【未読の方はお読みにならないように】
ひと言で言えば、「経験していないこと」への、非-在へのノスタルジーにとり憑かれた男の物語とまとめることができるだろうか。同じ文章自体が幾度も反復され、同じイメージが二重に重ね合わされ、同じ行為が反復される。そして、何か薄い絹の布に隔てられたように、何らかの媒介を介してつながる人間関係。全体の印象としては散文詩のような趣もある。
主な舞台は19世紀末の、南仏にあるとされる架空の町ラヴィルデューと「世界の果て」にある日本という架空の国。主人公エルヴェ・ジョンクールは「自分の人生に<立ち会う>ことに満足し、<それを生きる>野心はすべからく自分にはそぐわないと考える」(*)青年だったが、町を養蚕で興したバルダミューによって「やるべき仕事」を発見させられる。この場合、「やるべき仕事」とは蚕の卵の買い付けのため、遠く海を越えて旅をすることだが、やがて青年はこの仕事を通じて、はじめて自らの意志で事を成そうとする。つまり人生を生きようとする。だが、それは何とも奇妙な情熱に駆られた人生でもあるだろう。
* こうした語法上の瑕疵が気になる訳文ではあった。
物語は、主人公が疫病に冒されていない蚕の卵を求めて、バルダミューによれば「世界の果て」、それはまたエルヴェ・ジョンクールによれば「見えない世界」でもあった日本に買い付けにいったところから大きく動き始める。「無をつかむような感触」の上質の絹を生み出す蚕の卵を求めて、エルヴェ・ジョンクールは旧体制下の有力者ハラ・ケイと出会う。ハラ・ケイは近くを小川が流れ、木立の途切れたところに美しい湖水がひろがる、それ自体が「沈黙の湖に沈んでいるかのよう」な屋敷に住んでいる。そして、その屋敷でこの得体の知れぬ男のそばにかしずく幻のような女と出会う。女は「その目は東洋人のまなじりをもたず、顔は少女のそれだった」と描写される。女の「<面くらうほど一心な>まなざし」に魅入られたように主人公は女を見つめ返す。そこからエルヴェ・ジョンクールは奇妙な妄執、「経験していないことへのなつかしさ」に衝き動かされ、それからさらに三度日本に渡ることになる。
その間、二つの記号が主人公と女の間を往復する。二度目の訪問の最後の夜、女は短い手紙をエルヴェ・ジョンクールの手に握らせる。「もどってきて。でないと、死にます」と書かれたその手紙に誘われるようにエルヴェ・ジョンクールは三たび日本を訪れ、その手紙を女の手に握らせる。ここにある種の(あえて古風な言い回しをすれば)“姦通”が成立する。ちょうどその場面、ハラ・ケイが「恋人の貞淑さに報いるための贈り物」として世界中から蒐集した数え切れぬほどの鳥たちが空を舞っている。女が鳥小屋の扉を開いたからだった。
一方、二度目の訪問のとき、女への意思表示として女の着物の傍らにさりげなく落としておいた主人公の手袋は四度目の訪問の折、女からの「恋文」であった少年を通じて主人公の手に戻ってくる。これら送り手へと送り返される記号の往復がエルヴェ・ジョンクールのはるかな旅を支えている。しかしながら、もとより直接手渡されたわけではないこの手袋という記号は、少年という媒介を介して戻ってくるのであり、この往復には手紙のときのような主人公と女との間の手と手の接触はない。そして女からの二通目の「恋文」である少年が女のもとに戻ることもない。この記号の往復運動が断ち切らることで、エルヴェ・ジョンクールは二度と日本の地を踏むこともなくなる。だが、彼はこのあと「故郷」に帰還することはない。むしろ、最初の日本訪問以来、こちらでもあちらでもない、「見えない世界」に立ち止まったままだ。鳥たちの飛び方で未来を読むハラ・ケイに倣って、エルヴェ・ジョンクールがその行方を読もうとした鳥たちがまるで「行き場」を失っていたように。(そして、このことについては最後に触れる。)
