「野里町歩紀 ~思いつくままに~」

野里町歩紀 ~摂河泉をゆく~ に次ぐ第二歩です

大阪24区を歩く~大阪のみずがめと菅原道真ゆかりの地「東淀川区」

2013-09-20 21:33:51 | 日記
訪問日:平成27年1月24日(土)
出 発:JR「東淀川駅」
到 着:阪急電車「下新庄駅」

 「東淀川区」。淀川3区の最東端。大正14年の区編制により誕生し、人口の増加から昭和49年7月、西半分を「淀川区」として分区、その後も大阪への利便性から住宅街として発展した。人口約17万7千人は、「平野区」に次いで2番目。
 区内には、「菅原道真」ゆかりの地も多く、また、区西部の阪急京都線と千里線にはさまれた54万㎡に及ぶ広大な「柴島浄水場」は、創建当時、東洋一の浄水場として名を馳せた。
 東西に長い区を「大阪のみずがめ」から多くの寺社を訪ね、そして、大阪市の最北端を目指して歩く。


 JR東海道線「東淀川駅」。かつて、ここは「東淀川区」のど真ん中であったが「淀川区」との分区により最西端となった。オレンジ瓦屋根のかわいい感じの駅舎であるが、線路が区境となっており、駅舎自体は「淀川区」に所在する(「淀川区」編参照)。
 

 小さな駅だが、日本の大動脈「JR東海道線」と「梅田貨物線」が併走し、幅の広い踏切を多くの列車が通過する。
 

 駅敷地を出たところから「東淀川区」である。午前9時、駅前を出発する。
 

 踏切を渡った所から真っ直ぐ進み、信号に出れば左に曲がる。300mほどで左に「須賀森公園」。
 

 公園内には「須賀神社跡」。元徳3(1331)年、京都から戦乱を逃れてきた刀鍛冶一族が創建したと伝わるが、明治43(1910)年、この後、訪れる「中島惣社」に合祀された。
 

 ご神木の楠。楠木正成の子、正行が河内國四條畷の合戦で足利尊氏に敗れ、逃げ落ちた兵が主君を偲び植えたと伝わる。樹齢600年、天然記念物に指定されている。
 

 すぐそばに小さなお社が。「愛宕神社」らしい。ここで今日一日の安全を祈願する。
 

 先ほどの信号まで戻り通りを渡る。アーケードはないが「東淀川駅」から続く「東淀川駅東商店街」というらしい。結構、古い建物が残る。
 

 「市立淡路小学校」と墓地の間を抜ければ左へ。
 

 何やらコンクリートに囲まれた古い建造物が建つ。ここには戦前、陸軍の「高射砲陣地」があったそうだ。その跡地である。対空砲のことを陸軍では「高射砲」、海軍では「高角砲」という。
 

 元は6基あったそうだが、今は1基のみが残り、個人の住宅になっている。
 

 南に進み、突き当たりを左へ。すぐに「東海道新幹線」の高架下に出る。ここは、かつて「中島大水道」という水路であったらしく、当時の水門が残されている。
 

 「中島大水道」は、度重なる水害と水はけの悪さに苦しめられた農民たちが延宝6(1678)年に自らの普請で開削したといわれる。その跡が遊歩道として整備されている。
 

 新幹線高架の北側に沿って歩き、「市立西淡路小学校」を過ぎたところで高架を南側にくぐる。この近距離に小学校が2つ並ぶとは、やはり人口密度の高さを感じる。
 

 次の信号で左へ入る。左には、最初に訪れた「須賀神社御旅所之跡」碑。
 

 信号で大きな通りを渡り、斜め右に入っていくと角に「愛宕神社」。
 

 神社から路地を抜けて行くと白壁が現れる。
 

  そのまま真っ直ぐ進んでいくと「曹洞宗崇禅寺」の裏門前に出る。
 

 この道は「歴史の散歩道」になっている様だ。
 

 戦国の世。足利6代将軍「義教(よしのり)」の首がこの地に埋葬されたと伝わる。その後、「義教」の子「義勝」が、嘉吉2(1442)年、建立したのが「崇禅寺」と言われる。
 

