昨年からの金融不安以来世界的な不況が続いています。オバマ大統領就任や9月の政権交代は、これからの変化を予想させます。
しかしながら、「小泉改革」を初めとして過去に行われた改革で成功を収めたものは少ないというのも事実です。江戸時代では、8代将軍吉宗の享保の改革、松平定信の寛政の改革、水野忠邦の天保の改革といった幕政改革が歴史の教科書に出てきますが、いずれも成功とは言いがたいですし、藩政改革としてはケネディ大統領が尊敬していたといわれる上杉鷹山が有名ですが、その改革が実を結んだのは鷹山の死後だと言われています。
今回紹介する山田方谷は、幕末に小藩ながら備中松山藩(現在の岡山県高梁市)の藩政改革を成功させ、また近代式軍隊の創設し、教育者として多数の後継者を育てるなど数多くの功績を残した人物です。このような人物が余り知られていない理由は備中松山藩が幕府方つまり賊軍であったこと、維新後、方谷が新政府への参画を固辞して歴史の表舞台に立たなかったことが挙げられます。しかし、「改革の時代」にあって山田方谷が故郷のある中国地方を中心に再評価されるようになりました。岡山県と鳥取県を結ぶ伯備線に「方谷駅」があります。JRになってからは分かりませんが、少なくとも国鉄時代はこの駅が唯一人名を冠した駅で、このことは山田方谷が地元からいかに慕われていたかということを示しています。
山田方谷は農民(元武士の家系であったそうですが)の子供として生まれましたが、学業優秀のため、武士として取り立てられ、京都や江戸に遊学し頭角を現します。その後備中松山藩の藩校であった有終館の学頭となります。この時期ご他聞にもれず備中松山藩の財政も火の車でしたが、最後の藩主である板倉勝静(かつきよ)が就任した際、勝静は方谷を元締役に抜擢しました。方谷は重臣を差し置いて藩政を担うことになりました。この時期石高5万石の備中松山藩は実質2万石もなく、借金を10万両(今の貨幣価値で600億円)あったと言われています。
そこで方谷は以下の政策を実行し、7年後には産業の振興により実質20万石となり10万両の借金は返済したばかりか逆に10万両の蓄えができるなど裕福な藩となりました。
(1)借り手の大阪の商人を訪れ、藩の財政が破綻していうことを明かし、綿密な返済計画を示す代わりに、借金の返済をしばらく猶予するよう依頼、了解を取り付けた。
(2)藩内で産出する鉄を利用し、農具を製造し全国に販売した。特に独自の形をした鍬は「備中鍬」として有名(つまりブランド)になった。
(3)特産物販売に当たって「撫育方」という役所を作り、販売管理を行った。
(4)藩の財政が破綻したため、藩で発行した通貨の藩札は紙くず同然となった。そこで全ての藩札を回収し、集めた藩札を衆人環視の中で焼却した。新たに発行した藩札は、産業振興の成果もあり他の藩でも流通するほど信用を集めた。
(5)領内においては倹約を奨励する一方で、民心を安定させる為に数々の政策を行った。特に領内に40箇所の貯倉を設け、凶作の際はこれらを解放したため、方谷の治世時に農民には一人の餓死者も出なかったと言われている。
このような藩を豊かにさせた備中松山藩の功績、また藩主の勝静の血筋(「寛政の改革」の松平定信の孫)から、勝静は幕府の筆頭老中に就任しました。そのことから、方谷も幕政に裏方で参画していたと言われ、大政奉還の原案は方谷が作成したという説があります。
その一方時代は幕末であり、倒幕の動きなど各地で不穏な動きが高まりました。方谷は西洋式砲術といった新しい技術の導入と農兵制を導入し練兵の結果、本格的な近代式軍隊が編成されました。備中松山に立ち寄ってその訓練を見た長州藩の久坂玄瑞がその様子を高杉晋作に伝えた結果、「奇兵隊」の編成につながったと言われています。このように最精鋭の軍隊を組織した方谷ですが、戊辰戦争の際、賊軍となった備中松山藩は方谷の判断で、無血開城を行い備中松山が戦火に包まれることはありませんでした。
このように卓越した行政手腕を発揮した方谷ですので、賊軍出身にも関わらず新政府への参画を再三要請されましたが、頑なに固辞し備前藩の藩校だった閑谷学校を再興するなど地元の教育のために余生をささげました。その愛弟子には近代日本の発展に大いに貢献した人材も少なくありませんでした。その生き様から方谷は「備中聖人」とも呼ばれています。
