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平成恐慌の序幕(2)<本山美彦>の注

2009-04-12 | 時事問題
ワコウのように経済にちんぷんかんぷんの人間にとって、このような詳細な「注」があることは、理解するうえで大変助かります。



(7) 財務相・中央銀行総裁会議であるG7(Conference of Ministers and Governors of Seven)は、元々、各国の首脳会議(サミット、summit)の別働隊で、財務長官と中央銀行総裁が年三回、非公式に集まって経済問題を協議する機関であった。一九七三年のオイル・ショックとそれに続く世界不況にその端を持つ。これらの混乱を解決しようと、米国でに非公式に、米、日、フランス、西ドイツ、英の五か国の財務を預かる政府高官が集まり、経済的課題を討議する会議が開かれるようになった(G5)。

首脳会議についていえば、一九七五年が第一回である。フランス大統領、ジスカール・デスタン(Giscard d'Estaing)が、上記五か国にイタリアを加えた六か国の国家首脳をフランスのランブイエ(Rambouillet Summit)に招待し、初めての首脳会議を開催した。この六か国で、今後も主催国を交代しつつ年一回会議を持つことに合意した。ただし、イタリアはオブザーバーの立場であった。それでも、このときの体制はG6と呼ばれている。翌、一九七六年のプエルトリコ・サミット(Puerto Rico Summit)で、米大統領、ジェラルド・フォード(Gerald Ford)の要請によりカナダが、オブザーバーとして参加した。翌、一九七七年のロンドン・サミット(London Summit)からは、EC(欧州共同体、European Community)の委員長が参加するようになった。そして、一九八六年に、カナダとイタリアが正式に参加することになり、G7となった。

冷戦終結後の一九九一年には、サミット本会合の後、ソビエト連邦(現ロシア)が枠外で会合に参加し始め、一九九四年のナポリ・サミット(Napoli Summit)からは、ロシアが首脳会合のうち政治討論に参加するようになった。以降、P8(Political 8) または、G7+1と呼ばれるようになった。一九九八年のバーミンガム・サミット(Birmingham Summit)からG8と呼ばれるようになった。そして、二〇〇三年のエビアン・サミット(Evian Summit)以降、ロシアは世界経済に関するセッションを含め、完全にすべての日程に参加するようになった(Wikipediaより)。

別働隊の財務相・中央銀行総裁会議についていえば、これは上記先進七か国の財務相・中央銀行総裁が一堂に会して国際的な経済・金融問題について話し合う会議のことである。会議には、G7、G10、G20がある。G7は、日、米、英、イタリア、カナダ、ドイツ、フランス。G10は、G7に、オランダ、ベルギー、スウェーデン、スイスを加えた一一か国で構成。G20は、G8(G7とロシア)と、主要国以外で経済規模が大きい一一か国(アルゼンチン、オーストラリア、ブラジル、中国、インド、インドネシア、メキシコ、サウジアラビア、南アフリカ、韓国、トルコ)と、ヨーロッパ連合(EU)議長国の二〇か国に加え、国際通貨基金(IMF)、国際復興開発銀行(IBRD)、ヨーロッパ中央銀行(ECB)の三機関の代表が参加。単に「財務大臣・中央銀行総裁会議」といわれる場合は、G7のことを指す場合が多い(wikipediaより)。

これら各種の財務相・中央銀行総裁会議の実績を簡単に記しておく。

G10は、国際通貨制度および世界経済の諸問題の長期的課題について意見交換をおこなう会合で、年一回開催される。一九六二年に締結された「一般借入取極め」(GAB)に参加する先進一〇か国がその起源である。そのときには、スイスは参加しておらず、文字通り一〇か国であった。GABとは、参加国がIMFから引き出しをおこなう場合に、IMFの資金が不足することに備えて、ほかの参加国が自国の約束額の範囲内でIMFに対して貸し付けることをあらかじめ約束したものである。なお、スイスは一九六四年から準参加国に、八四年から正式に参加することになった。

このG10は国際金融協力の協議の場となっている。ブレトン・ウッズ協定後の体制下で世界経済の拡大に応じた国際通貨量の供給を図るべく、準備資産創出のための公式の検討をおこなった。その結果、一九六九年のIMF協定第一次改正により、翌年にSDR(特別引出権)が創出されることになった。

