5 コメント(10/1 コメント投稿終了予定) コメント日が 古い順 | 新しい順 天と地ほどの違い (豚) 2014-02-10 13:43:48 現代の日本に住む私達と、その3千年ほど前に、中東に住んでいたユダヤ民族の人達と、同じものを見ても、理解が異なるのは当然の事です。その意味で、「不変の真理は存在しない」と考えるべきでしょう。創世記の冒頭も「始めに天と地を創った」次に「闇と光」宇宙と言う概念を身に着けてしまった、現代人が考えれば、どう見ても、順序が変です。一部の宗教者の陥る間違いは「不変の真理が存在する」と思い込んでいることだと思いますね。古代の人から考えると、はじめに天と地が無いと困りますよね。 返信する 真実とは普遍的な、今日に通用するもの (沼野治郎) 2014-02-10 23:41:49 最近読み始めた本が参考になっています。旧約聖書の記述は聖書学で「神話」と呼ばれます。聖書学者上村静(男性)の本に、次のようにありました。「神話は史実の報告ではなく、直接的に真実を言葉にしたものでもない。あくまでも象徴的な言語で、間接的な方法で人間についての真実を伝えようとするものである。」「現代人にはもはや神話をそのままで事実として受け止めることはできないし、無理にそうすることは知性を犠牲にするだけでなく、結局は神話の伝える真実を手に入れることもできない。聖書が神話であるということを認めるのは、決して聖書を侮辱することではない。むしろ、聖書の伝える人間についての洞察を現代においてなお有意味なものとして理解するために必要な前理解なのである。」(「宗教の倒錯」岩波書店、2008年) 拘束される(受け身的になる)のではなく、価値あることを読み取る姿勢が求められるのだと思います。 返信する Unknown (Unknown) 2014-02-10 23:52:18 高価な真珠のモーセ書3:5に、神はすべてのものを地上に自然にあるに先立って霊として創ったと霊的創造の概念を掲げているのは、欽定訳に二つの創世の物語が重複して登場するのを解決しようとしたからにほかならない。モーセ書の読者は、ジョセフ・スミスが聖書の改訂作業の一環として取り組んだものが、聖典として後に取り入れられたことを覚えるべきである。と言うことは、ジョセフ・スミスは聖書訳の二つの違いをうめるためにすべてのものの霊的創造がなされたと想像した。モーセ書は神から来たものではなく、ジョセフ・スミスの想像の産物である。そう理解していいのでしょうか。もし本当にそういう理解をされている方が、日曜学校の会長をされているというのが、私には驚きです。 返信する 現代のlds (沼野治郎) 2014-02-12 11:52:56 JSの聖書改訂(JST)でどのような改訂がなされたかは、数種類に分類されますが、その一部は主語を変えたり(悔いたのは主ではなくノアであった)、動詞を変えたり(笑った⇒喜んだ 創世17:17)する工夫があり、また捕飾・拡張的な追加など「霊感」による長い啓示(示現)のような内容もあります(モーセ書エノクの部分など)。JSの聖書改訂は、完成を見ずに一部分で終わっています。行なった改訂は、導きを求めながらも大部分は理知的判断によるものと考えられます。聖典であっても私たちは今日適用されないものがあることを承知しています。OTの律法の規定(割礼など)、NTのパウロの書簡の一部(女性は静かにしているように、など)、末日聖典でも肌の色に呪いが現れるという箇所、多妻にかかわる箇所、ジャクソン郡への集合などパスして読んでいます。それは読む個人によって差がありますけれども。「驚き」が徐々に「そのようなldsもいる」という新しい認識に変わっていけば幸いです。 返信する 本当の価値 (豚) 2014-02-12 14:35:26 最近、「現代のベートーベン」とまで言われた、日本の作曲家の作品が、実は別の人の作であった、と言う話題が有りました。その曲の、価値や評価が、創った人の環境や経歴などによって変わるのは理屈に会わないですね。そのい「理屈に合わない事」が起きるのは、「曲の価値」を客観的に測定する方法が無いからです。