大倉草紙

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【奈良】 十津川

2009年07月01日 21時00分00秒 | 旅 - 奈良県
2月7日(土)
当日の行程:(車) → 【岡八幡宮】 → 【五條代官所跡(現・五條市役所)】 → 【井澤宜庵の墓(常楽院)】 → 【天誅組本陣跡(櫻井寺)】 → 【乾十郎顕彰碑】 → 【乾十郎の墓(井上院)】 → 【鈴木源内の墓(極楽寺霊苑)】 → 【森田節斎顕彰碑】 → 【乾十郎宅跡】 → 【森田節斎宅跡】 → 【五條市立民俗資料館(旧・五條代官所長屋門)】 → 【井澤宜庵宅跡】【賀名生の里歴史民俗資料館】 → 【北畠親房公墓】 → 【黒木御所跡】【天辻維新歴史公園】 → 【大塔村郷土館・歴史の蔵】【谷瀬の吊橋】 → 【十津川村歴史民俗資料館】【玉置神社】【野猿】 → 【奈良県立十津川高校】 → (湯の峰温泉泊) 

日本一広い村である十津川へ。

【谷瀬の吊橋】

夫は高い所が苦手だ。
だから、谷瀬の吊橋に寄ると聞いて驚いた。
煙と同様、高い所に登るのが好きな私は嬉しい。

谷瀬の吊橋は、昭和29年(1954)、1戸あたり20万円という当時としては大金を出し合って架けられた。
長さ297.7メートル、高さ54メートルで、歩道専用の吊橋としては日本一といわれている。


80センチほどの板が敷かれている。
場所によっては、ガタガタしているけれど、大丈夫なのかな?
渡橋の注意事項が書かれていた。
それによれば、1度に20人以上渡ると危険なのだそうだ。
「観光客が二輪車で橋を渡ることは禁止」とあったので、地元の人々は二輪車で渡ることもあるんだろう。
一番驚いたのは、この橋が通学路でもあるということ。
雨や風の日は怖いだろうに。


橋の上から川原を見ると、こんなメッセージが。


黒木御所跡
吊橋を渡ったところから程近くに、黒木御所跡がある。
「黒木御所跡
大塔宮護良親王が元弘元年10月赤坂城を脱出され、高野山を経て十津川にのがれられたとき、十津川の豪族竹原八郎はこれを迎え入れ、仮宮殿を建ててかくまったところと伝えられている。明治22年の大水害までは、当時、宮及び重臣が弓術、馬術を練習したところ並びに竹原八郎の墳墓といわれる五輪の塔などがあったが、現在は河底に埋っている。なお、このところは、かつて天誅組が幕軍を迎えて決戦を試みようとしたところでもある。」(案内板より)


【十津川村歴史民俗資料館】

南朝や十津川郷士に関する資料も興味深かったが、明治22年(1889)に起こった水害や北海道の新十津川町に関する展示が心に残っている。


絹谷幸二の『十津川に昇る太陽』もあった。


【野猿】

野猿とは、人力ロープウェイのこと。
猿が木を伝っていく様子に似ていることから、その名前が付いたという。
かつては、橋を架けることのできない場所の移動に使われていたそうだ。


ワイヤーを引っ張って、自力で向こう岸まで。
結構、腕がくたびれる。


【奈良県立十津川高校】

司馬遼太郎の『街道をゆく 十津川街道』や、上に挙げた十津川村歴史民俗資料館で文武館について目にしたので、立ち寄ってみた。
十津川高校の前身である文武館は、孝明天皇の内勅により、元治元年(1864)に創立された。
平成26年(2014)には創立150周年を迎えるというから、かなり歴史のある学校だ。

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