一九七一年八月、米国のニクソン大統領が金とドルの交換停止を発表し、これを機に国際通貨危機がおこった。そのため、G10は変動為替相場から固定為替相場への復帰を模索、七一年一二月にワシントンで開催されたG10において、米ドルの対金切り下げと各国間の通貨調整、上下各一%から各二・二五%への為替変動幅の拡大などが合意された(スミソニアン合意)。しかし、この合意は実効できず、七三年には多くの国が変動制に移行し、固定相場制は崩壊した。

一九八〇年代前半、米国の経常収支が大幅に悪化し、一九八五年には純債務国に転落した。一九八五年六月、G10は変動相場制の問題点を指摘したうえで、その改善のためには経済政策および為替市場における主要国間の緊密かつ継続的な努力が必要である旨の報告書を作成した。

こうした中で、同年九月、日、米、ドイツ、英、フランスの五か国の財務相・中央銀行総裁会議(G5)が、ニューヨークのプラザ・ホテルで開かれ、ドル高是正のために各国が協調的政策運営をおこなうことが合意された。この合意をプラザ合意(Plaza Accord)という。

ついで、一九八六年五月に開かれた東京サミット(主要国首脳会議)で、政策協調推進の重要性が確認されるとともに、サミット参加国の財務相と中央銀行総裁からなるG7の設置、および政策協調の手段を強化するためにサーベイランス(surveillance)の導入が合意された。サーベイランスとは、実質GNP成長率やマネーサプライ増加率などのいくつもの経済指標を用いて、G7各国が相互に各国経済を監視する手続きをいう。各国は政策についての最終決定は自国がおこなうという原則を守りつつも、サーベイランスの結果を考慮して、政策協調を図ることになっている。この手法は、一九八七年二月のG7によるルーブル合意(Louvre Accord)で確定した。

G20は、一九九九年一二月に第一回会合がドイツのベルリンで開かれ、二〇〇〇年の第二回会合(カナダのモントリオール)以降、原則年一回開催されている。http://jp.encarta.msn.com/encyclopedia_1161537905_2/content.html

(8) 「非連動」、「切り離し」を意味する「デカップリング」(decoupling)という用語が、世界経済に使われれると、「世界経済の米国からの切り離し(デカップリング)」ということになる。米国経済が減速しても、中国などの新興諸国や欧州が世界の経済成長を引っ張り、世界経済の拡大が継続するという説である。世界経済が米国依存から脱却し、多極化するというパラダイム・シフトを表現する言葉として使われた。

デカップリングという言葉が経済に適用された初期には、経済成長が環境への圧迫に結びつかないようにすることの意味で使われてきた。農業政策では、自然環境を守るという考え方に基づいて、農業生産と切り離し、農家に直接所得補償する政策を意味する言葉として使われてきた。

「世界経済の米国からの切り離し」という意味で「デカップリング」という言葉が使われ出したのは米国経済が減速の兆しを見せ始めた二〇〇六年あたりからである。IMFが二〇〇七年四月に発表したWorld Outlook(世界経済見通し」は”Decoupling the Train? Spillovers and Cycles in Global Economy”(列車は切り離せるか?世界経済における波及効果と景気循環)と題する章を設け、デカップリング論を支持するニュアンスの内容になっている(IMF[2007])。 

「デカップリング」論を支持しないことを明言している米投資銀行のモルガン・スタンレー・アジアの会長、スティーブン・ローチはIMFの経済見通しについて同社のGlobal Economic Forum(二〇〇八年四月九日)で"Spillovers versus Linkages"(波及と連関)と題し次のように述べている。 

「統合とグローバリゼーションの長所を称えながら、他方でデカップルした世界の活気を称賛する経済予測の内在した矛盾に、私は、かねて驚いていた。現実を甘く見てはいけない。世界の成長を引っ張っている列車の先頭機関車が脱線したら、残りの世界は直ちに後に続いて脱線するであろう。これまでのところ、それは起きていない。そのことは、世界的デカップリング論は大きな試練をまだ受けていないという私の基本的な結論をはっきり示している。試練があるかどうかは米国の消費者にかかっている」。

