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不安定な時代を招いた「大衆」の登場 <66> H15.1.6

2010年08月20日 | じんたん 2002


 「昔は愚か者にしろ、自分自身の力で愚かだった」っていい言葉ですねぇ。
 正解があるという発想を持たず、「忍苦し、努力し、行動する」ことそのものが生きていることであり、たとえ愚かでも自分というものを確かにするんだなあと思いました。


不安定な時代を招いた「大衆」の登場

 なぜ、十九世紀のヨーロッパは、こんなに不安定な時代になってしまったのか。ブルクハルトは、そのもっとも大きな理由の一つを「大衆の登場」のなかに見ようとする。

 大衆は、あらゆる事態にたいして不満であり、すべての不都合なことを既存の状態のせいにする。ほんとうは、彼らを圧迫しているのは、人間の不完全さに由来するものであるが。

 そして、大衆は、常に群をなし、集団で行動したがる。集団から離れれば、彼らはたちまち不安に陥り、「主よ助けたまえ、われらは滅亡する」と叫び立てる。それでいて、大衆は、単調な生活に倦みやすく、そこから騒擾をもとめるようになる。けれども、実際に大規模な騒擾が起これば、今日の事態は一変してしまうから、そうしたことを恐れる大衆は、小規模で発端だけで終わる騒擾を繰り返し欲するのである。

 このように十九世紀に登場してきた大衆の臆病さを嘲るブルクハルトは、この世紀の薄っぺらな教養にたいしても、憎悪の念をしめす。「教養」とは、本来は、自分を自発的に形成してゆくことなのだが、そんなことはとっくに忘れ去られている。人びとがもとめているのは、「教養」というありきたりの烙印を押してもらうことであり、これも「近代生活と称される怪物」のなかにうまくはまり込みたいためなのである。今日では、どんな愚か者であろうと自分は教養ある人間なのだと思いこんでいるが、近代の教養なるものは、非凡な人間の代わりに、「精一杯背伸びした凡庸人」を生産しているにすぎない。

 ブルクハルトの筆は、さらに十九世紀の人びとが見せる異常な教育熱についても、まことに辛辣である。「無償教育、義務教育、クラス当たり三十人の生徒数、生徒一人当たり最小限なにがしかの立方メートル空間、学科の詰め込み、教師たちにたいする浅く広い知識の強制等、これらは同じ種類の事態の一つの連環以外の何ものでもない。……そして、もちろん、その結果はあらゆる人びとの、あらゆる事態にたいする不満である。……現代における都市とは、資産のない親たちが、彼らのありとあらゆる僭望をかなえるように都市が子供を教育してくれる唯それだけの理由から、嬉々として引き移ってくる場所である」。このようなブルクハルトの文章に接すると、十九世紀のヨーロッパと現在の日本が、こうした風潮においてあまりに似通っていることにあらためて驚かされる。

 「われわれが直面しているのは、一般的な平準化である」と見なすブルクハルトは、十九世紀の個性の喪失を嘆いて、次のような文句さえ吐く。「昔は愚か者にしろ、自分自身の力で愚かだった」。


 ヘーゲル流の進歩史観をきびしく批判する一方、ブルクハルトは、みずからの歴史観の出発点を次のようなところにもとめる。私たちは、なによりも体系的なものをすべて断念する。そして、「世界史的理念」などというものを主張する代わりに、ただ観察に徹しようとする。「私たちの出発点は、ただ一つの恒常的で私たちにとって可能な中心点、すなわち、忍苦し、努力し、行動する人間である。この人間のあり方は、現在もそうであるし、過去にもそうであったし、未来にも変わることはないだろう」。いいかえれば、「私たちは、繰り返す恒常的なもの、類型的なもの、したがって、私たちのなかに響いてくる、理解可能なものを考察する」。

 歴史哲学者たちは、歴史を時間の縦軸にそって切り裂き、その縦断面のなかに始まりと終わりのある壮大な物語を読み込もうとする。これにたいし、ブルクハルトは、歴史をどの部分で輪切りにしてもその横断面に見えてくる変わらざる人間の姿に歴史的考察の出発点をおこうとする。歴史の時間的な流れのなかに壮大な物語を認めないブルクハルトは、歴史の始まりを問題にしないし、また、歴史の終末や目的をもとめようともしない。この限りでは、ブルクハルトにとっての歴史とは、人間精神が変わらざる人間性に根ざしながらくり広げてきた、始まりも終わりもない「精神の連続体」以上のものではないということになる。

「歴史をいかに学ぶか ブルクハルトを現代に読む」野田宣雄著、PHP新書より



 「歴史を浅薄な進歩思想やたんなる好事家的興味から救い出し、人生を生きてゆく上での深い智慧の源泉にしようとする歴史観」の一端を伝えようとする野田氏の試みは、進歩史観にどっぷり浸かった私には新鮮であり、考えさせられるものが大であった。
 「歴史とは何か」「人間とは何か」「生きるとは何か」何も知らないことを痛感するばかりである。


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