虚空漂浪日記

魂の開放を求めて、右往左往。嫌われものの”宗教”の根本を捜し求める日記です。

祟り?

2006-05-28 11:40:25 | 宗教


昨日は、日曜以外で久々に休みをもらった。もらったというのも変な表現だが、5月の連休の代替なのだ。昼勤務の人たちはそれなりに連休を取っていたが、夜勤務は人手が足りないので、休むに休めないのだ。
で、この3週間の毎土曜日に1人づつ、こっそりと休むことにし、私が最後である。
でも、以前に書いた知人の病気見舞いや、町内会の会費集めなどで、あっという間に1日は過ぎてしまった。
特別な休みの日でなければできないことがたくさんある。

今日は、少し変な話を。
宗教を考える時は、その基本が"霊"であると、色々な場面で書いたと思う。
人間は肉体的存在であるとともに、霊的存在でもあると思うのだ。
肉体的存在は物質法則に基づいて、当然、死滅するのであるが、霊的存在は必ずしも死滅しないものと考えられる。
私は霊もやがてその根本に帰り、その根本がやがて消滅して、新たに成長し、蘇るのではないかと推察しているのだが・・・・。

さて、悪霊というものはいるのだろうか?
私はいるのだろうと思っている。
人間が”霊”的存在でもあるとするならば、個々の霊はとりあえずこの時空に残ることが考えられる。
霊の行く先を、少し整理してみよう。
まず、基本は輪廻転生する霊、まぁ、人生を繰り返し選択の自由を与えられる霊群だろう。
仏教の基本的思想は、この輪廻転生から抜け出す霊を目指している。
その捉え方の基本は、この世は”苦”(=苦しみが多い)という捉え方から発している。

だが、この唯物的世界の中にあっては、人が死ぬのは当然という視点が根本にあるから、人生を"苦”と捉えるのではなく、短い一生を”楽”に楽しく生きようという考えが中心となる。
仏教とは丁度正反対の視点で生きていくというのが唯物的視点であろう。
人生を肯定的に考えるか、否定的に考えるかで、大きく異なる。
人生の終着が死であるということを肯定的=当たり前と捉えると、人生は楽しく生きたほうが良いに決まっている。
だが、現実にはそうはいかない。
親の遺産がゴッソリあるか-税金で随分と持っていかれるが-、宝くじで3億円(サマージャンボで3億円♪)当たるか、株で儲けるかなどなどしないと、そうはいかない。
とにかく、働かなければ食うことはできない。
働くということは、人間関係の只中に組み込まれることである。
そこには嫌らしい人間が沢山いるのだし、自己中人間が群れをなしている。
無論、良い人も多少はいるのだが、一般に恵まれない存在となるのだな、これが・・・。

そんだこんだで、”楽”に生きようとしても、そう楽に楽しく生きて行けないのがこの人間社会である。
いきおい、刹那(せつな)の快楽でその穴を埋めようととするのかも知れない。

おっと、人生論になってしまった。

霊の種類でもう一つは、成長して輪廻転生しない霊がありそうだ。
仏教の開祖、ゴータマさんは解脱したそうだから、転生はなしだろう。
その霊が何処にいったかは、まぁ、霊界のいいところ程度に考えておこう。

第3が、この世でもウロチョロする悪霊かな?
転生もできず、霊界でも下層に位置した場所にいるか、この世とあの世の中間あたりでどちらにも行けずにウロウロしている霊群。
これらは元々人間意識を持っているが、霊界の基準=法則に合わないわけだから、行き場がないか、霊界の下位にあって、この世=人間界(=物質界)にも出入りする心根の良くない存在がありそだ。

人間社会にも沢山いるであろう。
そんな人間の悪い心根が純化した存在が、悪霊と想定すればいいかな?
そんな連中が時々悪さをするようだ。
何故、このようなことを言えるかといえば、一刀斎、随分と苛められているからである。
自分の過失や失敗などではなく、明らかに他人の手によって連続して起こる災難というものがある。
昔のことであるが、概ね6ケ月にわたって続いた事故がある。
覚えっているものを挙げると、最初は仕事関係から始まった。
依頼を受けた仕事を外注にだしたのだが、期日が近づいたので外注先に状況を聞くと、担当者が失踪してまったく手付かず状態だという。
おかげで、納品が遅れ、最大の依頼先から半年間干された><;;。
次が、自動車事故。タクシーに乗って、信号待ちであったが、追突され鞭打ち症に。その1ケ月後にもタクシーに乗って、とまっている時に追突された。
追突してきた若者は、次の日に示談で来社したのだが、何でぶつかったか分からないと不思議がっていた。
2回目は交番の前だったのだが、警官が来たものの、前月、事故で鞭打ちだと言ったら、「それじゃ、示談にしてね」と帰っていく始末。
タクシー会社とどうなったかは、知らないが・・・。
あと細々とした事故は沢山あったのだが、最後は床屋。
散髪していると、私の耳をハサミでチョッキン。
床屋曰く、「50年床屋をやってますが、ハサミで切ったのは初めてです。とほほ。」

鞭打ちで通っていた病院へ行くと、院長曰く。
「今度はどうしたの? 耳かい。縫うかなぁ~。」と呆れ顔。
そういえば、病院に通っていた治療費を、保険会社が払わないとほざいて喧嘩になる始末でもあった。
別に私が儲けるわけでもないのに、慰謝料を請求したわけではないのだから、追突した人の保険料で病院代を払うのは当然であるが、それすらイチャモンがつく。
因みに、耳チョッキン事件は、床屋さんが治療費を支払った。当然だが。
そんだこんだで、周りの人たちにも、私に何か得体のしれないことが起こっていることが分かり始めたのである。
「神社にお払いに行くべきだ」という意見が多数を占めたが、神社に霊験があるとも思えないので、自分でバンバンした。
その時の答えをくれたのが、自分の直感と知識である。
その当時、私は神も仏も信じていなかったので、別に祈ろうなどとも思わなかった。
しかし、直感が教えてくれたことを実行すると、すべてが終わった。

現実に何か、分からない、理性では認識できない何ものかがあるのだ。
これは、事実であるし、実は私が現在の家に住み着いてから、また、何かが起こっているのである。
長くなったので、この件については、また、何処かでお話しようと思う。

では、また。