文章も同じでは無いかと思います。預言者が書いたものでも、豚が書いたものでも、同じ内容の文章なら同じ価値のはずです。物事の評価を正しく出来る人なら、「誰が書いたか?」は関係無いと思いますけどね。 返信する 規約違反等の連絡 コメントを投稿 サービス終了に伴い、10月1日にコメント投稿機能を終了させていただく予定です。 goo blogにログインしてコメントを投稿すると、コメントに対する返信があった場合に通知が届きます。 ※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます 名前 タイトル URL ※名前とURLを記憶する コメント ※絵文字はJavaScriptが有効な環境でのみご利用いただけます。 ▼ 絵文字を表示 携帯絵文字 リスト1 リスト2 リスト3 リスト4 リスト5 ユーザー作品 ▲ 閉じる コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。 コメント利用規約に同意する 数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。 コメントを投稿する
その意味で、「不変の真理は存在しない」と考えるべきでしょう。
創世記の冒頭も「始めに天と地を創った」次に「闇と光」宇宙と言う概念を身に着けてしまった、現代人が考えれば、どう見ても、順序が変です。
一部の宗教者の陥る間違いは「不変の真理が存在する」と思い込んでいることだと思いますね。
古代の人から考えると、はじめに天と地が無いと困りますよね。
旧約聖書の記述は聖書学で「神話」と呼ばれます。聖書学者上村静(男性)の本に、次のようにありました。「神話は史実の報告ではなく、直接的に真実を言葉にしたものでもない。あくまでも象徴的な言語で、間接的な方法で人間についての真実を伝えようとするものである。」
「現代人にはもはや神話をそのままで事実として受け止めることはできないし、無理にそうすることは知性を犠牲にするだけでなく、結局は神話の伝える真実を手に入れることもできない。聖書が神話であるということを認めるのは、決して聖書を侮辱することではない。むしろ、聖書の伝える人間についての洞察を現代においてなお有意味なものとして理解するために必要な前理解なのである。」(「宗教の倒錯」岩波書店、2008年)
拘束される(受け身的になる)のではなく、価値あることを読み取る姿勢が求められるのだと思います。
モーセ書の読者は、ジョセフ・スミスが聖書の改訂作業の一環として取り組んだものが、聖典として後に取り入れられたことを覚えるべきである。
と言うことは、ジョセフ・スミスは聖書訳の二つの違いをうめるためにすべてのものの霊的創造がなされたと想像した。
モーセ書は神から来たものではなく、ジョセフ・スミスの想像の産物である。
そう理解していいのでしょうか。
もし本当にそういう理解をされている方が、日曜学校の会長をされているというのが、私には驚きです。
JSの聖書改訂は、完成を見ずに一部分で終わっています。行なった改訂は、導きを求めながらも大部分は理知的判断によるものと考えられます。
聖典であっても私たちは今日適用されないものがあることを承知しています。OTの律法の規定(割礼など)、NTのパウロの書簡の一部(女性は静かにしているように、など)、末日聖典でも肌の色に呪いが現れるという箇所、多妻にかかわる箇所、ジャクソン郡への集合などパスして読んでいます。それは読む個人によって差がありますけれども。
「驚き」が徐々に「そのようなldsもいる」という新しい認識に変わっていけば幸いです。
その曲の、価値や評価が、創った人の環境や経歴などによって変わるのは理屈に会わないですね。
そのい「理屈に合わない事」が起きるのは、「曲の価値」を客観的に測定する方法が無いからです。
文章も同じでは無いかと思います。
預言者が書いたものでも、豚が書いたものでも、同じ内容の文章なら同じ価値のはずです。
物事の評価を正しく出来る人なら、「誰が書いたか?」は関係無いと思いますけどね。