「暴君ーシェイクスピアの政治学」スティーブン・グリーンブラッド著・河合祥一郎訳・岩波新書
専制政治時代のイギリスで、シェイクスピアが物語の中で暴君の数々を描いて首を刎ねられなかったのはなんでか。
話のモトネタより当時の世情的にシビアに寄せて物語を描いていったのはどんなメッセージがあったのか。
時代がすぎて社会が変わっていっても、政治が硬直して暴君が生まれる素地はあちこちにある今現在、とてもリアルな問題点がいっぱいな「芝居の読み方」本でした。
いろんな暴君の話がみんな印象深く解きほぐされてて面白かった。一つ特別印象強かったとこだけメモメモ。
「リア王」ナルシストの独裁者が末娘や部下の誠実さに気づかずに放逐させ、太鼓持ちの2人の娘夫婦に権力を奪われる話。
モトネタ昔話では、末娘コーデーリアが王を助けて裏切り者の姉たちをおっぱらってめでたしめでたしだったそうで、でも作家はそうさせずにコーデーリアを獄中死させる。今迄その意図がいまいちわからなかったし、王があまりにクソ親・ダメ為政者だったので話自体苦手だったんです。でもこのクソでダメな人格の解像度をあげて読むと、いろんな時代のクソでダメな条件や原因(立場が上の者=君主・親)見えてきて大変重い。
中盤、王と末娘を合わせる手引きに協力した貴族を、姉夫婦(リーガン&コーンウォール伯)が捕らえ拷問死させるシーン。
屋敷の兵士も部下も拷問に加担する中で、コーンウォール伯の召使、主に絶対服従するはずの召使がひとり「おやめください」と声をあげる。「子どもの頃からお使え申し上げてきましたが」「今、やめてくださいと申し上げるほどの/ご奉公はないと思います」(第3幕第7場)
激怒した主夫婦に召使は殺され、拷問を受けた貴族も放り出されやがて死ぬ。
ただこの非道を目にした大衆が、王座を取った姉夫婦達に反感を抱き世間の風向きが変わっていく。
召使には名前もなくこのシーンでしか出てこない役だけど、この「登場人物を見守る登場人物」の描き方がすごくよかった。それは御伽噺を現実の問題に引き寄せた、作家の目を持ってるキャラクターなのかもしれない。
あとはちょっとメモ。リチャード三世・ちゃんと「時の娘」以降の視点を踏まえた上でシェイクスピアがリチャードの魅力を描いてる、ピカレスク、正常バイアス。
コリオレイナス・よく悪の定義で「自分は人を殺した斧だけど振り下ろしたのは別の○○」って言い回しがあるけど、コリオレイナスはこれがミサイルみたいな感じで、しかもだんだん操縦できなくなってくみたい。昔読んだ時は「お母さんがとにかく怖い」感想だったけど、怖いのはお母さんという誘導装置がきかなくなってからなのかもしれない。
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