古稀背包客放浪記

古稀バックパッカーの東南アジア見て歩る記

四川省西蔵の空と風

2009-10-26 14:48:56 | 日記
その12 還暦背包族(bei bao zu)ベイバオズ

2009年10月14日(水)

面が割れてしまった。
成都の宿のロビーで五六人の日本人と喋っていた時に、「あれっ、仙台アガシさんですか?」と言われてしまった。そうなんです、「中国バックパッカー観光旅行記」のBBSに7月頃から時々お邪魔して投稿していたのです。
「話の旅程と仙台出身と仰いましたので間違いないと思いました。BBSをチェックしていたので解かりました。」との事。
「中国バックパッカー観光旅行記」と作者の「流浪小侠」さんの話題で花が咲きました。
「凄い人ですね」が結論でした。確かに素晴らしい旅行記です。足元にも及びつきません。参考にさせて貰ってます。色々と役に立つ情報が満載です。是非見られたらいいと思います。


2009年10月15日(木)

宿を7時20分に出る。何時も8時位までゴロゴロしていたが、6時に起きて支度をする。
大部分の荷物は宿に預けていく。少しの服と歯ブラシとパソコンだけで廻ろうと思う。荷物の重いのはもう担げない。それほどの体力がもう無い。

城北汽車站を10分程遅れて発車した康定(カンデン)行きバスは茶店子汽車站を経由して高速に乗った。今回も理解に苦しむ出来事があった。
バスは汽車站を出て100m位走ると、停留所でもないところで止まり、6人を乗せた。1km位走って交差点で2人を乗せ、ガソリンスタンドで給油中に5人を乗せた。しかも、乗車しないブロカー風の人間がいずれの場所にも居たことだ。さらに、バスの車掌が発車前から頻繁に電話をしていた。着信が多いが自分の方からも電話をしていた。さらにびっくりは発車してしばらく走って、また茶店子汽車站に戻って遅れてきたのか青年一人を乗せた。料金は誰の収入になるのだろう。
結局市内を出るのに一時間あまりを費やす。

久しぶりの、公道を使っての追い越しレースを見る。いや、運転手の直ぐ後ろの一等席に同乗させて貰っているのだ。
そして今日も相変わらず交通事故の生々しい現場を見ることが出来た。運転手が今まさに脱出してへたり込んでいる。トラックは崖から半分落ちかけている。数時間前に正面衝突したバスと乗用車の残骸がある。故障して放置してあるトラック、今まさに修理中のトラック、バスが十台位はあったろうか。

しかし、今日のハイライトはそんな物ではない。何を隠そう、今回の旅行で最高の女性と同席したのだ。年の頃は四十数歳、服装のセンスといい、その姿形といい、電話の対応といい、容姿は言うに及ばず。さらに仄かに香る香水は植物系の爽やかな香りだ。二言三言しか言葉を交わさなかったが、十分に世界で通用する気品を持っている。何処のどん人なんだろう。途中の「瓦斯」という所で降りていった。その街に植物研究何とかという大きな会社の建物があったので、きっとそこの社長婦人に違いない。

「康定」の街は川沿いの岸にへばり付いているという表現がぴったりの街だ。その直ぐ裏は数千メートルの岩山だ。谷の間からはさらに高い山が望める。
夕方の川風は寒い位だ。地元の人間も既に防寒具を着用している。まだ秋の装いの身には夜の寒さがことにしみる。

同宿の中国人の若者と少し話をした。彼は礼儀正しくしかも清潔である。気の良い青年で尚且つ英語で多少の意思疎通も出来る。彼の旅行プランを聞くと違うコースだが彼のコースに行きたいと思っている地名も入って居る。しかも彼も一人旅だ。予定を変更して彼と同行しようかとも思う。
しかしそれでは余りにも安易過ぎる。還暦背包族を名乗っているにはお粗末過ぎる。出来るだけ独力で旅をしなければ背包族に入れてはもらえないだろう。泣きの涙で自分を通すことにした。
チベット圏に入って意思疎通が難しくなってきた。中国でも漢族以外の中年以降の人間は漢字の読み書きが出来ないことが多い。多少の不便と労力は厭わない事にしよう。


2009年10月16日(金)

明日の切符を買いに行く。「明天 甘孜(ガンゼ) 1張」のメモを見せる。「明天6:00 113元」と書いたメモが戻る。窓口から200元を入れる。切符と保険の証書とおつり87元を返してよこす。当たり前のことを当たり前に行う。
どうして二三日前までは外国人がこの切符を買えなかったんですか。何も聞かれないし、それ以外に何も無い。不思議な国だ。

