大倉草紙

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【神奈川】 平坂

2011年01月18日 21時00分00秒 | 旅 - 神奈川県
12月12日(日)


「昭和五十二年市制施行七十周年記念
 横須賀風物百選
 平坂
 日常、私たちが何気なく上り下りしているこの坂は、急こう配であるにもかかわらず、古くから『平坂』と呼ばれてきました。『ヒラ』には、平地の意味もありますが、同時に傾斜地をも意味します。『サカ』と重ねて使うことにより、大変きつい坂であることを強調したものと考えられます。
 昔、平坂から龍本寺に至る台地の下部は海で、この坂下の辺りは小さな湾になっていたと言われています。昭和二十三年にこのがけ上の大地で貝塚が発見されましたが、そこに生活した先住民は、毎日の食糧をこの辺りの海で得ていたことでありましょう。しかし、その翌年、貝塚から発掘された壮年男子の平坂人骨は、その死因が飢餓による栄養失調であると推定され、先住民の生活は、私たちの想像をはるかに超えるほど厳しいものであったことがうかがえます。
 明治の初期まで、横須賀村と深田や中里、公郷の各村を結ぶ道路は、汐入から平坂上を経由して聖徳寺坂に至る浦賀道が利用されていました。横須賀製鉄所(後の海軍工廠)の開所により、横須賀村野戸数は増大し、住宅地が上町方面に求められ、人々の往来も激しくなりました。それらの不便を解消するため、明治十年に平坂路線が開通しました。
 明治十二年、鴨居の素封家若松屋高橋勝七氏が、大滝より深田、米が浜に至る海面を、また、初代三浦郡長小川茂周氏の尽力で稲岡以南の海面が埋め立てられ、若松町と小川町が造成されました。下町一帯が繁栄するにつれ、ますます平坂は、下町と上町方面を結ぶ交通の要所となって現在に至っています。」(案内板より)

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