著者がまとめるところによれば、東方キリスト教会の精神は教父アタナシオスの「神が人間になったのは、人間が神になるためである」という言葉に要約される。しかし人間の神化を目的としているからといって、神を人間により身近な存在と見なしているわけではない。いわゆる神の接近不可能、把握不可能、不可知、不可視、限定不可能という可能なことの否定を通じてしか神の本質を表現し得ないとする否定神学が示しているように、神の超越性を強調している。にもかかわらず、東方教会は人間の神化(神の内在、神との合一)を主張する。いうまでもなく神はこの世界の他者である。しかし否定であり、超越者であるからこそ、神は人間の自己否定としての自己超越の目的となりうる。ゆえに人間は神との合一を希求する。
著者はこうした東方教会の主張を、ヘシュカスト論争を通じて整理していく。ヘシュカストたちは、イスラムのスーフィズム、ヒンドゥーのヨガ、さらには仏教と同じく、精神-身体技法を重視し、静寂において光の現前に出会う。自己と一体となるこの光を神の光と考えるヘシュカストたちは、まさにこの光において神と合一する。そして、このヘシュカストたちの主張を擁護したのがグレゴリオス・パラマスだった。
確かにその本質において絶対的な他者であり、接近不可能である神に人間が合一することなどありそうもない。しかし、東方教会におけるキリスト教の目的は人間の神化である。神は人間となり、この世界に受肉することで、人間と合一し、この世界に内在した。ならば神はその本質(ウーシア)ではなく、活動(エネルゲイア)において人間と合一し、人間を神化するのではないかとパラマスは考えた。
神の本質と活動が共有する属性は無限である。否定神学の帰結として神の本質は無限であるが、神の活動もまた無限であるとパラマスは考えた。(そしてヘシュカストの見る光こそ神の活動それ自体であり、このとき神は輝ける闇となる。)1351年のコンスタンティノープルの公会議はこのパラマスの神学を信条化した。それは神の本質と活動はひとつの単純な神性を共有する二つの区別される神のあり方であり、人間はその本質に到達不可能ではあるが、神の活動には合一可能であるとするものだ。だが、果たして神の無限を接近不可能なものと接近可能なものとに区別しうるものなのか?著者は現代の集合論なら
それは可能であると考える。
無限を区別するためには、互いに同一ではない、つまり一対一対応しない無限を発見せねばならない。そのような無限の候補として、無限とその(無限)ベキが挙げられる。
基数3の集合Aを
A ={a, b, c}
と措く。この集合Aのすべての部分集合は
φ(空集合),
{a}, {b},{c},
{a, b},{a, c},{b, c},
{a, b, c}
となる。このとき集合Aのベキ集合P(A)は、これら8つの部分集合を要素とする集合を指す。
さて無限集合Sとベキ集合P(S)は一対一対応しない。したがって無限集合Sの基数C(S)とそのベキ集合P(S)の基数C(P(S))は等しくない。
ある集合Aの基数がnである場合、集合Aのすべての部分集合の基数は2のn乗となる。無限集合Sの基数が無限であるとすれば、ベキ集合P(S)の基数は2の無限乗となる。無限集合の無限に較べてそのベキ集合の無限は、いわば「無限乗」の無限であるがゆえに大きくなる。つまり無限は、無限とその無限乗の無限に区別されうる。
著者は、神の活動をある無限集合としたき、そのベキ集合は神のすべての活動の総体、すなわちそれぞれの人間に固有の仕方で内在する神の活動の総体であると見なしうるという。とすれば、神の活動としての無限(無限集合)とその活動の総体としての無限(無限ベキ集合)は一対一対応しない。 このような神の活動の総体を、著者は神の本質と置き換える。このとき神の本質と活動の区別は論理的誤謬ではありえなくなる。
それにしても神の本質がなぜ無限集合のベキ集合なのか?著者によれば、神の能力あるいは活動が無限集合であるとすれば、ベキ集合の基数はもとの無限集合の基数より必ず大きい。この神の活動の無限を超越するベキ集合の無限は、ゆえに神の本質であるところの本質に同定される、という。