しかしながら、「小泉改革」を初めとして過去に行われた改革で成功を収めたものは少ないというのも事実です。江戸時代では、8代将軍吉宗の享保の改革、松平定信の寛政の改革、水野忠邦の天保の改革といった幕政改革が歴史の教科書に出てきますが、いずれも成功とは言いがたいですし、藩政改革としてはケネディ大統領が尊敬していたといわれる上杉鷹山が有名ですが、その改革が実を結んだのは鷹山の死後だと言われています。
今回紹介する山田方谷は、幕末に小藩ながら備中松山藩(現在の岡山県高梁市)の藩政改革を成功させ、また近代式軍隊の創設し、教育者として多数の後継者を育てるなど数多くの功績を残した人物です。このような人物が余り知られていない理由は備中松山藩が幕府方つまり賊軍であったこと、維新後、方谷が新政府への参画を固辞して歴史の表舞台に立たなかったことが挙げられます。しかし、「改革の時代」にあって山田方谷が故郷のある中国地方を中心に再評価されるようになりました。岡山県と鳥取県を結ぶ伯備線に「方谷駅」があります。JRになってからは分かりませんが、少なくとも国鉄時代はこの駅が唯一人名を冠した駅で、このことは山田方谷が地元からいかに慕われていたかということを示しています。
山田方谷は農民(元武士の家系であったそうですが)の子供として生まれましたが、学業優秀のため、武士として取り立てられ、京都や江戸に遊学し頭角を現します。その後備中松山藩の藩校であった有終館の学頭となります。この時期ご他聞にもれず備中松山藩の財政も火の車でしたが、最後の藩主である板倉勝静(かつきよ)が就任した際、勝静は方谷を元締役に抜擢しました。方谷は重臣を差し置いて藩政を担うことになりました。この時期石高5万石の備中松山藩は実質2万石もなく、借金を10万両(今の貨幣価値で600億円)あったと言われています。
そこで方谷は以下の政策を実行し、7年後には産業の振興により実質20万石となり10万両の借金は返済したばかりか逆に10万両の蓄えができるなど裕福な藩となりました。
(1)借り手の大阪の商人を訪れ、藩の財政が破綻していうことを明かし、綿密な返済計画を示す代わりに、借金の返済をしばらく猶予するよう依頼、了解を取り付けた。
(2)藩内で産出する鉄を利用し、農具を製造し全国に販売した。特に独自の形をした鍬は「備中鍬」として有名(つまりブランド)になった。
(3)特産物販売に当たって「撫育方」という役所を作り、販売管理を行った。
(4)藩の財政が破綻したため、藩で発行した通貨の藩札は紙くず同然となった。そこで全ての藩札を回収し、集めた藩札を衆人環視の中で焼却した。新たに発行した藩札は、産業振興の成果もあり他の藩でも流通するほど信用を集めた。
(5)領内においては倹約を奨励する一方で、民心を安定させる為に数々の政策を行った。特に領内に40箇所の貯倉を設け、凶作の際はこれらを解放したため、方谷の治世時に農民には一人の餓死者も出なかったと言われている。
このような藩を豊かにさせた備中松山藩の功績、また藩主の勝静の血筋(「寛政の改革」の松平定信の孫)から、勝静は幕府の筆頭老中に就任しました。そのことから、方谷も幕政に裏方で参画していたと言われ、大政奉還の原案は方谷が作成したという説があります。
その一方時代は幕末であり、倒幕の動きなど各地で不穏な動きが高まりました。方谷は西洋式砲術といった新しい技術の導入と農兵制を導入し練兵の結果、本格的な近代式軍隊が編成されました。備中松山に立ち寄ってその訓練を見た長州藩の久坂玄瑞がその様子を高杉晋作に伝えた結果、「奇兵隊」の編成につながったと言われています。このように最精鋭の軍隊を組織した方谷ですが、戊辰戦争の際、賊軍となった備中松山藩は方谷の判断で、無血開城を行い備中松山が戦火に包まれることはありませんでした。
このように卓越した行政手腕を発揮した方谷ですので、賊軍出身にも関わらず新政府への参画を再三要請されましたが、頑なに固辞し備前藩の藩校だった閑谷学校を再興するなど地元の教育のために余生をささげました。その愛弟子には近代日本の発展に大いに貢献した人材も少なくありませんでした。その生き様から方谷は「備中聖人」とも呼ばれています。