ご覧になった方もいらっしゃると思いますが昨日のNHKの「その時歴史は」で継体天皇が取り上げられていました。
継体天皇につきましては拙ブログでも記事にしましたが、越前の国から迎えられ摂津樟葉宮で即位し、九州の叛乱を平定するなどヤマト政権の中央集権化の礎を築いた人物として知られています。番組では継体天皇の墓所とされている高槻市の今城塚古墳の石棺の材質が熊本県の馬門石であることを紹介し、継体天皇の代にヤマト政権の影響力が熊本にまでついに及ぶようになった、としていました。馬門石は別名「阿蘇ピンク石」と呼ばれ、阿蘇山の火山活動によって生成した石だそうです。
阿蘇の石と聞いて思い出したのが、吉備の国(岡山県)の造山古墳にある石棺です。この石棺の石材も阿蘇凝灰岩と呼ばれる九州から産出されたものだそうです。他にも吉備の古墳の数箇所から阿蘇産の石棺が出土しています。そしてこの時代には畿内の古墳からは阿蘇産の石棺は出土していません。
ではこの時代ヤマトに先立ってなぜ距離のそう違わない吉備の国に阿蘇産の石棺があったのでしょうか。それについて読売新聞の九州版のシリーズ「大王と海」に興味深いことが記載されています。つまり肥後の南部を治めていた人物が吉備に縁のある人物だったということです。また、日本書紀の神功皇后紀によると「吉備臣(おみ)の祖・鴨別(かものわけ)を派遣して熊襲(くまそ)国を撃たしむ」とされています。そして熊本県にある鴨籠(かもこ)古墳はその石室の構造が肥後地方にあるそれとは異なり吉備や畿内のものに近いそうです。阿蘇産の石棺は肥後と吉備の関係、そして当時の吉備の勢力を示すものであったと思われます。
その後雄略天皇の時代に吉備の勢力は衰退しますが、雄略天皇の死後河内王朝も衰退していきます。そのような中で継体天皇が即位します。つまり継体天皇(とその後継者)が新たな王としての存在を示すため、阿蘇産のピンク色の石棺を使用したと考えられます。倉敷考古館の間壁忠彦館長も阿蘇産のピンク色の石棺を「畿内の王権が交代する時の石棺」で、「備前地方に興った新勢力による古墳群からも阿蘇ピンク石棺が出土しており、この勢力が次の王権を担うべき大和の勢力と結んでいたことの証し」と考えていらっしゃいます。
この阿蘇ピンク石棺は継体天皇だけでなく、その重臣一族の墓所にも見られます。更に継体天皇の孫にあたる推古天皇が初めに弔われたと言われている奈良県の植山古墳(推古天皇の息子である竹田皇子との合葬)からも出土しています。
この時代にメイドイン阿蘇の石棺は一つのブランドとして吉備から畿内に入っていったのかもしれません。
継体天皇につきましては拙ブログでも記事にしましたが、越前の国から迎えられ摂津樟葉宮で即位し、九州の叛乱を平定するなどヤマト政権の中央集権化の礎を築いた人物として知られています。番組では継体天皇の墓所とされている高槻市の今城塚古墳の石棺の材質が熊本県の馬門石であることを紹介し、継体天皇の代にヤマト政権の影響力が熊本にまでついに及ぶようになった、としていました。馬門石は別名「阿蘇ピンク石」と呼ばれ、阿蘇山の火山活動によって生成した石だそうです。
阿蘇の石と聞いて思い出したのが、吉備の国(岡山県)の造山古墳にある石棺です。この石棺の石材も阿蘇凝灰岩と呼ばれる九州から産出されたものだそうです。他にも吉備の古墳の数箇所から阿蘇産の石棺が出土しています。そしてこの時代には畿内の古墳からは阿蘇産の石棺は出土していません。
ではこの時代ヤマトに先立ってなぜ距離のそう違わない吉備の国に阿蘇産の石棺があったのでしょうか。それについて読売新聞の九州版のシリーズ「大王と海」に興味深いことが記載されています。つまり肥後の南部を治めていた人物が吉備に縁のある人物だったということです。また、日本書紀の神功皇后紀によると「吉備臣(おみ)の祖・鴨別(かものわけ)を派遣して熊襲(くまそ)国を撃たしむ」とされています。そして熊本県にある鴨籠(かもこ)古墳はその石室の構造が肥後地方にあるそれとは異なり吉備や畿内のものに近いそうです。阿蘇産の石棺は肥後と吉備の関係、そして当時の吉備の勢力を示すものであったと思われます。
その後雄略天皇の時代に吉備の勢力は衰退しますが、雄略天皇の死後河内王朝も衰退していきます。そのような中で継体天皇が即位します。つまり継体天皇(とその後継者)が新たな王としての存在を示すため、阿蘇産のピンク色の石棺を使用したと考えられます。倉敷考古館の間壁忠彦館長も阿蘇産のピンク色の石棺を「畿内の王権が交代する時の石棺」で、「備前地方に興った新勢力による古墳群からも阿蘇ピンク石棺が出土しており、この勢力が次の王権を担うべき大和の勢力と結んでいたことの証し」と考えていらっしゃいます。
この阿蘇ピンク石棺は継体天皇だけでなく、その重臣一族の墓所にも見られます。更に継体天皇の孫にあたる推古天皇が初めに弔われたと言われている奈良県の植山古墳(推古天皇の息子である竹田皇子との合葬)からも出土しています。
この時代にメイドイン阿蘇の石棺は一つのブランドとして吉備から畿内に入っていったのかもしれません。
僕も、その番組を録画していて、この週末に見ました。
この時代に造詣の深いo_sole_mioさんと違って、
僕は、歴史好きではありますが、この時代のことについては疎く、興味も薄かったんです。
ところが、今年の1月に初めて行った九州国立博物館の常設展が、博物館のある大宰府を中心とした地域の歴史を中心としていまして、ここで初めて、この時代の頃の大宰府地域、日本に興味を持ちました。
自分の知らなかった“世界”や“歴史”があるようで、とても楽しかった思いがあります。
そういう状況でのこの番組でしたが、継体天皇を始め、ヤマト政権の動きは、興味深かったです。
ですが、「メイドイン阿蘇の石棺」に、これほどまでの“権威”があるとは、驚きでした。
番組では、継体天皇の支配が及んだ証拠としか紹介がなかったですよね。
「メイドイン阿蘇の石棺」に、今後も注目していきそうです。
とても勉強になりました。
近年いろいろな研究調査で明らかになったこともあり、学生時代に習った歴史と比べて古代史がかなり様変わりしてきたように思われ、それがまた好奇心をそそりますね。
北部九州は、当時大陸・半島の交流の拠点だっただけに、ヤマト政権の中央集権能力が高まってくると大宰府が設置され、重要な拠点として位置づけられるようになったのだと思います。後期古墳の一つの特徴である横穴式石室は九州が起源でその後日本全体に普及していったようです。
吉備はヤマト政権の重要なパートナーとして西の最前線に立つ一方で九州や出雲と交流があり、阿蘇産の石を使った石棺が吉備の古墳が出土している背景にもなっていると思われます。
継体天皇が阿蘇産の石棺を使った理由は、これまでの体制、つまり河内王朝と異なることを示すためという継体天皇側の理由もあったのだと思っています。
また大宰府関係で面白い話がありましたら、記事にして教えて下さい。楽しみにしています。