サブプライム・ローン問題が二〇〇七年夏以降、拡大していくと、デカップリング論の形勢が悪くなってきた。ロイター通信(二〇〇八年八月三〇日)は"Subprime saga strains economic decoupling theory"(サブプライム問題、デカップリング論に打撃)という見出しのEmily KaiserとKevin Plumbergによる分析記事を流した。 

「サブプライム問題は、米国が世界経済のエンジンとしての地位を明渡しているというよく知られた説に不利な影響を与え、世界の成長が米国の景気後退に耐えることができるかどうか疑問が投げかけられている」。http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=200712192336293

(9) WTO(世界貿易機関=World Trade Organization)は、一九八六~九五年のウルグァイ・ラウンド(Uruguay Round)交渉の結果、一九九五年一月一日に設立された国際機関。一九三〇年代の不況後、世界経済のブロック化が進み各国が保護主義的貿易政策を設けたことが、第二次世界大戦の一因となったという反省から、一九四七年にガット(関税及び貿易に関する一般協定、GATT=General Agreement on Tariffs and Trade)(ガットとは文書のこと)が作成され、ガット体制が一九四八年に発足した。日本は一九五五年に加入した。ガットは、貿易における無差別原則(最恵国待遇、内国民待遇)等の基本的ルールを規定した。ガットは国際機関ではなく、暫定的な組織として運営されてきた。しかし、一九八六年に開始されたウルグァイ・ラウンド交渉において、より強固な基盤をもつ国際機関を設立する必要性が強く認識されるようになり、一九九四年のウルグァイ・ラウンド交渉の妥結のさいにWTOの設立が合意された。

内容的には、新しい分野のルール策定として、物品の貿易に加え、サービスの貿易に関する協定を作成、貿易に関連する知的所有権や投資措置に関する協定を作成。紛争解決手続の強化として、貿易紛争に対してWTO紛争解決手続によらない一方的措置の発動を禁止、パネル(小委員会、Panel)報告の法解釈につき再審査をおこなう常設の上級委員会を設置など、加盟国の権利義務関係を明確化した。本部は、ジュネーヴに置かれている。http://www.mofa.go.jp/Mofaj/Gaiko/wto/2.html

(10) 「ラウンド」とは、「多角的貿易交渉」と訳されることが多く、貿易についての世界ルールを各国が一堂に会して話し合い決定していくことをいう。二〇世紀まではGATTを舞台におこなわれてきた。一九六〇年代のケネディ・ラウンド(Kennedy Round)では関税一括引き下げに成功、七〇年代の東京ラウンドでは非関税障壁撤廃のルールができ、ウルグアイ・ラウンドでは農業の例外なき関税化、つまり農産物の輸入受入原則をルール化した。一九九五年のWTO設立後、ラウンドの舞台はWTOに移る。農業分野のさらなる自由化や、ウルグアイ・ラウンドで扱われたサービス貿易・知的所有権などの分野のルール整備を求めて、二〇〇一年ドーハ(Doha、カタール)で開催された第四回WTO閣僚会議でドーハ・ラウンドの開始が決定された。正式名称は「ドーハ開発アジェンダ」(Doha Development Agenda)。貿易を通じて途上国の経済開発を目指そうとしている。

しかし、ドーハ・ラウンドは難航している。〇三年のWTO第五回閣僚会議(カンクン、Cancún、メキシコ)は、先進国と途上国との対立から交渉は決裂した。その後、〇四年二月の一般理事会で各分野交渉会合の議長を決定、三月から交渉会合が順次再開された。〇五年一二月のWTO第六回閣僚会議(香港会議)では、〇六年中に最終合意に到達することで合意、香港閣僚宣言として採択されていた。しかし、その後、農業分野の交渉は中断、そして、全分野の交渉が一時中断されるなどして、結局、〇七年中の合意は断念せざるを得なくなった。