文字や物といった記号のやりとり、手と手のかすかな接触はあったが、エルヴェ・ジョンクールは一度も女の声を聞かなかった。この幻のような女は、その声を聴くだけで心やすらぐ「すぐれて美しい声の持ち主」である妻エレーヌと好対照をなす。エレーヌとの間に子どもを授からなかったことが、一方でエルヴェ・ジョンクールをして蚕の卵をめぐる奇妙な情熱を抱かしめたのかも知れないし、女の声を聴くことへの渇望がエルヴェ・ジョンクールの妄執の根底にあるのかも知れない。しかし、物語の後半、日本からの四度目の帰国に際し、卵を全滅させたあと、エルヴェ・ジョンクールは庭園作りに奇妙な情熱を傾ける。その庭ははじめて日本に行って戻ってきたあと、「世界の果てで出会ったような、見えない世界」の再現として構想されていた。そこには小川が流れ、木立の途切れた先に小さな湖を持ち、また鳥小屋をもつ庭でもあり、まさしくハラ・ケイの領地の模倣でもある。それはつまるところ「経験していないこと」への、非-在へのノスタルジーの産物だろう。
そのような主人公に対して、やがて妻エレーヌもまた未知の、しかしながら主人公の心を捉え続ける女を模倣しようとする。だが、そのエレーヌから送られた日本語の手紙は、女からのときのように翻訳者という迂回路を辿るが、再び送り手のエレーヌのもとに戻ることはない。エルヴェ・ジョンクールが手紙の書き手が誰であるかを知ったときに書き手はすでにこの世にいないからだ。しかし、この手紙は奇妙なノスタルジーに憑かれた主人公の旅に結果的に終止符を打つ。すなわちエルヴェ・ジョンクールは帰るべき場所を見出す。
ところで、興味深いことに若い頃のエルヴェ・ジョンクールは自らの旅について人々に語ることはない。エキゾチックな旅の土産話はそもそも「家」に帰還したあとで語られるものであり、「家」と「異郷」との明確な区別が前提となるだろう。とすれば、エルヴェ・ジョンクールが町の人々に対して、自らの旅について沈黙を守っていた間、彼はいまだ帰還していなかったということを意味する。たしかに最後の、失敗に終わった日本への買い付けから戻ったあと彼は旅の経験についてはじめてバルダミューに語る。だが、どこからともなく町に現れ、ひとりで「<二本腕>対<一本腕>」のビリヤードの勝負をしながら、片腕が勝ったとき町を離れると公言していたバルダミューは「故郷」の人間ではないし、事実、片腕が勝ったとき彼は町を去る。バルダミューも、いわば媒介に過ぎない。
エルヴェ・ジョンクールはバルダミューを通じて日本と結びつけられる。しかも、エルヴェ・ジョンクールを日本に向かわせ、さらに今また庭園造りに駆り立てる奇妙な情熱の根底にある秘密はバルダミューを仲介してエレーヌにもたらされたに相違ない。そうでなければ、バルダミューとの別れ際のエレーヌの唐突な行動も、また夫に宛てた手の込んだ手紙のことも説明がつかない。したがってバルダミューはエルヴェ・ジョンクールを再びもとの人生に送り返す仲介者ともなっている。そして、主人公が町の人々に「世界」や「驚異」について語りはじめるのは、バルダミューから「仕事」を与えられる前の、「自分の運命をながめ暮らす人」に戻ってからだった。
小説の一番の最後の部分から。
彼の余生は、習慣という典礼のなかでついやされた。それが不幸から彼を遠ざけてくれた。ときおり、風の強い日は、湖のほとりまで下りていき、湖面を眺めて何時間も過ごした。なぜならば、彼はそこに見たように思ったから。水の上に描かれた、かすかな、謎めいた舞台を。彼の人生を。
アレッサンドロ・バリッコ『絹』(鈴木昭裕訳、白水Uブックス、2007)
2008.1.5 一部修正
