なかなか生で聴く機会のない演目ですが(長いですからね)、幸運にも、
昨年10月、『桂雀三郎楽語会』で「らくだ」を聴き、
先月、『桂南光独演会』で「らくだ」を聴きました。
「らくだ」は人気のある演目なので、
ちょっとヒネクレ者のコトリは、あえて、好きな演目を訊かれても「らくだ」は避けていたように思います。
なんか、大ネタが好きなのねって思われるのがイヤだったりして。
(ネタの大小問わず、笑わせてくれるネタが好きです。)
でも、「らくだ」を生で聴いて、
笑って、感動して、
やはり、この演目の力を思い知りました。
この噺には、私の落語の好きな部分がつまっている気がします。
可笑しくて、哀しくて、たくましくて。
落語の中には、よく死がでてきます。
先日の『りらっくご』でも、「向う付け」も「不動坊」の中にも死があります。
落語の中にある江戸時代の死生観が好きです。
死は生きている者のすぐ近くにあって、この世は生きている者のもの。
…それでも、現代に生きる私は、なかなか割り切れず、アレコレ惑っておりますが。
昨年10月、『桂雀三郎楽語会』で「らくだ」を聴き、
先月、『桂南光独演会』で「らくだ」を聴きました。
「らくだ」は人気のある演目なので、
ちょっとヒネクレ者のコトリは、あえて、好きな演目を訊かれても「らくだ」は避けていたように思います。
なんか、大ネタが好きなのねって思われるのがイヤだったりして。
(ネタの大小問わず、笑わせてくれるネタが好きです。)
でも、「らくだ」を生で聴いて、
笑って、感動して、
やはり、この演目の力を思い知りました。
この噺には、私の落語の好きな部分がつまっている気がします。
可笑しくて、哀しくて、たくましくて。
落語の中には、よく死がでてきます。
先日の『りらっくご』でも、「向う付け」も「不動坊」の中にも死があります。
落語の中にある江戸時代の死生観が好きです。
死は生きている者のすぐ近くにあって、この世は生きている者のもの。
…それでも、現代に生きる私は、なかなか割り切れず、アレコレ惑っておりますが。
おっしゃるとおり素敵な表現です。
いつか聞ける日がくるまでとっときます。