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アントニオ・タブッキ『供述によるとペレイラは……』

2007-03-02 21:45:51 | 読書

 20世紀前半のポルトガルを舞台とした作品。

 人生も折り返し点を過ぎて、ふと死というものについて考えるようになった中年男の安穏とした日常が確たる理由もなく若い男女と関わりつづけることで次第に変化に富むものに変わりはじめる。その代償として、時代の圧力が徐々にその強さを増しながら彼にのしかかっていく。

 にもかかわらず、「これまで生きてきた人生への郷愁」と「これからの人生への深い思い」に捉われながら、主人公は「過去」とつきあうことをやめ、「未来」とつきあうことを選択する。彼がそのことでどうなるのかは、表題や各章の冒頭文の示す通りで、この作品は主人公ペレイラの供述調書という体裁をとっている。

 ペレイラは冴えない中年男で、ことさらにヒロイックに振舞うこともない。むしろ若い(男)女に引きずられるようにずるずると彼らの活動にコミットしていく。解説の中で訳者は、ペレイラたちの会話の中でも言及されるベルナノスの『カルメル会修道女の告白』における意志の強さとは無関係な信仰のあり方という視点を提示して、カルドーソ医師に倣うことも可能だったのに、そうはしなかったペレイラの場合と比較しているのが興味深い。

 小説の中でベルナノスをはじめとするフランスのカソリック作家たちの動向が言及されるくだり(とくに神父との会話)を読めば、それがヴァティカンですら誤謬をまぬかれえなかった現代における、ごく普通の人間の信仰の問題として扱われていることは明白だし、訳者もそうした文脈で取り上げていると思われる。
(ここに見られる訳者・須賀敦子の信仰の問題については、たとえば『地図のない道』でも感じたが、リンク先のメモではあえてそれらは省いた。)

 ただし、こうした問いは単に宗教的な問題系にのみ属するものでもなくて、準拠すべき規準が見出しえないとき、人は何を規準として判断すべきなのかという問いに置き換えることも可能だろう。その問いに対するヒントは「私の同志は私だけです」というペレイラの言葉の中にある。この言葉は、言うまでもなく他者との関わりを喪失し、世界から見捨てられることを意味する“loneliness”ではなく、自覚的に選び取られた“solitude”であることを意味している。


 アントニオ・タブッキ『供述によるとペレイラは……』(須賀 敦子訳、2000.8、白水Uブックス)



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