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 [人名は本文と関係ありません]

末日聖徒でモーセ五書の文書説について、「保守的姿勢でありながら批判的研究成果を承知している」のが望ましいというK.L.バーニーは、文書説を受け入れる理由を次のように三つあげている。それは1.二重の記載、2.用語の相違、3.本文中の矛盾、が分かりやすく説明できる点にある。バーニーはアンカー聖書辞典の「トーラー(律法)」(リチャード・フリードマン執筆)に拠っているが、自分でも旧約聖書に当たって確認している。
 
1. 二重の記載(doublet)。これは同一の物語が二つの異なった形で記載されていることである。時に三度現れることもある。同じ著者によることもあり得るが、圧倒的多数がそうではなく二つ以上の異なった資料に基づいて書かれている。例をあげると次のようなものがある。
1) 創造(創世1:1-2:3 & 2:4b-25) 創造の順序が異なることは、下記参照。ほぼ同じ物語が繰り返されている。
2) ノアの洪水(創世6:5-8, 7:1-5… & 6:9-22, …7:24) 前者が40日40夜、後者が150日雨が降り続いたと記す。6章から9章にかけて重なり合うように洪水物語が展開される。
3) アブラハムの契約(創世12, 15 & 17) 。アブラハムを大きな国民とする、祝福する者を祝福し呪う者を呪う、地の全ての種族をアブラハムによって祝福する、という契約が繰り返される。
そのほかバーニーは24の「二重の記載」の例をあげている。

2. 用語の相違。箇所によって用語、特に神格者を指す語彙が異なることを指す。注目すべき点は、これが一貫して「重複して現れる記載」の片方、あるいはあるグループに用いられていることである。
1) 神格者の名前。文書説の端緒となった神格者の異なった呼称。文書説の強力な根拠とされる。J文書は記述の中で「神」という語を用いない。(J文書という呼び方は、「ヤハウェ」すなわち「主」という語が用いられているところからくる)。E文書は神の名を「エロヒム」と呼ぶところからきている。(なおPはイスラエル神聖政体の由来、組織、祭司制度に詳しい文書、Dは申命記文書作者によるもので、ヨシア王の宗教改革推進の動きが背景にある。)
2) シナイ(JとP)対ホレブ(EとD)
3) 「エダ」עֵדָה(会衆)100回以上、全てP. ・・・その他。

3. 本文中の矛盾。「律法」(トーラー)の本文には数多くの矛盾が存在するが、いずれも上記「二重の記載」「用語の相違」によるものである。
1) 創造の順。P (創世1:1-2:3)では植物、動物、人、女の順であるが、J(2:4b-25)では人、植物、動物、女となっている。
2) 箱舟に入る動物がJ(創世7:2,3)では清い動物7つがいであるのに対し、Pでは(6:19, 7:8, 9, 15)それぞれひとつがいとある。
3) 出エジプト6:3でモーセは、族長たちに神の名(「主」)は知られていなかったとあるが、創世記Jの本文(18:14, 24:3, 26:22など)では知られている。・・その他、12あげられている。

[四つの文書が書かれた時期と場所]

なお、関根正雄(1956年)によれば、祭司資料はすべての祭儀がモーセ時代に神の啓示によって始まると見ていて、ノアが祭儀を為すこともないのに対し、ヤハウェ資料は既にカインとアベルの時代から祭儀を素朴に前提しており、ノアの場合にも洪水後犠牲を捧げることをノアの最も大事な行為と見、犠牲に捧げる潔き動物は二匹ではなく七匹を必要とした。JとP文書の特性を知ると理解の鍵が与えられる。

以上、ごく端折ってまとめてみたが、旧約聖書の初めの部分(「モーセの五書」、ヘブライ語聖書で・「トーラー」と呼ばれる部分)は異なった文書が複数編集されてできあがっていることを知ると、同じような物語が繰り返し出てくるわけがわかる。また、そこに相違や矛盾が見つかっても驚かなくなり、むしろなぜどのように違うのかを知ると納得がいき旧約聖書をより深く理解できるようになる。そして、聖書に対する尊重の念と親しみが増していく。

文書説を知っているのと知らないのとでは、地震が起こる仕組みについてプレート説を知っているのとそうでない違いに比較することができるだろう。文書説にも変化のうねりがあるが、後戻りすることはできないと思う。

参考文献 (Refer for detail.)
Kevin L. Barney, “Reflections on the Documentary Hypothesis.” Dialogue: A Journal of Mormon Thought, Vol. 33, No. 1 (Spring 2000)現在ネット上で閲覧できる。

Jupiterschild, “What you have to explain without the Documentary Hypothesis.” Faith-Promoting Rumor June 5, 2008 (lds向けのサイト、執筆者もlds)



コメント ( 2 ) | Trackback ( 0 )



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コメント
 
 
 
厄介な問題 ()
2014-02-18 15:31:29
>また、そこに相違や矛盾が見つかっても驚かなくなり、むしろなぜどのように違うのかを知ると納得がいき旧約聖書をより深く理解できるようになる。そして、聖書に対する尊重の念と親しみが増していく。

・・・って、上手く文章を締めくくっているのですが・・・・・。

NJさんは、祭司資料の成立年代をいつと考えておられるのでしょうか?

小さくて見難いのですが、上記本文中の、「四つの文章が書かれた時期と場所」では、P資料はバビロンで書かれた様に読めるのですが?
それでよろしいのでしょうか?

ただ・・もしそれが正しいとしたら、モルモン書の第一ニーファイ5章11節が厄介な問題になってくるんですよね・・・・。

だから、モルモンは、旧約聖書を深く理解できないんじゃないかな?って思います。

 
 
 
すでに別の所で (沼野治郎)
2014-02-19 21:57:39
厳しい観察による厳しい指摘ですね。しかし、

2/8の記事中の文、「今日受け容れられ難い内容が含まれているとすれば、それは物語論で言う「信頼できない語り手」(unreliable narrator)の問題がそこに生じているということになろうか」が答えになっていると思います。

また、Ldsのものであれ、私は「聖典無謬説」、「預言者無謬説」の立場を取っていません。

なお、私は文書説の専門家ではありませんから、今日共有されている説をそうであった可能性が極めて高いと受けとめている者の一人です。(P文書が作成された時期と場所について)。
 
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