「キャリバンと魔女 資本主義に抗する女性の身体」(シルビア・フェデリーチ著・小田原琳・後藤あゆみ訳 以文社刊)読了。
ヨーロッパの魔女裁判の歴史と資本主義が発展していく過程で「女性という種類の人間」がどのように差別に組み込まれてきたか、というテーマ。
大変に重いし残虐な歴史で、権力者同士の闘争の注意深い陰湿さとはまったく別の、権力者から被支配者に対する遠慮ない残酷で苛烈で大規模な攻撃が恐ろしい。
権力者が権力を増大させるというのは単純に地図上の領土を拡大することではなく、働く人民を増やししかしその食い扶持は減らし、反逆を制するために共食いをさせ、不足の場合はほかの地域から人間を攫ってくる(地方の農村に始まり規模が大きくなるにつれ新大陸やアフリカから)という話。
その端緒になったのが「囲い込み地」で、公共の財産だった多くの土地(共有地コモンズ)を資産家の所有地とすることで、そこにすむ農民を都市労働者として貨幣経済を担わせる。地域社会の分断、文化の喪失など、たぶん当事者が感じた以上の社会の損失だったのでは。
学生のころ「ロビンソンクルーソー」を読んだ時に自由の天地であるはずの絶海の孤島でさえロビンソンは囲い込み地を作り、有色人種の遭難者フライデーを下僕としてこき使ってたな…というのを思い出し。
女性嫌悪(ミソジニー)という感覚も、厳しい差別と貧困がある社会に「すべての男の下の地位が女」という設定を15世紀からもう作り始めていたのかと、その歴史の長さに暗澹としてしまった。
最終章に、これらが前近代の問題ではなく1980~2000年までの間でさえ、新自由主義の経済的差別によって女性たちの魔女化・国家社会転覆容疑・大量殺人容疑が生じている(それが遠い国の集団ヒステリーとしてスルーされている)問題。
そういや以前NHKの怪奇娯楽番組で取り上げられていたのを見た…状況の深刻さは伝わってこなかった。たぶん取材報道側から社会問題、貧困差別の原因がまるっと抜けているからかと。
歴史を政治の面だけで追って学んでいると、こういう経済や差別のしがらみ部分は見えてこないんだなと、今まで学んだ世界史を振り返って思う。日本史だと中世の民間宗教や生産流通の段で触れてたけど、戦国以降はあんまり勉強してこなかったな。ちょうどヨーロッパでの魔女裁判全盛期にあたる頃、日本では性差はどんなんだったのか興味あり。
でも手をつけるのはもうちょっと後にしよう…と思うぐらいに残酷で陰惨な話まるけであった。
「基本的人権」がただの言葉だとしても、これ以上に大事なもんはないわ。