 本堂に向かって左側の通路を抜けていく。分譲霊園の奥に「義教の首塚」。その横には、明智光秀の三女でキリシタン「細川ガラシャ」の墓が建つ。「ガラシャ」はキリシタンなのに仏教寺院に葬られているのか。
 

 裏門を出て右へ。寺の南側にある門の前には「摂津県・豊崎県県庁所在地」碑が立つ。おそらく位置的には、こちらが山門かも知れないが、普段は閉まっているようだ。明治維新で設置された「摂津県」は、その後、すぐに「豊崎県」と改名され、兵庫県に合併されるまでの約5ヶ月間、この地に県庁があったという。
 

 「崇禅寺」の西側を抜けていくと「中島惣社」。稲荷神である「宇賀御魂大神」らを祀る。
 

 由緒は不詳だが「孝徳天皇」が「長柄豊碕宮」遷都の際、五穀豊穣を祈願したと伝わることから、古くから祀られていたのだろう。
 

 鳥居前を西に進み、大きな通りに出れば左(南)へ曲がる。道路の向こうには大阪市立青少年センター、通称「ココプラザ」。ここにある「新大阪ユースホステル」は、過去、ユースホステルの世界ランキング1位に選ばれたそうだ。
 

 アンダーパスの側道を800mほど進み「阪急京都線」の踏切を渡り「柴島1交差点」の左突き当たりに「大阪市水道局柴島浄水場」の正門。「柴島」と書いて「くにじま」と読む。明治28年に造られた「桜宮浄水場」を補完するため、大正3年に建造された。当時は、「東洋一」の規模を誇った。
 

 その手前には「水道記念館西門」。
 

 しかし、市の「財政難」を理由に閉館されている。
 

 浄水場はしっかりとした石組みで囲まれている。
 

 敷地沿いに進み、道路は「淀川」堤防下で大きく左にカーブする。車の切れ目を狙って目の前の淀川堤防に上る。前方には「長柄橋」。
 

 右には「JR東海道線」の鉄橋が渡る。
 

 堤防上から浄水場方向に目をやると赤煉瓦の巨大な建造物が。
 

 大正3年に建造されたポンプ場で、平成7年からは「水道記念館」として生まれ変わった。国の有形文化財に登録されている。しかし、先ほど述べた様に閉館中だ。
 

 しばらく「柴島浄水場」の広大な敷地を左に眺めながら淀川堤防上を歩く。
 

 「長柄橋」で堤防上の道が途切れるので川辺に下り、「阪急千里線」をくぐって堤防上に戻れば、前に「淀川大堰」。対岸は「毛馬閘門」だ(「北区」「都島区」編参照)。
 

 左の道路に歩道橋があるので歩道橋を渡り右へ。そしてすぐ左の路地に入る。
 

 「市立柴島中学校」前に「薬師堂」。ここでウィンドブレーカーを脱ぐ。今日は気温は低いが、晴天で風がないので歩いていると汗ばむ。
 

 「曹洞宗法華寺」「浄土真宗本願寺派萬福寺」と過ぎ、「市立柴島中学校」北東角を左に。
 

 

 地図で見ると突き当たりに「柴島湯」というお風呂屋さんがあるのだが、取り壊し作業中の様だ。雰囲気からレトロっぽい様に感じる。残念だが家風呂の普及により、お風呂屋さんは、どんどん廃業している。
 

 トタン板に覆われているが、こんなところに茅葺き家が残っているんだな。
 

 「金光教」の教会前に出れば、一旦、左折して「阪急千里線」を渡る。「淀川キリスト教病院」と「柴島浄水場」の間の歩道を進む。
 

 

 「阪急京都線崇禅寺駅」の手前「柴島浄水場」の角に、何やら「塀」の一部が保存されている。昭和20年6月7日の大阪大空襲の際、米軍の機銃掃射を受けたときの弾痕らしい。
 

