奥井は山本夏彦のコラムが好きなようですね。奥井と似ているところがあるからかもしれません。
教育の普及は浮薄の普及
「教育の普及は浮薄の普及なり」という金言がある。かれこれ九十年前の言葉だが、現代を言い当てて妙である。三十年前は就職組と進学組とがあった。中学を出てすぐ働くのが就職組、高校へ行くのが進学組で、その人数が相半ばしているうちは互いに争ったが、たちまち争わなくなったのは就職組がいなくなったからで、これは高度成長によって貧乏がなくなったせいで、生徒が勉強したせいではない。
同じころ社会党は「高校全入」と言ったが、これも言わなくなった。さっさと全入してしまったからで、今では中途退学する者の方が問題になっている。
ついこの間まで大会社は女子は短大卒、自宅から通勤できるものしか採らなかったが、この手不足である。そんなことは言ってられない。女子も四年制の大卒を採るようになったから、近く短大卒は肩みがせまくなってこぞって四年制へ行くようになるだろう。
小学校から数えて満十六年学校へ通う勘定である。昔は「読み書きそろばん」といって、寺子屋は四年だった。明治の新学制は尋常小学校四年高等小学校四年あわせて八年にしたので、長すぎると寺子屋から私立の小学校に昇格した学校に行って公立に行かなかった。明治三十年まで寺子屋系の私立と公立は半々くらいだったという。裕福な商家でも子弟があとを継がなくなるからとせいぜい旧制の商業学校までしか進学させなかった。娘は手習い踊り茶の湯生花など女ひと通り稽古ごとを塾で学んだ。そして娘は多く十七、八で嫁にいった。大正になっても森鴎外の娘茉莉は数え十七で結婚している。
いま満二十二で卒業して三、四年働いて二十五で結婚するのが普通だという。初々しい花嫁という言葉はあるが、実物を見ることはなくなった。以前ははたちすぎれば年増、その上に中年増あり大年増があった。二十五は中年増か。
尋常四年の昔にもどれとは言わないがせめて森茉莉の昔まで圧縮してはどうか。四年制の大学を出ても旧制女学校での森茉莉以上の内容があるわけではないことご存じの通りである。短くする発想がないのはけげんである。長いばかりが能ではないぞ。
（平成三年十月三十一日号）
せめて裏おもてあるべし
アルバイトの女子大生の電話の応対が珍しくいいので、その社の女子社員が聞き耳をたてやがてまねして全体が少しよくなったようだと聞いて、本当かとそのアルバイト嬢に確かめたら、なにみなさん裏おもてがないだけ、あたしだって仲間同士なら学生ことばで何言うか知れやしません、ただ出るところへ出れば「よそいき」を使うだけですと笑ったので、裏おもてがないとは言い得て妙だと感心した。
やっぱり教育のせいである。先生と生徒は友のごとくあれ、相手によって言葉をかえるのは差別だと、小学校の先生は生徒と言葉を共にして四十年になる。
いま「新卒」の母親は四十代で、よそいきの言葉を使えない世代である。先生と生徒どころか、親と子も友だちのごとくあれと教わって育って、人の子の親になったのだから、言葉ばかりではない料理裁縫わが子に伝える何物も持たない。
家のなかに敬語がないから外で使えるわけがない。見よう見まねで使うと「あなた敬語ご存じ？」「はいご存じです」のたぐいになる。だから電話をこわがる。会社の電話の相手はみんな他人である。学生ことばは使えないからこわいのである。こんなことになるとは知らないで、公立の学校の先生はとんだことをしてくれた。わずかに私立の生徒は敬語が使える。
けれどもテレビドラマの主人公は、私はこの男の上役である、または下役であると一々名乗って出て来やしない。茶の間の見物はそれを言葉によって区別して鑑賞しているのだから、聞きわけてはいるのである。ただ使うなと教えられて使わないでいるうち、使えなくなったのである。狼に育てられた子供に似て言葉はあとから教えても身につかない。
テレビドラマはさておき尋常の言葉が通じないで最も困るのは小説家のはずなのに、それがちっとも困らない。ご存じの通り文学雑誌には読者がない。その雑誌を檜舞台に同業者の言葉で訴えるのだから、その心配は無用なのである。小説の言葉が一国の言語の模範である時代は過ぎた。あるいはもともとなかったのではないか。せめて裏おもてあるべし。
（平成三年十一月二十一日号）
「オーイどこ行くのー夏彦の写真コラム」山本夏彦著、新潮文庫より
山本夏彦の写真コラムをペラペラとめくっていると、コーラを飲んだ気分になる。