12モンキーズ Twelve Monkeys
(アメリカ・1995・130min)
監督:テリー・ギリアム
製作:チャールズ・ローヴェン
脚本:デヴィッド・ピープルズ、ジャネット・ピープルズ
音楽:ポール・バックマスター
出演:ブルース・ウィリス、ジョン・セダ、マデリーン・ストー、
ブラッド・ピット、クリストファー・プラマー、デヴィッド・モース
ギリアム監督の誇大妄想的なイマジネーションが炸裂する未来の地下世界のセット、そして多用される、観る者の神経を逆撫でするような傾いた構図や広角レンズによる歪んだ画面。アストル・ピアソラのバンドネオンによる哀切きわまりない調べはエンディングに流れるルイ・アームストロングの「この素晴らしき世界」のアイロニーとともに忘れがたい。「狂人の戯言」がときに真実を指し示し、やがて主人公は現実と妄想の閾に宙吊りにされる。
主人公は幼少期にフィラデルフィア空港の送迎エリアで見た二つの出来事の記憶に強く執着し、その二つのイメージに囚われている。それは突然の銃声ともに倒れ、死んでいく一人の男性の姿であり、その男を抱きしめる女性の面立ちである。この光景は映画の中で幾度となくフラッシュ・バックされ、それが彼に新たに付け加えられた記憶によって、ときに錯誤を伴いながら、幾重にも書き換えられていくだろう。想起とは過去の知覚を繰り返すことではない。
やがて舞台は人類のほとんどが死滅し、地上は動物たちが闊歩する2035年へ。人々は謎のウィルスで汚染された地上を逃れ地下に暮らしている。科学者たちは成人した主人公を過去へ送り込もうとする。目的は1996年に戻り、ウィルス・テロを起こした「12 Monkeys」という団体を探ることだった。ところが彼が辿り着いたのは1990年で、その不可解な言動から精神病院に収監され、女性精神科医から妄想癖と診断され、ひとりの入院患者に「12 Monkeys」というイメージを植えつけてしまい、そのことが彼が生きていた「現在」を左右する遠因となる。その後、再び誤って第一次大戦下のフランスに送られたあと、所期の目的であった1996年に送られる。そこで精神科医と再会し、彼女を無理矢理に協力者としてしまう。彼らはフィラデルフィアに向かい、そこで「12 Monkeys」というロゴを見つける。そして精神病院にいた患者と細菌研究の大物とのつながりを知る。
過去と未来の記憶が現在を浸蝕していくにつれ、精神科医は主人公の語る「未来」を現実として受けとめ、主人公は逆にすべては妄想だと思い、「現在」にとどまることを願いはじめたとき、「12 Monkeys」がウィルス・テロとは無関係だったこと知る。しかしに追われる二人は、警察と「未来」から逃れるためフィラデルフィアの空港に辿り着いたとき、そこでウィルスを散布した真犯人に遭遇する。主人公は犯人に銃を向ける…..。
セコイアの年輪を前にしてマデリンがスコティにカルロッタの記憶を語る『めまい』の一場面の引用、あるいは自滅した人間の所業を嘲笑うかのように地上の廃墟を闊歩する動物たちなど印象的な場面はいくつもある。なかでも印象的だったのは、いささか理詰めすぎる気がしないわけではないが、猿のイメージを重要なモティーフとした点。猿は、映画の主題とも関わってくることだが、私たちの意識や記憶のメカニズムを解明するための実験にも用いられていたし、公開当時、エボラ・ウィルスやHIVウィルスとの関連も取り沙汰されていた、と記憶する。
確かに主人公は「未来」を救うために「過去」に送られるが、「未来」(とそう遠くない「未来」)を救おうとした主人公は「現在」によって裁かれ、歴史を変えることはできない。そして、それと知らずに、その一部始終を凝視しつづける「過去」の自分自身。しかし、観る者はこの物語がひたすら循環する物語であることを知るとき、「未来」を破滅に導く要因のひとつが自分であり、その破滅を押しとどめられなかった瞬間を実はすでに目撃していたがゆえに過去のイメージがトラウマと彼を苛みつづけたことを理解する。だが、この映画にも記憶という、もうひとつの主題がある(★)。それは主人公がショッピング・センターや空港に足を踏み入れた途端にデジャ・ヴュを感じたように、観客も多彩な映画の引用による既視感の連続によって眩暈を感じながら、記憶の錯乱にあることを理解する。
(アメリカ・1995・130min)