  同じ道を戻り「金光教」の前から再度「柴島2丁目」の町を進み突き当たりを左へ。
 

 駐車場の奥には「虫籠窓」の立派な屋敷が。
 

 その手前を右に曲がり、突き当たりを左へ。住宅街の真ん中に「柴島神社」。「八幡大神」「天照皇大神」「春日大神」を祀る。
 

 鎌倉時代の創建と伝わるが「新淀川」の開削に伴い、明治41年、現在の場所に遷座し、その際「仲哀天皇」が合祀された。
 

 神社西の公園前には「柴島晒ゆかりの地」碑と説明板。江戸時代から大坂周辺で盛んに栽培されていた綿花で作られた木綿を淀川の水で洗い、堤防上で乾かす「晒業(さらしぎょう)」が明治時代末期まで行われていたという。
 

 公園を抜け右に。阪急電車と交わる手前に「十一面観音菩薩」と「子安地蔵尊」のお堂。
 

 右に曲がり、次の踏切で「阪急千里線」を渡り、「柴島浄水場」を左に見ながら線路に沿って北に進む。
 

 この辺りは阪急電車の高架工事中で迂回路が続く。
 

 左には「浄水場」の施設。「水道記念館」前からずっと続く「柴島浄水場」。その広大さがわかる。
 

 踏切を渡り、すぐ左折して線路沿いに進もう。この辺り一帯は高架工事中だ。
 

 左から「阪急京都線」が交わり「千里線」の踏切と並ぶ。そう言えば、さっきから踏切の警報音が鳴りっぱなしだ。阪急の高架が急がれる理由だ。
 

 左に曲がれば工事現場前に「随宏会館」という古い麻雀屋。右の古い建物は、もう廃業しているようだ。ここもいつかは、取り壊されるのだろう。
 

 現在、この辺りは高架工事中で多くの古い建造物が取り壊されている。
 

 合流した「京都線」と「千里線」は「淡路駅」で交わる。ガードマンの誘導に従って進んで行くと「東淡路商店街」。ところがアーケードだけで店がない???
 

 これは、補助金が出る平成26年度中にアーケードのみを先に完成させたためらしい。「空(から)」の商店街を抜ける。
 

 突き当たりを左に曲がれば「阪急電車」をガードでくぐる。
 

 ガードの出口左側には「阪急淡路駅」。
 

 その前には「淡路本町商店街」。昔、太宰府に流された菅原道真が「中洲」であったこの地に立ち寄り「淡路島」と間違えたことから、この辺りが「淡路」と呼ばれるようになったと言われるが諸説あり。
 

 アーケードに入ると左に「地蔵市場」という一角が。いい雰囲気だな。
 

 280mほどのアーケード街であるが、駅周辺には飲食店等が集まり、結構、賑やかな駅前商店街だ。
 

 

