ラグビーの日本での始まりと飯田の関係です。
深い関係があるわけではありませんが。
日本に公式にラグビーが紹介されたのが、
1899年に横浜のエドワード・B・クラーク教授と田中銀之助が
慶應義塾大学の学生に紹介した時とされています。
この田中銀之助は、「天下の糸平」の曾孫になります。
そしてその曾孫の田中真一は2011と2012に慶應大学のラグビー部の
監督をした人で、トップリーグのキャノンでプレーをしていたようです。
田中銀之助は、1873年生まれで、初代田中平八は飯田の出で、
二代目田中平八の長女の婿養子となった三代目田中平八(北村菊次郎)の長男として
生まれ、1893年にケンブリッジ大学トリ二ティ・オール・カレッジの入学して、学位を取得して
帰国。田中銀行の取締役になる。そして1899年に恩師のクラーク教授とともにラグビーを
伝えている。そして、会長就任を固辞したために、初代の日本ラグビーフットボール協会の
名誉会長になった人です。
余談ですが、
三男の釜吉は高田慎蔵の娘と結婚して高田釜吉となり、
その曾孫がタレントの高田万由子だそうです。
あまり飯田とは関係ないですかね。
「天下の糸平」こと初代の田中平八は、
伊那郡赤須村(今の駒ヶ根市)に資産家の三男として生まれますが、
父の相場の失敗で、1846年(弘化3年)に飯田の魚屋に丁稚奉公に出されます。
その後魚屋として独立し、染物屋の娘田中はると結婚して
婿養子となり「田中平八」になります。
本人も相場に手をだし大損して、剣の道に入りますが水戸天狗党の乱で小伝馬町に
投獄されて、再び商売をすることを決意します。
そして横浜で1865年に「糸屋平八商店」を開業し、
巨利を得て「糸屋の平八」「天下の糸平」と呼ばれるようになった人です。
まあ、3代前後すれば、皆何かと関係するとは思いますが。