ドーハ・ラウンドを難しくしている大きな原因が、農業分野での対立である。日本を含めたG10とよばれる「食糧輸入国グループ」とEUは、「市場アクセス」つまり農産物輸入のさらなる自由化に反対している。一方、大農業輸出国である米国や、オーストラリアなど先進農産物輸出国からなる「ケアンズ・グループ」(Cairns Group)は、「市場アクセス」の拡大に賛成している。ケアンズ・グループ内にも対立がある。米国は、国内農業分野への補助金削減には反対しているが、補助金制度をとっていない諸国は、補助金削減には賛成している。

インドや中国、ブラジルなどG20と呼ばれる有力途上国グループは、「市場アクセス」の拡大に賛成し、補助金については撤廃を要求しているものの、先進国から非農産物の輸入拡大を迫られていて、強く抵抗している。

そして、ドーハ・ラウンドが難航している背景として、機能しないWTOはもはや重視せず、個別のFTA(自由貿易交渉、Free Trade Agreement)を重視する、という各国の姿勢がある。世界各国は、EU(欧州連合、The Euopean Union)やNAFTA(北米自由貿易協定、North American Free Trade Agreement)のような集団的なFTA、あるいは日本がアジアやラテンアメリカ各国と個別に締結・または締結を目指しているFTAのようなもので貿易を促進しようとしている状況である。(辻雅之「よくわかる政治」)http://allabout.co.jp/career/politicsabc/closeup/CU20071124A/

(11) SUV(Sport Utility Vehicle)は、自動車の形態の一つで、「スポーツ多目的車」と訳される。一般の自動車に比べて車高が高く、視界が広く、運転しやすいことから、運転に自信のない人や初心運転者に人気が高い。しかし、重量が大きいことから、交通事故発生率も高い。車高が高いから、駐車場に駐車できないことが多く、SUVは路上駐車を助長する要因の一つにもなっている。

米国では、この種の車のオーナーは、舗装されていない場所に山荘を所有していて、週末を過ごす人々というイメージがあり、都会においてこの種の車を所持することがある種のステータスとなっている。

 欧米諸国では、燃費が悪く地球温暖化を助長するとして、一部の環境保護団体が大型SUVの乗り入れ規制や増税を求め、ときには破壊活動すらしている。最近では相次ぐガソリン価格の高騰にともないSUVをもじってSuddenly Useless Vehicle(突然使い物にならなくなる乗物)とも呼ばれる(Wikipediaより)。詳しくは、ブラッドシャー[2004]。

(12) 一九二八年の選挙で「どの鍋にも鶏一羽を、どのガレージにも車二台を!」というスローガンを掲げて圧勝した共和党のフーバーは、一九二九年三月四日の就任式の大統領就任演説で「今日、われわれ米国人は、どの国の歴史にも見られなかったほど、貧困に対する最終的勝利日に近づいている……」と語った。しかし、就任直後に世界恐慌が起きてしまった。しかし、政府による経済介入を最小限に抑える政策を継続した。その一方で、対外的にはスムート・ホーレー法(Smoot-Hawley Tariff Act of 1930)の下で保護貿易政策をとった。このことが、世界恐慌を深刻にさせた一因とも指摘される。

恐慌脱出にむけての道筋が見いだせない中、彼が発表した政策として有名なものが第一次世界大戦で英仏に融資した戦債の返済を一年間猶予する「フーヴァーモラトリアム」(Hoover Moratorium)である。次のフランクリン・ローズベルト(Franklin Delano Roosevelt, 1882~1945)大統領がニューディール(New Deal)政策で民間経済にも積極的に介入したのに対し、フーヴァーは政府や国家レベルでの対策しか講じなかった。これが、結果として景気をさらに悪化させたと一般には受けとられている。一九三三年の任期満了をもって大統領職を退き、政界から引退した。なお、在任期間中の一九三一年三月三日にフーヴァーは、「星条旗」(The Star-Spangled Banner)を米国の国歌として正式採用する法案に署名した。よく国歌と間違われる「星条旗よ永遠なれ」 (Stars and Stripes Forever)は、行進曲であり、全く別の曲である。こちらは、一九八七一二月に「国の行進曲」 (National March)に制定された(Wikioediaより)。

本山美彦氏のブログ 「消された伝統の復権」から転載
http://blog.goo.ne.jp/motoyama_2006