着く。
目の前の山の斜面一面に電気の光が灯いている。何千何百の窓が電気の明かりで光っている。ステンドグラスのモザイクのようだ。目の前の数百m先から見上げるように窓の光が天上へ延びている。数え切れない。山の斜面の全面に渡って光に溢れている。
降りようとすると、近くに居た僧たちが「ノーノー」と言う。運転手に聞くと「ノーノーセルタOK」と言う。
先程のOKは何だったんだと思うがこれも商売の常套手段だ。おい又かよと思うが僧たちが言うのだから間違いないだろう。先に下りた二人連れの僧に好く頼んでおくのだった。坊主先に立たず。(後悔先に立たず。)
やはり潜入は難しいのかもしれない。

仕方が無いので30km先の色達まで行って貰う。時間は21時。
山の奥の草原の街のはずだ。標高は3860m。甘孜よりも460mも高い。真っ暗で何も見えない。街頭の明かりが辛うじて街らしく見える。中央広場らしき所にぽつんと賓館の明かりがある。「高原魂賓館」如何でもいい、それしか見当たらないのでそこに決める。
その前にやはり、ミニバンの料金を払えと揉める。
先程のタンゴでここまでの料金を払ったと身振り手振りで言うが当然納得しない。他の人間はやはり降りるときに新たなミニバンにそれなりの料金を払っていたようだから、小生だけ例外ではないだろう。結局幾らだと聞くと「80元」。おいおい、しらばっくれて今まで見ていたが精々一人50元位だ。完全に吹っかけてきた。こちらも強引に40元以上は払わないと言う。60元まで値を下げてきた。勝ったと思った。「40元、ノーモア」後は一切掛け合わないで荷物を引き出してしまう。


2009年10月21日(水)

朝の7時30分から散歩をかねて明日の切符を買いに出る。小さい街なので一時間あまりで一回り出来てしまう。
ミニバン、乗り合いタクシー等が集まる十字路で次の目的地の情報を仕入れようとするがさすが本場チベット、漢字、英語が通じない。仕方が無いので、近くで一番立派な事務所の「中国電信」に行く。カウンターの女性に「色達汽車站」と書いたメモを見せる。右に言って左らしき仕草。しかしそこの通りは二度も通ったがそれらしき建物は無かったので、再度先程のメモを見せると側に居た女性が案内して外に出てくれる。50m位行ったそこは、泥んこの広場で車が一台停まっているだけで、材木や、スクラップ等が放置してあり、建物は普通のチベット式泥仕上げの平屋が有るだけだった。
その泥小屋の小さな窓の横に「售票処」と書いた看板がある。それで全てだ。

窓口のおっちゃんに何時もの様にメモを見せる。「馬爾康(マルカム) 1張」返事は、「明天 早午6:10 62」これで明日のバスの予約は出来た。先日のように大雪に成らないのを祈るだけだ。

碁盤の目のような正確な区割りなので、迷うことなく東の端から西の端まで一通り歩く。北側の大地の上には街に入ってこれないチベッタンの泥仕様の小屋がある。ゴミ捨て場の中に住居が有るかの如きである。百軒近くは有るだろうか。

路店の商店は18時には店を畳んだ。街の店も19時には殆どの店がドアを閉めた。20時には茶楼という看板を掲げるデスコ兼バーみたいなもの灯りだけで、後はわずかの街頭が照るだけだ。

21時30分、ドアをノックする音にまどろみから覚める。公安にパスポートを持っていかなければならなくなったとの事。そう言えば、登記していない。おばちゃんは宿代を受け取っただけで、外人宿住の届出に記入していない。
本人も出頭しなければならないのかと思ったが、宿の人だけで良いとの事。30分後に外人登記の用紙を持って戻ってきた。記入するとそれを持って、もう一度公安へ行かなければ成らないと出て行った。
どうして、誰がなぜ、何時、何処で外人がこの宿に居るという事が解かるのだろう。いや、公安がどうして日本人が居ることに気が付いたのだろう。それとも偶然に網に掛かったのだろうか。
そういえば、夕方に宿の前の路上に公安の車が止っていた。

中国人や公安はボーとしているように見えるが、実はそれも芝居で人の把握は確実にしているのかもしれない。
「恐るべし公安。」

2009年10月22日(木)

今日のバス旅行は5時30分の汽車站一番乗りから始まった。
数分して小綺麗な「M」似のチベッタンの女性が来た。未だ開かない汽車站の門の前でその女性との会話、「何なに、成都、何なに何時」「マルカム、5点40分」それで意志の疎通は出来た。「私は成都に行くんだけれど、あなたも成都に行くの、所でまだ門が開かないけど、今何時かしら」「いや、私はマルカムへ行きます。今は5時40分です。」
そして三番目は向かいの3m位の塀を乗り越えて現れた。
5時45分に汽車站の門が開いた。あちこちの路地から携帯電気を点けてバラバラと人が集まってきた。気温1.4℃、風は無い。そう寒くは感じない。
一番バスは6時の成都行きだ。マルカム行きのバスは少し離れた路地から出てきた。成都行きと並んで止った。マルカム行きは見るからにボロッちい。乗り込む人もいかにもチベッタンばかりだ。それに比べ成都行きは先程の女性と同じように身綺麗な服装が多い。

今日の観光コースはセルタ河に沿って下っていく。途中で河の名前を変えながら下っていく。標高で1000mは下る。
馬爾康(マルカム)と言う地名から、勝手にマルカムは馬の走る草原の康(カム地方)の街と想像していた。着いてガックリの、今までの街と同じ山ん中の狭い川沿いの大きな街だ。
州都だけあってその規模は大きい。どうしてこんな山の中にこんな大きな街が有るのだろう。何時もながらの疑問が出る。途中の風景からはそんなに人口が多いとは見えないが、何処に人が住んでいて、何処から人が沸いて、こんな大きな街が有るのだろうか。

武警に連行されそうになった。
(身の危険を感じた。写真を撮ったり視たりするにも、あらゆる事に注意を払って慎重に行動しなければならない。今書けるのはこの一行だけです。)

どこかへ逃げなければならない。切符は無いが、明日は早々に移動しよう。

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