ひと言で言えば、「経験していないこと」への、非-在へのノスタルジーにとり憑かれた男の物語とまとめることができるだろうか。同じ文章自体が幾度も反復され、同じイメージが二重に重ね合わされ、同じ行為が反復される。そして、何か薄い絹の布に隔てられたように、何らかの媒介を介してつながる人間関係。全体の印象としては散文詩のような趣もある。
主な舞台は19世紀末の、南仏にあるとされる架空の町ラヴィルデューと「世界の果て」にある日本という架空の国。主人公エルヴェ・ジョンクールは「自分の人生に<立ち会う>ことに満足し、<それを生きる>野心はすべからく自分にはそぐわないと考える」(*)青年だったが、町を養蚕で興したバルダミューによって「やるべき仕事」を発見させられる。この場合、「やるべき仕事」とは蚕の卵の買い付けのため、遠く海を越えて旅をすることだが、やがて青年はこの仕事を通じて、はじめて自らの意志で事を成そうとする。つまり人生を生きようとする。だが、それは何とも奇妙な情熱に駆られた人生でもあるだろう。
* こうした語法上の瑕疵が気になる訳文ではあった。
物語は、主人公が疫病に冒されていない蚕の卵を求めて、バルダミューによれば「世界の果て」、それはまたエルヴェ・ジョンクールによれば「見えない世界」でもあった日本に買い付けにいったところから大きく動き始める。「無をつかむような感触」の上質の絹を生み出す蚕の卵を求めて、エルヴェ・ジョンクールは旧体制下の有力者ハラ・ケイと出会う。ハラ・ケイは近くを小川が流れ、木立の途切れたところに美しい湖水がひろがる、それ自体が「沈黙の湖に沈んでいるかのよう」な屋敷に住んでいる。そして、その屋敷でこの得体の知れぬ男のそばにかしずく幻のような女と出会う。女は「その目は東洋人のまなじりをもたず、顔は少女のそれだった」と描写される。女の「<面くらうほど一心な>まなざし」に魅入られたように主人公は女を見つめ返す。そこからエルヴェ・ジョンクールは奇妙な妄執、「経験していないことへのなつかしさ」に衝き動かされ、それからさらに三度日本に渡ることになる。
その間、二つの記号が主人公と女の間を往復する。二度目の訪問の最後の夜、女は短い手紙をエルヴェ・ジョンクールの手に握らせる。「もどってきて。でないと、死にます」と書かれたその手紙に誘われるようにエルヴェ・ジョンクールは三たび日本を訪れ、その手紙を女の手に握らせる。ここにある種の(あえて古風な言い回しをすれば)“姦通”が成立する。ちょうどその場面、ハラ・ケイが「恋人の貞淑さに報いるための贈り物」として世界中から蒐集した数え切れぬほどの鳥たちが空を舞っている。女が鳥小屋の扉を開いたからだった。
一方、二度目の訪問のとき、女への意思表示として女の着物の傍らにさりげなく落としておいた主人公の手袋は四度目の訪問の折、女からの「恋文」であった少年を通じて主人公の手に戻ってくる。これら送り手へと送り返される記号の往復がエルヴェ・ジョンクールのはるかな旅を支えている。しかしながら、もとより直接手渡されたわけではないこの手袋という記号は、少年という媒介を介して戻ってくるのであり、この往復には手紙のときのような主人公と女との間の手と手の接触はない。そして女からの二通目の「恋文」である少年が女のもとに戻ることもない。この記号の往復運動が断ち切らることで、エルヴェ・ジョンクールは二度と日本の地を踏むこともなくなる。だが、彼はこのあと「故郷」に帰還することはない。むしろ、最初の日本訪問以来、こちらでもあちらでもない、「見えない世界」に立ち止まったままだ。鳥たちの飛び方で未来を読むハラ・ケイに倣って、エルヴェ・ジョンクールがその行方を読もうとした鳥たちがまるで「行き場」を失っていたように。(そして、このことについては最後に触れる。)
