日露戦争のクライマックスとも言える日本海海戦から今月で百周年を迎える。
日本海海戦は、遠くロシア、バルト海から遠征してきたバルティック艦隊を日本の連合艦隊が迎え撃った戦いで、新型戦艦5隻を中心とする約50隻の大艦隊を軽巡、駆逐艦数隻を除き、撃沈または拿捕し、一方で連合艦隊の損害は水雷艇3隻のみという海戦史上屈指の大勝利と評されている。
横須賀の港に戦艦三笠が記念艦として繋留されている。日本海海戦当時の連合艦隊旗艦で、連合艦隊の先頭に立ち激しい戦いの末ロシアの大艦隊を見事撃滅した。三笠は1902年に英国で建造された当時世界最大、最強の戦艦で日露戦争では日本海海戦を含め、旅順攻撃、黄海海戦など日露戦争を通じて活躍した。ところが日露戦争終了後佐世保港停泊中に火薬庫の爆発により沈没するなど波乱の生涯を送った後、ワシントン海軍条約によって除籍された。三笠は廃艦となる運命だったがその後も記念艦として保存される事になった。
しかし三笠の波乱はこれで終わらなかった。太平洋戦争終戦後、連合国であるソ連が三笠の廃棄を主張した。日本占領を実質的に占領した米軍はソ連の主張を退けたが、艦橋や煙突、マストなどの構造物は撤去され、三笠の船体はキャバレー、ダンスホールなどの施設に利用され、往時を見る影もなく荒れ果てたという。
海戦史上屈指の大勝利を収めた栄光の旗艦の惨状を何とかしようと、1955年頃から三笠復元の声が国内外より上がるようになった。その三笠復元に立ち上がった一人がチェスター・ニミッツ提督である。ニミッツ提督は太平洋戦争当時の米海軍太平洋艦隊司令長官で、連合艦隊の主力艦の大半を海底に沈めた張本人である。日本海海戦当時の連合艦隊司令長官だった東郷平八郎元帥を尊敬していたニミッツ提督は、「文藝春秋」の昭和33年(1958年)2月号の「三笠と私」のタイトルで寄稿し、その原稿料を三笠保存のため東郷元帥記念保存基金に寄付した。更にニミッツ提督は米海軍に働きかけ、横須賀にあった廃艦一隻を日本に譲渡し、スクラップにして得た全約三千万円を三笠の復元に充てるべく取り計らった。
ニミッツ提督は「三笠と私」の中でこのように述べている。
「日本国民と政府が全世界の海軍軍人に賞賛されている東郷提督の思い出をながらえるため、適切な方法を講ずることを希望する」
これ以外にも日米を中心に募金活動や復元への働きかけが実を結び、1961年5月27日日本海海戦後の56年後に現在の姿に復元された。
三笠は唯一の現存する日本の戦艦であるが、日本の戦艦、空母を沈没、大破させた海軍の指導者が、かつての敵国の一隻の戦艦を救うために奔走したというのは大変興味深い話だと思う。
しかしその一方で日露戦争は中国大陸の権益をロシアと争った帝国主義の戦争であること、三笠の復権は明治以降に日本が国策とした帝国主義政策の復権とは異なることを忘れてはならないだろう。
日本海海戦は、遠くロシア、バルト海から遠征してきたバルティック艦隊を日本の連合艦隊が迎え撃った戦いで、新型戦艦5隻を中心とする約50隻の大艦隊を軽巡、駆逐艦数隻を除き、撃沈または拿捕し、一方で連合艦隊の損害は水雷艇3隻のみという海戦史上屈指の大勝利と評されている。
横須賀の港に戦艦三笠が記念艦として繋留されている。日本海海戦当時の連合艦隊旗艦で、連合艦隊の先頭に立ち激しい戦いの末ロシアの大艦隊を見事撃滅した。三笠は1902年に英国で建造された当時世界最大、最強の戦艦で日露戦争では日本海海戦を含め、旅順攻撃、黄海海戦など日露戦争を通じて活躍した。ところが日露戦争終了後佐世保港停泊中に火薬庫の爆発により沈没するなど波乱の生涯を送った後、ワシントン海軍条約によって除籍された。三笠は廃艦となる運命だったがその後も記念艦として保存される事になった。
しかし三笠の波乱はこれで終わらなかった。太平洋戦争終戦後、連合国であるソ連が三笠の廃棄を主張した。日本占領を実質的に占領した米軍はソ連の主張を退けたが、艦橋や煙突、マストなどの構造物は撤去され、三笠の船体はキャバレー、ダンスホールなどの施設に利用され、往時を見る影もなく荒れ果てたという。