近くの木拉錯風景区に行こうと思うが公共の交通機関が無いのでタクシーをチャーターしなければならない。最安値で150元だ。同行する人が二三人居れば良いのだが宿のフロントにも声を掛けたが誰も居ない。35kmで1時間ぐらいの距離なのに結構良い値段する。街では大体、10kmで15元だ。大目に見て往復で90元、待合が60元という計算なんだろうか。
見たい気がするが、今までの大当たりは虎跳峡だけで確率10%だ。止める。またの機会にしよう。還暦背包族には次のチャンスが有るのです。なに、気が向けば又来れば良いのです。もう、二度と来れないし見られないなどと思うことはありません。気楽に考えます。どうしても見たいなら又来れば良いだけですから。だから簡単に諦めも着きます。

「康定」の街が一望出来る跑抱馬公園へ行く。
これが又とんでもない公園だ。街の南西にそそり立つ岸壁をよじ登っていくのだ。出発点の観音堂までは道路から20m位の高さだ。しかし、その階段からしてかなり急だ。本番はその観音堂の裏の階段からの急坂だ。ヂクザクに登るがそれでも手を伸ばせば階段に手が付きそうになる。
山屋根性が今日も試される。頂上の公園までは標高差300mと踏んで1時間で何とか登頂しよう。最低でも中間位に有る展望台までは登ろう。

気合を込めて踏み出すが相変わらずペースが上がらない。やっぱり歳だ。止めよう。何時もの自問自答が始まる。

多少前回で高度順応が出来たのか、もしくは多少のトレーニングになったのか今回は前回よりかなり呼吸が楽だ。経験になったのかも知れない。

標高差320mを50分で登った。だが残念なことにそこには門票50元と書かれた「跑馬公園風景区」の入り口があった。この急登のご褒美が入場料50元ですか。この公園に門票が必要とは知らなかった。入場料を取る観光地へは近付かない様にしようと思う。
登りとは別のルートをとって下る。せっかく苦労して登ったのに気分が悪い。

街に下りた所で、本格的な格好をしたチベッタンがバイクに跨って自分の街へ帰ろうとしていた。腰に刀を指し、男性も女性も完全な民族衣装だ。写真を撮って良いですかと声を掛けて、二組の男女の写真を取る。礼を言って帰ろうとすると「スーシークワイ」と言っている。要するに金をよこせと言うことらしい。
道端の風景をちょっと撮ろうとしただけで、はじめから金を払っても撮ろうという訳ではないのでしらばっくれる。しかし、腰に本物の刀を指しているし、先程は抜いて見せてもくれた。本物は多分武器だ。2元出すと「シークワイシークワイ」と言う。身振り、指文字も40元と言っている。多分4人なので一人10元で40元と言っているに違いない。
先程の公園といいチベッタンといい頭に来る。

しらばっくれて4元を出して早々に立ち去る。追っては来ないようだ。


2009年10月17日(土)

街灯の光を頼りにぶらぶら歩いて康定汽車站に行く。5時10分、まだ開いていない。
オレンジ色のチョッキを着た清掃のおばちゃんがもう仕事をしている。幾ら貰えるのか解からないが、こんな時間から仕事をしているとは知らなかった。すごい。

座席番号一番なのだが又おばちゃんに席を取られてしまった。一番が窓側だと言っても席を替わろうとしない。根負けしてしまう。

標高4290m(腕時計の標高は4235m)の折多山峠を越えると景色が一変した。高原の大草原が目の届くとこまで続いている。ぽつんとチベッタンの家がある。耗牛が羊が牛が草を食んでいる。青い空が眩しい。
遠くにはギザギザの頂上を持った海子山(5820m)が見える。

そんな大草原の中の道なのだが、未舗装で砂埃が濛々と上がる。精々時速20kmがいい所かも知れない。至る所で工事中だ。「康定」から「甘孜」までの間でも数十箇所で工事をしている。いや、全線に渡ってと言ったほうが良いかもしれない。二車線の道路の常に一車線は工事をしていると言った方がいい。数千人を超える人間が道路脇にビニールやトタンで作ったプレハブ小屋に住宿して生活し、工事を行っている。飯場が至る所にあり、午前7時には既に仕事を始めている。
もう数年すれば高原を爽やかな気分でドライブする事が出来るに違いない。

最長不倒時間の樹立をした。「康定」から「甘孜」まで朝の6時から夜の8時30分まで実に14時間30分掛かった。途中の昼食やトイレ休憩やバスの冷却水補充等で2時間ほど停車したので実働12時間30分で385kmだから平均時速で約30km/hだ。