文字や物といった記号のやりとり、手と手のかすかな接触はあったが、エルヴェ・ジョンクールは一度も女の声を聞かなかった。この幻のような女は、その声を聴くだけで心やすらぐ「すぐれて美しい声の持ち主」である妻エレーヌと好対照をなす。エレーヌとの間に子どもを授からなかったことが、一方でエルヴェ・ジョンクールをして蚕の卵をめぐる奇妙な情熱を抱かしめたのかも知れないし、女の声を聴くことへの渇望がエルヴェ・ジョンクールの妄執の根底にあるのかも知れない。しかし、物語の後半、日本からの四度目の帰国に際し、卵を全滅させたあと、エルヴェ・ジョンクールは庭園作りに奇妙な情熱を傾ける。その庭ははじめて日本に行って戻ってきたあと、「世界の果てで出会ったような、見えない世界」の再現として構想されていた。そこには小川が流れ、木立の途切れた先に小さな湖を持ち、また鳥小屋をもつ庭でもあり、まさしくハラ・ケイの領地の模倣でもある。それはつまるところ「経験していないこと」への、非-在へのノスタルジーの産物だろう。
そのような主人公に対して、やがて妻エレーヌもまた未知の、しかしながら主人公の心を捉え続ける女を模倣しようとする。だが、そのエレーヌから送られた日本語の手紙は、女からのときのように翻訳者という迂回路を辿るが、再び送り手のエレーヌのもとに戻ることはない。エルヴェ・ジョンクールが手紙の書き手が誰であるかを知ったときに書き手はすでにこの世にいないからだ。しかし、この手紙は奇妙なノスタルジーに憑かれた主人公の旅に結果的に終止符を打つ。すなわちエルヴェ・ジョンクールは帰るべき場所を見出す。
ところで、興味深いことに若い頃のエルヴェ・ジョンクールは自らの旅について人々に語ることはない。エキゾチックな旅の土産話はそもそも「家」に帰還したあとで語られるものであり、「家」と「異郷」との明確な区別が前提となるだろう。とすれば、エルヴェ・ジョンクールが町の人々に対して、自らの旅について沈黙を守っていた間、彼はいまだ帰還していなかったということを意味する。たしかに最後の、失敗に終わった日本への買い付けから戻ったあと彼は旅の経験についてはじめてバルダミューに語る。だが、どこからともなく町に現れ、ひとりで「<二本腕>対<一本腕>」のビリヤードの勝負をしながら、片腕が勝ったとき町を離れると公言していたバルダミューは「故郷」の人間ではないし、事実、片腕が勝ったとき彼は町を去る。バルダミューも、いわば媒介に過ぎない。
エルヴェ・ジョンクールはバルダミューを通じて日本と結びつけられる。しかも、エルヴェ・ジョンクールを日本に向かわせ、さらに今また庭園造りに駆り立てる奇妙な情熱の根底にある秘密はバルダミューを仲介してエレーヌにもたらされたに相違ない。そうでなければ、バルダミューとの別れ際のエレーヌの唐突な行動も、また夫に宛てた手の込んだ手紙のことも説明がつかない。したがってバルダミューはエルヴェ・ジョンクールを再びもとの人生に送り返す仲介者ともなっている。そして、主人公が町の人々に「世界」や「驚異」について語りはじめるのは、バルダミューから「仕事」を与えられる前の、「自分の運命をながめ暮らす人」に戻ってからだった。
小説の一番の最後の部分から。
彼の余生は、習慣という典礼のなかでついやされた。それが不幸から彼を遠ざけてくれた。ときおり、風の強い日は、湖のほとりまで下りていき、湖面を眺めて何時間も過ごした。なぜならば、彼はそこに見たように思ったから。水の上に描かれた、かすかな、謎めいた舞台を。彼の人生を。
アレッサンドロ・バリッコ『絹』(鈴木昭裕訳、白水Uブックス、2007)
2008.1.5 一部修正
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