 映画館があるということは「すごい」ことなんだ。
 

 古くからの店もあるようだ。
 

 アーケードを通り抜けて右に曲がり、アーケードの北側をさまよう。古い建物が残っていた。
 

 駅方向に戻り、地下道で再度、阪急電車をくぐる。地下は、自転車置き場になっているようだ。
 

 そこには先ほどの「東淡路商店街」。ここら辺りは「商店」街の体をなしているようだ。
 

 路地を抜けていくと工事中の道路に出る。この辺りは「高架化」で大きく姿を変えるのだろうな。
 

 道を左に500mほどで「JR城東貨物線」に突き当たる。
 

 ガードをくぐると「菅原1交差点」。
 

 交差点の東に小さな路地があるので入って行こう。すぐに大きな木を擁した立派なお屋敷が目に入る。
 

 門の前に大木が。
 

保存樹に指定されている「くすのき」は、高さ22m、幹回り4m。
 

 「真宗仏光寺派光台寺」が右に見えれば左折。屋敷前に立つ「瑞光寺道」の石標に出会えば右へ。
 

 細い路地を道なりに進む。結構、古い屋敷が残っている。
 

 突き当たりに「菅原天満宮」が見えてくる。
 

 寛永年間(1624~1643年)に勧請されたといわれるが、淀川改良工事により明治35(1912)年、当地に遷座された。もちろん「菅原道真」を祀る。
 

 境内には「神牛」のほか、天満宮らしく「北野天満宮」「太宰府天満宮」「湯島天神」から拝領したという「梅」の木が植えられている。
 

 ご神木の「くすのき」は、高さ23.9m、幹回り4.6m。ただ、大阪では結構、有名な天満宮なのだが、境内は狭い。
 

 時間は、午後0時15分。一旦、府道に出る。そこには「久太郎食堂」。ラーメンやうどん等の単品のほか、おかずを一品ずつ取る「めし屋」方式の食堂だ。
 

 「ご飯(小)、貝汁、サバの塩焼き」を注文。630円で昼食をとる。この店は、この後、グルメ番組の撮影が行われたようだ。放映されれば、当分、行列ができるのだろうな。
 

 食事を終え「菅原天満宮」と「菅原天満幼稚園」の間まで戻り、細い道を進んでいく。立派なお屋敷が残る。
 

 大きな屋敷前を通り過ぎる。先には「堤防」が。
 

 「淀川スーパー堤防」に突き当たり左折。
 

 ホームセンター「コーナン」南出入口横には、以前、昭和2年に建てられたという「飯田繊工株式会社」の洋風社屋と町家風住宅が残っていたのだが取り壊されしまったようだ。古い「門柱」だけが残る。
 

 そのまま真っ直ぐ進み「菅原城北大橋」に突き当たれば左へ。
 

 「市立新東淀中学校」前の信号を渡り、「北淀公園」を抜け、
 

 「府立北淀高校」を過ぎて突き当たりを左折。
 

 辻を右に入り、ぐるっと回れば、左に古い街並み。
 

 この建物は立派だな。
 

 その先には「浄土真宗定専坊」。天平年間(729~748年)、行基が開基したと伝わる。
 

 山門前に「蓮如上人遺蹟」碑が建つ。
 

 「定専坊」から路地を東に進み「豊里中央公園」「市立豊里小学校」横を抜けて行く。
 

 豊里小学校の校門横には「土俵」が。相撲が盛んなのだろうか。
 

 「大阪内環状線」に出れば、右に見える信号(又は歩道橋)を渡り、そのまま進む。
 

 少し歩けば左に「大宮神社」が現れる。
 

 「日本書紀」によると「安閑天皇」が度々当地に行幸されたということから「安閑天皇」を御祭神とする。
 

 境内には、大きな桜の木が。満開になれば美しいだろうな。
 

 神社の前で一旦「大阪内環状線」を渡り、南に進めば「豊里大橋」。
 

 側道を通って「淀川」の堤防に上がる。
 

 そこには「平田の渡し跡」碑が立つ。昭和45年3月の「豊里大橋」開通まで約300年に渡って活躍した渡し船の船着場跡である。対岸の「旭区」にも同様の石碑が建つが「旭区」側の石碑には「平太の渡し」と記されている(「旭区」編参照)。

 

 「豊里大橋」が「淀川」を越え「旭区」へ続く。
 

 しばらく「淀川」堤防を歩こう。
 

 水道の「取水橋」のところで堤防を下る。
 

 「東大道公園」という小さな公園の脇から「大桐4丁目」の町に入る。
 

 「ボンカレー」か懐かしいな。「大道南」という町と「大桐」という町が隣接し、いずれも「だいどう」と読む。ややこしいが「南」が付けば「大道」だ。
 

 高層マンションや住宅、工場が混ざる町を抜けていく。
 

 右側に「大隅神社」。かつて入江に浮かぶ「大隅島」と呼ばれた中洲に「応神天皇」が離宮を造営。「大隅宮」と呼ばれた。天皇の崩御後、住民らにより社殿が建てられたのが始まりと伝わる。
 

