昨晩、歴史教科書の話題が出たので、歴史認識に関する私の考え方を述べてみたい。
過去の歴史について善悪だけで論じるべきではないと思う。太平洋戦争を百羽一絡げに「善だった」「悪だった」決めつけることには無理があり、こういった善悪二元論が、延々と不毛の論争を続ける原因にもなっているのだと思う。東京裁判も日本が「被告」なのだが、日本が負けたから被告であって、決して日本が悪で、連合国が善ではないはずだ。しかしだからといって東京裁判で裁かれたものが全くの冤罪だったというものでもないだろう。東京裁判で認定されたものには若干の誇張や不正確な部分があるとは言え日本が行った戦争犯罪行為そのものは、たとえ日本だけの所業でなかったとしても消し去ることはできない。
歴史認識についての議論が複雑化する要因として、(1)相対的な善と悪、(2)感情の記憶、があるのではないかと考えている。
相対的な善と悪では、例えばアメリカの大統領であったエイブラハムリンカーンは南北戦争で勝利し、黒人奴隷を解放した。黒人を奴隷の身から解放したのだから、「リンカーンは正義の人である」ということは一見事実であるように思える。確かに奴隷として自由がなかった身分から、人種差別によって制限されたが、ある程度の自由を得たのだから正義の人である、と言える一方でリンカーンは北部の産業界の利益代表に過ぎず、どんどん成長している工業地帯の安価な労働力を南部から奪っただけで、黒人の真の解放はなかった。彼は解放を騙っただけで悪人であることには変わりない、という主張(現代ではこっちのほうが普通だと思います)もある。後者が一般的な(納得できる)のも、60年代のキング師を中心とする黒人の公民権運動の結果かもしれないし、時代時代で善悪を評価するものさしも変化するのだと思う。
歴史について検証する場合に資料や記録が全てそろっているわけでなく、近代史の場合は当時の人たちの証言で資料や記録を補うことになる。そういった証言の中には時間が立てばたつほど正確な記憶から感情の記憶が混じってくる可能性が高くなる。感情の記憶というのは、一般的に被害者は被害の事実を記憶し、加害者は加害の事実を忘却しようとする。そして時間の経過とともに被害者の被害の記憶は、事実を超えて、エスカレートし、加害者の加害の記憶は、加害の事実を正当化しようとする。これは精神の安定を保つための自己防衛的な反応だと思う。このことにより事実になかなか近づくことができない、というジレンマに陥る。
歴史観や価値観で同じ事象を評価しても正反対の結論になる場合もあるし、感情の記憶から当時の記憶が事実と異なる場合もある。従って歴史を議論しても決着はなかなかつかないと思うが、個人的にはそういった結論のなかなか出ない問題でも異なる意見を持つ者同士が議論すること(勿論真摯な議論です)自体に意義があると思っている。
過去の歴史について善悪だけで論じるべきではないと思う。太平洋戦争を百羽一絡げに「善だった」「悪だった」決めつけることには無理があり、こういった善悪二元論が、延々と不毛の論争を続ける原因にもなっているのだと思う。東京裁判も日本が「被告」なのだが、日本が負けたから被告であって、決して日本が悪で、連合国が善ではないはずだ。しかしだからといって東京裁判で裁かれたものが全くの冤罪だったというものでもないだろう。東京裁判で認定されたものには若干の誇張や不正確な部分があるとは言え日本が行った戦争犯罪行為そのものは、たとえ日本だけの所業でなかったとしても消し去ることはできない。
歴史認識についての議論が複雑化する要因として、(1)相対的な善と悪、(2)感情の記憶、があるのではないかと考えている。
相対的な善と悪では、例えばアメリカの大統領であったエイブラハムリンカーンは南北戦争で勝利し、黒人奴隷を解放した。黒人を奴隷の身から解放したのだから、「リンカーンは正義の人である」ということは一見事実であるように思える。確かに奴隷として自由がなかった身分から、人種差別によって制限されたが、ある程度の自由を得たのだから正義の人である、と言える一方でリンカーンは北部の産業界の利益代表に過ぎず、どんどん成長している工業地帯の安価な労働力を南部から奪っただけで、黒人の真の解放はなかった。彼は解放を騙っただけで悪人であることには変わりない、という主張(現代ではこっちのほうが普通だと思います)もある。後者が一般的な(納得できる)のも、60年代のキング師を中心とする黒人の公民権運動の結果かもしれないし、時代時代で善悪を評価するものさしも変化するのだと思う。
歴史について検証する場合に資料や記録が全てそろっているわけでなく、近代史の場合は当時の人たちの証言で資料や記録を補うことになる。そういった証言の中には時間が立てばたつほど正確な記憶から感情の記憶が混じってくる可能性が高くなる。感情の記憶というのは、一般的に被害者は被害の事実を記憶し、加害者は加害の事実を忘却しようとする。そして時間の経過とともに被害者の被害の記憶は、事実を超えて、エスカレートし、加害者の加害の記憶は、加害の事実を正当化しようとする。これは精神の安定を保つための自己防衛的な反応だと思う。このことにより事実になかなか近づくことができない、というジレンマに陥る。
歴史観や価値観で同じ事象を評価しても正反対の結論になる場合もあるし、感情の記憶から当時の記憶が事実と異なる場合もある。従って歴史を議論しても決着はなかなかつかないと思うが、個人的にはそういった結論のなかなか出ない問題でも異なる意見を持つ者同士が議論すること(勿論真摯な議論です)自体に意義があると思っている。