トマスとパラマスの相違点は前者が合理的推論という世俗的な知しか認めなかったのに対して、後者が瞑想という霊的な知を認めたことにあるという。(もっとも著者はトマスの章の最後に彼が神を見たのではないかと推測している。そこからトミズムの系譜に位置づけられる神秘主義思想への方向性も見えてこようが、その点には触れようとはしない。著者はトミズムの人間の神化を認めない思想とその徹底した世俗的方法論の意図せざる帰結としてキリスト教の世俗化という観点にこだわっているからだろうか。)
宗教とは神の超越と内在の緊張に耐えることによって反世俗的な、あるいは霊的な次元を確保しようとする努力であるとすれば、そのような文脈の中にトマスの神の本質と存在を等値とする議論を措くとき、存在(esse)の原義は活動(エネルゲイア)のことでもあるのだから、それは神の本質と活動が一致すると主張するパラミズムの主張と等しいとも主張する。いずれにせよ東方キリスト教神学は東地中海の一地域に起こった固有の信仰から出発しながら、人間の霊性のきわめて普遍的な構造に達していたと著者は結論付ける。
おそらく本書の出発点は、キリスト教神学とカントルの集合論との間にアナロジーを見出したことにあるのだろう。
・ 任意の無限集合は、自らに等しい部分集合を持つ。
・ 無限集合においては、部分の総和は全体を超える。
この二つの定理がキリスト教神学の神概念の把握に置き換えうるという発見の興奮こそが本書における議論の推進力になっている。ところで数学においては証明可能な定理とその前提でありながら、それ自体は証明不可能な公理がある。たとえば、本書でも神が存在するか否かについては証明の対象とはならない。つまり公理として扱われるということか。あるいは著者は神の活動の総体を神の本質と言い換える。そのような言い換えが可能かどうかについては検討されていない。それも公理と見なされるのか。さらにまた、神学と数学のアナロジーが妥当なものかどうかも、カントルの集合論発見の動機以外に説明されない。
前提となる公理が前提とされなければ、定理の証明はなされえない。同様に神の存在自体も、神の活動の総体が本質と等値であることも、そして数学の言葉によって神学が語りうるということも公理でなければ、本書の議論も成立しない。それを公理と見なすか否かは、個人の(信仰の)自由ということだろうか。確かにこれは数理神学であると著者も書いている。
落合仁司『地中海の無限者 東西キリスト教の神―人間論』(勁草書房・1995)
著者はこうした東方教会の主張を、ヘシュカスト論争を通じて整理していく。ヘシュカストたちは、イスラムのスーフィズム、ヒンドゥーのヨガ、さらには仏教と同じく、精神-身体技法を重視し、静寂において光の現前に出会う。自己と一体となるこの光を神の光と考えるヘシュカストたちは、まさにこの光において神と合一する。そして、このヘシュカストたちの主張を擁護したのがグレゴリオス・パラマスだった。
確かにその本質において絶対的な他者であり、接近不可能である神に人間が合一することなどありそうもない。しかし、東方教会におけるキリスト教の目的は人間の神化である。神は人間となり、この世界に受肉することで、人間と合一し、この世界に内在した。ならば神はその本質(ウーシア)ではなく、活動(エネルゲイア)において人間と合一し、人間を神化するのではないかとパラマスは考えた。
神の本質と活動が共有する属性は無限である。否定神学の帰結として神の本質は無限であるが、神の活動もまた無限であるとパラマスは考えた。(そしてヘシュカストの見る光こそ神の活動それ自体であり、このとき神は輝ける闇となる。)1351年のコンスタンティノープルの公会議はこのパラマスの神学を信条化した。それは神の本質と活動はひとつの単純な神性を共有する二つの区別される神のあり方であり、人間はその本質に到達不可能ではあるが、神の活動には合一可能であるとするものだ。だが、果たして神の無限を接近不可能なものと接近可能なものとに区別しうるものなのか?著者は現代の集合論なら
それは可能であると考える。
無限を区別するためには、互いに同一ではない、つまり一対一対応しない無限を発見せねばならない。そのような無限の候補として、無限とその(無限)ベキが挙げられる。
基数3の集合Aを
