大倉草紙

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【奈良】 五條① 天誅組の史跡

2009年02月09日 22時49分27秒 | 旅 - 奈良県
2月7日(土)
当日の行程:(車) → 【岡八幡宮】 → 【五條代官所跡(現・五條市役所)】 → 【井澤宜庵の墓(常楽院)】 → 【天誅組本陣跡(櫻井寺)】 → 【乾十郎顕彰碑】 → 【乾十郎の墓(井上院)】 → 【鈴木源内の墓(極楽寺霊苑)】 → 【森田節斎顕彰碑】 → 【乾十郎宅跡】 → 【森田節斎宅跡】 → 【五條市立民俗資料館(旧・五條代官所長屋門)】 → 【井澤宜庵宅跡】【賀名生の里歴史民俗資料館】 → 【北畠親房公墓】 → 【黒木御所跡】【天辻維新歴史公園】 → 【大塔村郷土館・歴史の蔵】【谷瀬の吊橋】 → 【十津川村歴史民俗資料館】【玉置神社】【野猿】 → 【奈良県立十津川高校】 → (湯の峰温泉泊) 

一昨日、五條と十津川を走りまわった。
道路のことや気候のことなど分からないことが多いので、予め調べてから出発。
お天気は良いし、このところ雪は降っていないようなので、天候の面は心配ない。
けれど、念のため、チェーンを携帯。
十津川から龍神温泉のほうへも足を延ばしてみたかったが、十津川から龍神温泉へと続く国道425号線は「酷道」のようだし、日程にも無理があったので諦める。
龍神温泉は三大美人の湯のうちのひとつ。
これで、美人じゃない言い訳ができた。
ちなみに、ほかのふたつは、湯の川温泉(島根)と川中温泉(群馬)なのだそうだ。

五條では、おもに天誅組の史跡を巡る。
史跡めぐりにあたっては、五條市が作っている「新町周辺ガイドマップ」が役に立った。

【岡八幡宮】

文久3年(1863)8月17日、金剛山頂の千早峠を越えて五條代官所へ向かう天誅組は、岡八幡宮に集結して襲撃直前の準備をしたそうだ。


御神木跡
境内には、天正10年(1582)に植樹された御神木の切り株がある。
枯死してしまったため、昭和49年(1974)に伐採したのだという。


岡八幡宮本殿


【五條代官所跡(現・五條市役所)】

五條代官所跡


五條市役所
五條代官所跡は、現在、五條市役所になっている。
文久3年(1863)8月17日午後4時頃に、天誅組は五條代官所を襲撃した。
天誅組は、代官・鈴木源内らを殺害し、代官所を焼き払った。
五條代官所跡の碑は、五條市役所前の植え込みの中にある。


【井澤宜庵の墓(常楽院)】

常楽院本堂


井澤宜庵(ぎあん)の墓
五條市役所の南側、すぐ近くに、常楽院がある。
ここに井澤宜庵とその妻・禮以の墓がある。
井澤宜庵は、天誅組の軍医として活躍した。
高取城攻めでは、負傷した吉村寅太郎の手当てをしたと伝わる。


【天誅組本陣跡(櫻井寺)】

山門


本堂


鐘楼
山門も本殿も鐘楼も、屋根の傾斜角度に特徴がある。


天誅組本陣跡の碑
櫻井寺は、天誅組本陣跡。
天誅組は、代官所を焼き払った8月17日から「八月十八日の政変」を受けて天辻に本陣を移す20日までの間、櫻井寺を本陣としていた。
寺には、「御政府」の看板が掲げられていたという。


本堂の床下には、天誅組の槍尻の傷跡が残る旧本堂の柱が置かれている。


境内には、五條代官・鈴木源内の首を洗ったと伝わる石手水鉢が残っている。


櫻井寺の御朱印


【乾十郎顕彰碑】

乾十郎は、五條で医者をするかたわら、吉野川の下流へ流す材木へ税金をかけているのを止めさせる運動をしたり、吉野川分水の計画を立てたり、地域の人々のために奔走していたという。
天誅組が五條へ入る際には、道案内を務めたといわれる。
五條へ行く前に、司馬遼太郎の短編『五條陣屋』を読んだ。
乾十郎は「怪人」として登場していた。