 拝殿前には「祓串」が置かれてあり「ご自由に左右左とふり祓い清めて下さい」と書かれてあった。
 

 ここは拝殿の左右に「狛犬」が5基づつ計10基が並ぶ。みんな、こっちを見ている。
 

 向かって右の狛犬は、左足に布切れが巻かれている。
 

 参拝を終え、先ほどの高層マンション前まで戻り左へ。
 

 「大桐5丁目」を抜けると目の前に「淀川」の堤防が見えてくる。
 

 堤防下の道路を歩いても良いのだが、歩車道の区別がなので堤防に上がる。
 

 堤防下に信号が見えれば階段があるので下り、二叉を左に入る。
 

 すぐに左に「日蓮宗寂光寺」という寺院が現れる。「江口の里」という碑が。
 

 ここは、別名「江口の君堂」と呼ばれる。
 

 平家没落により「君」という遊女に落ちぶれた平資盛の姫君「妙」は、その後、当地を訪れた「西行法師」との出会いにより仏門に入り、元久2(1205)年、ここに庵を結んだのが始まると伝わる。
 

 「江口の君堂」から北に進み「南江口3丁目」の町を抜けていく。
 

 7~8分で「神崎川」に突き当たるので、すぐ左に見える「江口橋」で「神崎川」を渡ろう。
 

 「江口橋北詰」で道が二手に分かれるので「ガスト」前の筋へ進む。
 

 「東海道新幹線」の高架をくぐる。
 

 ここからしばらく「大阪府摂津市」との市境を歩く。
 

 途中、左手に「大隅神社御旅所」が建つ。
 

 右(東)は、「摂津市別府」の町だ。「別府」と書いて「べふ」と読む。
 

 道は市境を離れ左にカーブする。
  

 「市立井高野小学校」前を過ぎる。
 

 「高層マンション」や「市営住宅」前を過ぎる。
 

 

 住宅街の真ん中に「大阪市交通局井高野営業所」。この辺りが、ほぼ大阪市の「最北端」だ。
 

 「府営住宅」を左に見ながら歩き、途中、路地を右に入る。
 

 「新旧」混じる住宅街を抜ける。
 

 ここらは「海抜4m」か。
 

 「井高野公園」前を過ぎると突き当たりに「番田井路(ばんだいじ)」という水路が流れる。
 

 高層マンション街を左に見ながら進む。
 

 「井高野橋」で「番田井路」を渡る。
 

 「相川」の町に入ればすぐ北を流れるのは「安威川」。「大阪府茨木市」の山中を水源とする。
 

 すぐに左側に大きな建物が見えてくる。「大阪成蹊大学」だ。
 

 昭和8年創設の「高等成蹊女学校」が女子短大を経て、平成15年に開学した。
 

 「大阪成蹊大学」の西側には「私立大阪高校」。昭和2年、現在の「近畿大学」である「日本大学大阪専門学校」内に「日本大学大阪中学校」として設立されたそうだ。
 

 本館は、昭和12年に建築された。
 
 
 「大阪高校」から南に進み通りを右折すると阪急京都線「相川駅」の前に出る。
 

 駅舎を中心に扇状に道が広がる。
 

 その角に「大阪府東淀川警察署相川警ら連絡所」。オレンジ瓦屋根の可愛らしい建物だ。
 

 「相川警ら連絡所」南側の道を進む。途中、古い「歯医者さん」。
 

 五叉路に出れば南に進路を取る。分かり難いが、堤防の土手が見える方に進めば良い。
 

 すぐに「神崎川」に突き当たるので「小松橋」で川を渡る。「神崎川」は、淀川から別れた小さな水路であるが、すぐに「安威川」と合流。本流である「安威川」を名乗らず「神崎川」となって大阪湾に注ぐ。
 

 辺りには「資生堂」の工場が並ぶ。次の信号を左折。
 

 左に木造の工場が見えれば「市立小松小学校」の角を右に折れる。
 

 次の角を左折すれば「松山神社」。
 

 延喜元(901)年、菅原道真が太宰府に配流された際に立ち寄った場所に祠が建てられたのが始まりと言われる。ここも「菅原道真」ゆかりの地ということだ。
 

 神社南側の「松山公園」を過ぎる。公園入口に鳥居が立つので、この公園も神域だったのだろう。
 

 公園を出て右の路地を進めば「浄土真宗瑞松寺」や古い家が並ぶ。
 

 

