はがきのおくりもの

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「おとぎの国の倫理学」<84> H15.3.17

2010年09月17日 | じんたん 2002

「おとぎの国の倫理学」ギルバート・キース・チェスタトン作

 さて、最後にこの章のタイトルになっていることばを問題にしなければならない。
 チェスタトンは、「太陽の照る常識の国」を「おとぎの国」(fairyland)ではなく「エルフの国」(elfland)ということばで表している。いうまでもないことだが、両方とも「妖精の国」の意味で、ほとんど違いはない。

 作者は、倫理学(ethics)とおとぎの国(elfland)の語の頭のところで韻を、つまり、韻頭を踏みたかったのである。


 それに、哲学(philosophy)とはいわないで、倫理学(ethics)といったのにも特別な理由があった。倫理学といえば、伝統的に道徳哲学として知られる、いわゆる自然哲学に対する哲学の一分野だ。チェスタトンが「おとぎの国」のなかに、むしろ「おとぎの国」のおとぎ話のなかに見出している倫理学とは、幼いピューリタンたちに理解できるものであろうとなかろうと、すべてのおとぎ話のなかにその実例が見つけられる一般道徳原理である。チェスタトンは『シンデレラ』では、神は卑しき者を高めるという「聖母讃歌(マグニフィカト)」の教訓、『美女と野獣』では、「人は相手が愛すべきものとなる前から愛さなければならない」という教訓、また、『眠れる森の美女』では、「人は、死の呪いをかけられているとしても、誕生という賜物で祝福されているが、その死は眠りとなって鎮められていくものだ」という教訓を読みとっている。チェスタトンに関心があるのは、「おとぎの国のばらばらになった法則」などではなく、「おまじない」「呪文」「憑依」という特徴的な用語で表される「法則全体の精神」である。それで、チェスタトンの目には、「木に実がなるのは、それが魔法の木だから。水が丘を流れ落ちるのは、水に魔法がかけられているから。日が照るのも、太陽に魔法がかけられているから」と映るのだ。これは、現代科学の最も基礎的な前提とは明らかに正反対である。現代科学とそれに全幅の信頼を寄せる人々にとってはいわずもがなであるとチェスタトンは言う。合理的であるどころの話ではない。理性に背を向け、狂気を誘うのは、現代科学なのだ。正気の世界に立ち返るためには、このような不合理を捨て去り、人類の歴史の黎明期に存在し、子どものころには誰もが持っていた「驚嘆の感性」を蘇らせる必要がある。チェスタトンの口癖のように、世界がもう一度若返ることができたらどんなにいいだろう、子どもが持っているあの新鮮で驚嘆する目であらゆるものを見られるようになったらどんなにいいだろう。そうしたら、そういう人はみな天の国に入ることができるからだ。チェスタトンのメッセージは、それほどに単純で、深遠なものなのである。

「童話の国イギリス」ピーター・ミルワード著、中公新書より


 世界は即物的、現実的になりすぎて、年老いてしまった。「驚嘆の感性」を取り戻して、世界が若返ったら、どんな世界が目に映るのだろう。イラク、北朝鮮、世界史の現実が動きつつあるが、それは年取った世界。若い世界はかなり違った世界ではないか。若い世界を見る目が欲しい。


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