2009年10月18日(日)

街の裏山はもう雪を被っている。「甘孜」の標高は3400mなので4500m位のところまでは雪で白くなっている。

ほの明るくなった早朝の7時15分市内全域にわたって完全停電した。「ウルムチ」を思い出させる。停電後の二三時間で銃撃戦が有ったとの事。
静かだ。トラックの音だけが聞こえる。
昨夜も一度停電が有ったが一二分で回復した。今日の予行演習だったのか。
8時、未だ回復せず。何事も無いようだ。

そう言えば「康定」の電気屋には冷蔵庫と一緒に洗濯機が並んでいたが、チベッタンの多いこの地方で本当に売れるのだろうかと他人事ながら心配になった。

生まれた時の産湯と死に水を取るだけで一生身体を洗わないと言われるチベッタンだからだ。しかし、街を歩いていると、何種類かに分けることが出来るようだ。その1は身体を洗わない、手も足も顔も真っ黒で着る物も真っ黒な本来のチベッタン、その2は身体も着る物も綺麗に洗いきちんとした民族衣装を着ているチベッタン、同じくその3は前者と同じで洋服を着ているチベッタン、その4は洋服を着ているが本来のチベッタン風に手足を洗わないチベッタン。

しかしこれは街の通りを歩いているチベッタンで、他に家に居る人たちや仕事をしている人たち大勢のその他が居るので何とも言えない。因みに同じ宿に泊まっているチベッタンの家族は朝に歯を磨き顔を洗っていた。しかし服装は真っ黒に近い。洗って年に一度位の感じだ。

朝から各地を廻る。
「デンゴンパ」は街の中心にあり、早朝からお参りしている人、五体投地している人、「コルラ」(ゴンパや聖地の周りを廻る事)している人が大勢いる。
ゴンパの本堂の中は真っ暗でよく見えないが人が居るのがわかる。あちこちに座ってマニ車を回してお経を唱えている。目が慣れて少し見えてくるとその人の多さに改めて驚かされる。他人の後ろに付いて一回だけ廻ってみた。宗教の「力」を始めて感じた。ヤハリ「スゴイ」としか言いようが無い。圧倒的な「信仰心」「迫力」が違う。

宗教というものを真面目に考える必要がある。宗教に基ずく哲学的な洞察力や宗教観、更には人生そのものに対する考え方、生き方、それらが不完全なものであろうと、簡単に言えば「ただ仏門に入った」といった程度の人間ですら信仰から受ける「力」を感ずる。
宗教を「洞察する」「感じる」「経験する」必要がある。

ガンゼゴンパは山の斜面に建っている。街から見上げるとその金色に輝く社殿が一段と青空に映える。しかし、かなり急な斜面に建っているので登るのに苦労する。
斜面の下半分はチベッタンの住居で上半分が社殿、僧坊、学院等だ。併せて標高差200mといった感じだ。
頂上の本殿前では今まさに祈りの護摩が焚かれている所だ。モウモウと煙が立ち込める中、太鼓、鉦、大笛等と30人位の僧の読経が流れる。

朝からの停電は夕方に5分位通電して又停電だ。
今20時、ローソクの灯だけだ。
雷鳴が近づいてきた。
窓から外を見る。一閃の雷が辺りを浮かび上がらせる。遠くの山々まではっきりと見える。すざまじい稲妻だ。大地に響き渡る雷鳴が轟く。大自然の怒りにも似た営みだ。
数度にわたる稲妻、雷鳴の規模は今までの経験のはるか上をいく。


2009年10月19日(月)

朝から冷たい雨だ。もう雨雪になったようだ。道理で寒いはずだ。行く所も無い。外気温5.5℃

少し小降りになった11時過ぎに汽車站に切符を買いがてら散歩に出かける。さすがに人通りは少なめだ。
汽車站の事務所にはおばちゃんが一人しか居ない。例によって恒例のメモ「明天 徳格 1張」を見せる。おばちゃんメモに「早上8:30」と書いてよこす。金を出すと「没有、明天」と言う。明朝、時間前に来て切符を購入しなさいと言う事らしい。発車しないと言う事も有りなのか、通常状態なのかわからない。とにかく明朝に買うしかないようだ。
甘孜の中心街は殆んど歩いた。東西が1km、南北が2km位の小さい街だ。ほぼ平らな3400mの高原の街だ。南の外れを雅龍江(揚子江の支流の支流)が東へ流れてる。周りが開けて気持ちのいい街だ。


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