A ={a, b, c}
と措く。この集合Aのすべての部分集合は
φ(空集合),
{a}, {b},{c},
{a, b},{a, c},{b, c},
{a, b, c}
となる。このとき集合Aのベキ集合P(A)は、これら8つの部分集合を要素とする集合を指す。
さて無限集合Sとベキ集合P(S)は一対一対応しない。したがって無限集合Sの基数C(S)とそのベキ集合P(S)の基数C(P(S))は等しくない。
ある集合Aの基数がnである場合、集合Aのすべての部分集合の基数は2のn乗となる。無限集合Sの基数が無限であるとすれば、ベキ集合P(S)の基数は2の無限乗となる。無限集合の無限に較べてそのベキ集合の無限は、いわば「無限乗」の無限であるがゆえに大きくなる。つまり無限は、無限とその無限乗の無限に区別されうる。
著者は、神の活動をある無限集合としたき、そのベキ集合は神のすべての活動の総体、すなわちそれぞれの人間に固有の仕方で内在する神の活動の総体であると見なしうるという。とすれば、神の活動としての無限(無限集合)とその活動の総体としての無限(無限ベキ集合)は一対一対応しない。 このような神の活動の総体を、著者は神の本質と置き換える。このとき神の本質と活動の区別は論理的誤謬ではありえなくなる。
それにしても神の本質がなぜ無限集合のベキ集合なのか?著者によれば、神の能力あるいは活動が無限集合であるとすれば、ベキ集合の基数はもとの無限集合の基数より必ず大きい。この神の活動の無限を超越するベキ集合の無限は、ゆえに神の本質であるところの本質に同定される、という。
トマスとパラマスの相違点は前者が合理的推論という世俗的な知しか認めなかったのに対して、後者が瞑想という霊的な知を認めたことにあるという。(もっとも著者はトマスの章の最後に彼が神を見たのではないかと推測している。そこからトミズムの系譜に位置づけられる神秘主義思想への方向性も見えてこようが、その点には触れようとはしない。著者はトミズムの人間の神化を認めない思想とその徹底した世俗的方法論の意図せざる帰結としてキリスト教の世俗化という観点にこだわっているからだろうか。)
宗教とは神の超越と内在の緊張に耐えることによって反世俗的な、あるいは霊的な次元を確保しようとする努力であるとすれば、そのような文脈の中にトマスの神の本質と存在を等値とする議論を措くとき、存在(esse)の原義は活動(エネルゲイア)のことでもあるのだから、それは神の本質と活動が一致すると主張するパラミズムの主張と等しいとも主張する。いずれにせよ東方キリスト教神学は東地中海の一地域に起こった固有の信仰から出発しながら、人間の霊性のきわめて普遍的な構造に達していたと著者は結論付ける。
おそらく本書の出発点は、キリスト教神学とカントルの集合論との間にアナロジーを見出したことにあるのだろう。
・ 任意の無限集合は、自らに等しい部分集合を持つ。
・ 無限集合においては、部分の総和は全体を超える。
この二つの定理がキリスト教神学の神概念の把握に置き換えうるという発見の興奮こそが本書における議論の推進力になっている。ところで数学においては証明可能な定理とその前提でありながら、それ自体は証明不可能な公理がある。たとえば、本書でも神が存在するか否かについては証明の対象とはならない。つまり公理として扱われるということか。あるいは著者は神の活動の総体を神の本質と言い換える。そのような言い換えが可能かどうかについては検討されていない。それも公理と見なされるのか。さらにまた、神学と数学のアナロジーが妥当なものかどうかも、カントルの集合論発見の動機以外に説明されない。
前提となる公理が前提とされなければ、定理の証明はなされえない。同様に神の存在自体も、神の活動の総体が本質と等値であることも、そして数学の言葉によって神学が語りうるということも公理でなければ、本書の議論も成立しない。それを公理と見なすか否かは、個人の(信仰の)自由ということだろうか。確かにこれは数理神学であると著者も書いている。
落合仁司『地中海の無限者 東西キリスト教の神―人間論』(勁草書房・1995)
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