監督:テリー・ギリアム
製作:チャールズ・ローヴェン
脚本:デヴィッド・ピープルズ、ジャネット・ピープルズ
音楽:ポール・バックマスター
出演:ブルース・ウィリス、ジョン・セダ、マデリーン・ストー、
ブラッド・ピット、クリストファー・プラマー、デヴィッド・モース
ギリアム監督の誇大妄想的なイマジネーションが炸裂する未来の地下世界のセット、そして多用される、観る者の神経を逆撫でするような傾いた構図や広角レンズによる歪んだ画面。アストル・ピアソラのバンドネオンによる哀切きわまりない調べはエンディングに流れるルイ・アームストロングの「この素晴らしき世界」のアイロニーとともに忘れがたい。「狂人の戯言」がときに真実を指し示し、やがて主人公は現実と妄想の閾に宙吊りにされる。
主人公は幼少期にフィラデルフィア空港の送迎エリアで見た二つの出来事の記憶に強く執着し、その二つのイメージに囚われている。それは突然の銃声ともに倒れ、死んでいく一人の男性の姿であり、その男を抱きしめる女性の面立ちである。この光景は映画の中で幾度となくフラッシュ・バックされ、それが彼に新たに付け加えられた記憶によって、ときに錯誤を伴いながら、幾重にも書き換えられていくだろう。想起とは過去の知覚を繰り返すことではない。
やがて舞台は人類のほとんどが死滅し、地上は動物たちが闊歩する2035年へ。人々は謎のウィルスで汚染された地上を逃れ地下に暮らしている。科学者たちは成人した主人公を過去へ送り込もうとする。目的は1996年に戻り、ウィルス・テロを起こした「12 Monkeys」という団体を探ることだった。ところが彼が辿り着いたのは1990年で、その不可解な言動から精神病院に収監され、女性精神科医から妄想癖と診断され、ひとりの入院患者に「12 Monkeys」というイメージを植えつけてしまい、そのことが彼が生きていた「現在」を左右する遠因となる。その後、再び誤って第一次大戦下のフランスに送られたあと、所期の目的であった1996年に送られる。そこで精神科医と再会し、彼女を無理矢理に協力者としてしまう。彼らはフィラデルフィアに向かい、そこで「12 Monkeys」というロゴを見つける。そして精神病院にいた患者と細菌研究の大物とのつながりを知る。
過去と未来の記憶が現在を浸蝕していくにつれ、精神科医は主人公の語る「未来」を現実として受けとめ、主人公は逆にすべては妄想だと思い、「現在」にとどまることを願いはじめたとき、「12 Monkeys」がウィルス・テロとは無関係だったこと知る。しかしに追われる二人は、警察と「未来」から逃れるためフィラデルフィアの空港に辿り着いたとき、そこでウィルスを散布した真犯人に遭遇する。主人公は犯人に銃を向ける…..。
セコイアの年輪を前にしてマデリンがスコティにカルロッタの記憶を語る『めまい』の一場面の引用、あるいは自滅した人間の所業を嘲笑うかのように地上の廃墟を闊歩する動物たちなど印象的な場面はいくつもある。なかでも印象的だったのは、いささか理詰めすぎる気がしないわけではないが、猿のイメージを重要なモティーフとした点。猿は、映画の主題とも関わってくることだが、私たちの意識や記憶のメカニズムを解明するための実験にも用いられていたし、公開当時、エボラ・ウィルスやHIVウィルスとの関連も取り沙汰されていた、と記憶する。
確かに主人公は「未来」を救うために「過去」に送られるが、「未来」(とそう遠くない「未来」)を救おうとした主人公は「現在」によって裁かれ、歴史を変えることはできない。そして、それと知らずに、その一部始終を凝視しつづける「過去」の自分自身。しかし、観る者はこの物語がひたすら循環する物語であることを知るとき、「未来」を破滅に導く要因のひとつが自分であり、その破滅を押しとどめられなかった瞬間を実はすでに目撃していたがゆえに過去のイメージがトラウマと彼を苛みつづけたことを理解する。だが、この映画にも記憶という、もうひとつの主題がある(★)。それは主人公がショッピング・センターや空港に足を踏み入れた途端にデジャ・ヴュを感じたように、観客も多彩な映画の引用による既視感の連続によって眩暈を感じながら、記憶の錯乱にあることを理解する。
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