海戦史上屈指の大勝利を収めた栄光の旗艦の惨状を何とかしようと、1955年頃から三笠復元の声が国内外より上がるようになった。その三笠復元に立ち上がった一人がチェスター・ニミッツ提督である。ニミッツ提督は太平洋戦争当時の米海軍太平洋艦隊司令長官で、連合艦隊の主力艦の大半を海底に沈めた張本人である。日本海海戦当時の連合艦隊司令長官だった東郷平八郎元帥を尊敬していたニミッツ提督は、「文藝春秋」の昭和33年(1958年)2月号の「三笠と私」のタイトルで寄稿し、その原稿料を三笠保存のため東郷元帥記念保存基金に寄付した。更にニミッツ提督は米海軍に働きかけ、横須賀にあった廃艦一隻を日本に譲渡し、スクラップにして得た全約三千万円を三笠の復元に充てるべく取り計らった。
ニミッツ提督は「三笠と私」の中でこのように述べている。
「日本国民と政府が全世界の海軍軍人に賞賛されている東郷提督の思い出をながらえるため、適切な方法を講ずることを希望する」
これ以外にも日米を中心に募金活動や復元への働きかけが実を結び、1961年5月27日日本海海戦後の56年後に現在の姿に復元された。
三笠は唯一の現存する日本の戦艦であるが、日本の戦艦、空母を沈没、大破させた海軍の指導者が、かつての敵国の一隻の戦艦を救うために奔走したというのは大変興味深い話だと思う。
しかしその一方で日露戦争は中国大陸の権益をロシアと争った帝国主義の戦争であること、三笠の復権は明治以降に日本が国策とした帝国主義政策の復権とは異なることを忘れてはならないだろう。
時あたかもロシアはこの5/8から10日までモスクワで「第2次世界大戦勝利60周年」祝賀式典を大々的に挙行する。今日の産経新聞に伊藤憲一青山学院大学教授が述べているが『この式典に参加する横須賀出身の小泉首相がドイツのシュレーダー首相がするであろうソ連軍が国民を解放してくれたと感謝し、わびることに同調することがあってはならない。ロシアは広島・長崎の原爆投下を見すまして瀕死の日本に襲いかかり、この大戦で唯一領土を拡大した国なのだから。』との正論はまさに肝に銘ずることである。
ご紹介の「対独戦勝60周年祝賀式典」はロシアの国威高揚の意図が露骨で、欧州を中心にかなり批判が出ているようですね。ドイツの首相も外交辞令とはいえロシアのナショナリズムを煽るような発言は控えてもらいたいと思います。
それにしてもロシアは、ソ連時代の東欧諸国の民主化弾圧の責任についてどのようにコメントするつもりなのでしょうか。
三笠の保存に、ニミッツ提督が奔走したこと初めて知り、いささか驚いています。
大戦後の「冷戦の時代」の時代を象徴する出来事ですね。
ドイツは、こうした戦後の終了を宣言しましたが、日本の冷戦はまだのようですね。
それに、キリスト教系大学って右翼なんですね。昔は渡昇でしたが;)
ニミッツ提督が三笠の保存運動に参加した理由ですが、東郷元帥を尊敬していたこと、戦争がなければたとえ敵国でも海軍関係者として一種の連帯感みたいなものがあったことが大きいと思います。ソ連の主張を退けたことを含め米海軍の協力には冷戦の影響も多分にあったのだと思います。
マスターオブライフ主宰PONと
申します。この度は押しかけTBの
ご承認、TBRならびにコメントまで
頂きまして有難うございました。
この「ニミッツ提督と三笠」記事
4/24付けの戦国最高の軍師と
4/13の大和ミュージアム開館
にTBさせていただきました。
上記の
UNKNOWN のコメントは
申し訳ございませんが削除して
いただけませんでしょうか?
私のPCのキーボードが
若干いかれ気味で「エンターキー」を
連打してしまった結果でございます(涙)
三笠ですが、旧帝国海軍唯一現存する戦艦
なのはご存知と思いますが、やっぱり本物は
違います。横須賀にはお時間を見て
是非おこしになられてはいかがですか?
また宜しくお願いいたします。
この界隈には、大和ミュージアムの他、陸奥記念館、回天記念館など海軍関係のモニュメントが点在しているのですが、当然のことながら船が丸ごと残っているところはありません。三笠は貴重な存在ですので機会を作って是非とも訪問したいと思います。
こちらこそよろしくお願い致します。
ニミッツ提督は前線指揮より海軍の人事担当が長かっただけに人心を掌握してたのでしょう。このような度量の大きい人物を太平洋艦隊司令長官にしたアメリカの大きさを感じます。
反面、我が日本海軍は・・・