 この塀を過ぎ、左に曲がれば・・・。
 

 「浄土宗専念寺」と寺院が続く。
 

 「専念寺」山門前から南に歩くと「瑞光寺公園」に出るので公園内を縦断しよう。
 

 公園の前には「東海道新幹線」の高架。
 

 公園西側にある「臨済宗瑞光寺」へ詣る。聖徳太子が創建したと伝えられるが火災で焼失。その後、寛永20(1643)年、天然和尚が再興したと言われる。
 

 弘済池と呼ばれた池に、欄干が鯨の骨で作られた「雪鯨橋」という珍しい橋が架かる。宝暦6(1756)年、当時の住職が「南紀太地」を訪れた際、漁師らに請われ豊漁祈願をし、その礼として送られた鯨の骨で鯨を供養するため架けられたという。
 

 参拝を終え、すぐ南の「大阪内環状線」を右(西)へ。「関西スーパー」の角で一本北の路地に入り西へ進む。250mほどで左に「稲荷商店街」。
 

 90mほどの小さなアーケード街だ。商店街名の由来となった「稲荷神社」がアーケード中ほどに。
 

 アーケードを抜け右へ。この道も「歴史の散歩道」らしい。
 

 阪急「上新庄駅」前で「大阪内環状線」を渡る。向こうには立派なお屋敷。
  

 「阪急京都線」の高架に沿って歩く。
 

 この駅は、「大阪内環状線」を挟んで、「北口」と「南口」が大きく離れており、高架に沿って歩くと「南口」が入る「上新庄阪急ビル」が現れるのでビルの下をくぐる。そこにも立派なお屋敷。
 

 路地を抜けていくと「春日神社」。
 

 春日神社であるから「中臣氏」を祖とする「藤原家」の祖神「春日四神」つまり「天児屋根命」「建甕槌命」「経津主命」「比大神」を祀る。ご神木と思われる3本の楠の影が長く伸びる。
 

 神社の前にも古い家や街並みが残る。
 

 

 ここにも茅葺きの家が。
 

 神社西側の「浄土真宗本願寺派信覚寺」前を通り、次の一方通行路を右折。再度、「大阪内環状線」の信号を渡り、左折する。すぐに歩道橋が架かる「上新庄交差点」に出るが、その北角に「常徳地蔵尊」。そして地蔵尊のすぐ裏、駐車場は「大阪府吹田市」になる。
 

 「上新庄歩道橋」を渡り、細い一方通行路に進んで行く。
 

 右の建物の裏は「吹田市」だ。
 

 真っ直ぐ進むと新しいが「亀岡街道」と刻まれた石標が。
 

 街道沿いらしく角には「地蔵尊」。
 

 地蔵尊南側の路地から「下新庄5丁目」の町へ入る。ここにも古い街並みが残る。
 

 「浄土真宗本願寺派明教寺」の路地を入る。
 

 この辺りにも古い街並みが残っている。
 

 このお屋敷も立派だな。
 

 裏に回る。
 

 

 古い街並みの裏では新たにマンションが建設されている。
 

 「庄栄温泉」。良い雰囲気のお風呂屋さんだ。
 

 ちょっと暖簾越しに中をのぞかせてもらった。
 

 タバコ屋兼お米屋さんの跡。「政府登録」の文字が。
 

 「下新庄駅」北側の踏切を渡る。
 

 ここにも古い街並みが残る。
 

 「下新庄駅」西側をウロウロと歩き駅西口へ向かう。
 

 

 塀の上では「鍾馗様」が睨みを効かす。
 

 阪急「下新庄駅」。地下鉄堺筋線も乗り入れる「千里線」の駅だが、ややローカル線ぽい雰囲気がする。午後5時ちょうど着。本日の歩紀「37768歩」(32.48km)。大阪の人でもあまり訪れることのない町であるが、結構、色々なものがあった。しかし、よく歩いたな。
 
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