【乾十郎の墓(井上院)】

井上院


乾十郎の墓
乾十郎の墓は、井上院の前に建っている。
乾十郎は、天誅組が五條代官所を襲撃した後、幕府の役人に捕まって処刑されるまでの間、大阪で偽名を使って医者をしていたという。


【鈴木源内の墓(極楽寺霊苑)】

五條市営極楽寺霊苑


鈴木源内の墓
五條代官・鈴木源内は、温厚善良な人柄であったという。
地元の人たちによって、5人の部下たちとともに極楽寺霊苑に葬られたそうだ。


【森田節斎顕彰碑】

森田節斎顕彰碑
森田節斎は、儒学者として、吉田松陰など尊皇攘夷の志士や、天誅組に参加した志士たちを教育した。
乾十郎も門下生であった。
碑は、中央公民館の前に建っている。


【乾十郎宅跡】

乾十郎宅跡
乾十郎は、五條代官所近くのこの家で医者をしながら、代官所の動きを探っていたという。
現在は、「やまと毛糸店」となっている。


【森田節斎宅跡】

森田節斎宅跡
乾十郎宅跡も森田節斎宅跡も、狭い路地に面した住宅地にある。
森田節斎は、天誅組の変後は紀伊国に逃れ、明治元年(1868)、現在の和歌山県粉川町で没したという。


【五條市立民俗資料館(旧・五條代官所長屋門)】

五條市立民俗資料館
五條市立民俗資料館には、江戸末期に五條代官所の長屋門であった建物が使われている。
天誅組による代官所焼き討ちの後に建てられたものである。
資料館には、天誅組の資料や史跡の写真が並ぶ。


明治維新発祥地の碑
資料館の前の広場は、「史跡公園」というそうだ。
「明治維新発祥の地」の碑が建っている。

ところで、森田節斎宅跡から資料館に向かう途中、国の重要文化財に指定されている栗山邸がある。

栗山邸(国・重要文化財)
日本最古の民家なのだそうだ。
棟札には、慶長12年(1607)の銘があるとのこと。

残念ながら、公開はしていないもよう。


栗山邸(市・文化財)
栗山邸(国・重要文化財)の少し南側、新町通り(旧紀州街道)に面して、もう一軒の栗山邸がある。
こちらは市の文化財のようだ。
新町通りには、昔ながらの風情ある町並みが残っている。


新町通りにある「まちなみ伝承館」


【井澤宜庵宅跡】

井澤宜庵は、現在の五條小学校あたりで医者をしていたらしい。
この碑は、五條小学校の西側に建っている。
小学校を挟んで東側は五條市役所である。


【天辻維新歴史公園】

天誅組本陣遺跡の碑
五條代官所を襲撃した後、天誅組は、大塔村天辻に本陣を移す。
本陣は、天辻の富豪・鶴屋治兵衛宅に置かれた。
十津川郷士の助けを借りて戦うも、敗れることになる。
国道168号を通って五條から十津川へ入ったが、この山道を歩いて移動したとは、季節が良かったとはいえ大変なことだったろう。
しかも、十津川で集められた郷士たちは、天辻に到着するや否やすぐさま高取城へ向かったというから驚きだ。


義烈鶴屋治兵衛翁碑


天辻延命地蔵尊堂
碑の近くには、天辻延命地蔵尊堂が建っている。
お堂の中には、2体の地蔵尊が安置されている。
小さいほうの地蔵尊は、和歌山県境の堂屋敷に祀られていたもので、「天辻へ連れて行ってくれ」というお告げでこの地で祀ることになったという話が残っている。



大塔村郷土館は、道の駅「吉野路大塔」と国道168号線を挟んで向かい合って建っている。
建物に向かって左側には、

維新胎動の碑が、
向かって右側には、

護良親王馬上像が建っている。
大塔村の地名は、この地の豪族・戸野兵衛や竹原八郎らに匿われた大塔宮護良親王に由来するという。
正面の萱葺き屋根の建物では、大塔村の郷土料理を味わうことができる。


歴史の蔵
萱葺きの建物の隣のこの建物は「歴史の蔵」といい、資料館になっている。
天誅組や護良親王について、映像による説明もある。
天誅組が天辻で本陣を構えた時を再現した映像は、分かりやすく、面白い。

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