野良耆の見聞記

いなか暮らしの野良着生活

古びていくものには味わいがある。そこに小さな歴史があるから・・・・・

ラグビーと飯田の関係

2019-09-27 | ラグビー

ラグビーの日本での始まりと飯田の関係です。

深い関係があるわけではありませんが。

日本に公式にラグビーが紹介されたのが、

1899年に横浜のエドワード・B・クラーク教授と田中銀之助が

慶應義塾大学の学生に紹介した時とされています。

この田中銀之助は、「天下の糸平」の曾孫になります。

そしてその曾孫の田中真一は2011と2012に慶應大学のラグビー部の

監督をした人で、トップリーグのキャノンでプレーをしていたようです。

 

田中銀之助は、1873年生まれで、初代田中平八は飯田の出で、

二代目田中平八の長女の婿養子となった三代目田中平八(北村菊次郎)の長男として

生まれ、1893年にケンブリッジ大学トリ二ティ・オール・カレッジの入学して、学位を取得して

帰国。田中銀行の取締役になる。そして1899年に恩師のクラーク教授とともにラグビーを

伝えている。そして、会長就任を固辞したために、初代の日本ラグビーフットボール協会の

名誉会長になった人です。

余談ですが、

三男の釜吉は高田慎蔵の娘と結婚して高田釜吉となり、

その曾孫がタレントの高田万由子だそうです。

 

あまり飯田とは関係ないですかね。

 

「天下の糸平」こと初代の田中平八は、

伊那郡赤須村(今の駒ヶ根市)に資産家の三男として生まれますが、

父の相場の失敗で、1846年(弘化3年)に飯田の魚屋に丁稚奉公に出されます。

その後魚屋として独立し、染物屋の娘田中はると結婚して

婿養子となり「田中平八」になります。

本人も相場に手をだし大損して、剣の道に入りますが水戸天狗党の乱で小伝馬町に

投獄されて、再び商売をすることを決意します。

そして横浜で1865年に「糸屋平八商店」を開業し、

巨利を得て「糸屋の平八」「天下の糸平」と呼ばれるようになった人です。

 

まあ、3代前後すれば、皆何かと関係するとは思いますが。

 

 

 

 

 


コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« ラグビーWC2019(2) | トップ | 山梨放送のベリカード(5) »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ラグビー」カテゴリの最新記事