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市川崑『黒い十人の女』

2008-02-26 22:48:24 | 映画
 『黒い十人の女』
 (日本・1961・103min.)

 監督:市川崑
 製作:永田雅一
 企画:藤井浩明
 脚本:和田夏十
 撮影:小林節雄
 美術:下河原友雄
 編集:中静達治
 音楽:芥川也寸志

 出演:船越英二、岸恵子、山本富士子、宮城まり子
     中村玉緒、岸田今日子 他


 テレビ局で働きながら、何とはなく日を過ごす男と、この男をめぐる十人の女たち(妻と九人の愛人たち)のブラック・ユーモアにあふれたコメディ。

 「誰にでもやさしいということは、誰に対してもやさしくない」という、無自覚なドンファンに向けられた女たちの愛情は、独占欲と同義語だろう。したがって男をいい加減見限ろうとしても、男が他の女と一緒のところにいるのを見るとつい嫉妬に駆られ、しかもその嫉妬には際限はない。なぜなら十人の女たちの名前には一から十までの数詞が織り込まれているのだが、十一人目かと思われた女は百人目を暗示する名前となっているからだ。そのような物語の結末も彼女たちの独占欲にふさわしいものとなっている。

 すなわち、女たちはどうにも抑えがたい欲望を断ち切るためには欲望の対象をまずは消し去ればよいと考える。この本気とも冗談ともつかぬ殺害計画は、いつしか夫と妻の共謀による偽装殺人にすり替わり、一旦は妻による夫の独占という形で結末を迎えるかと見えて(もっとも、そうはならないことは最初に明かされている)、しかし、妻もまた夫をひとたび独占してしまうと、かえって執着心を失っていく。そして夫とあっさり別れ、第一の愛人に夫を譲る。

 第一の愛人による独占は、男にとって社会的な意味での抹殺をも意味している。ただし、彼自身、生きることに、あるいは働くことに確かな目的意識を持っていたわけではない。会社で何かをしているということがある種、自己目的化していているような人物であり、何かのために準備されたもの(たとえば外出用の車)は常にその目的とともに忘れ去れてしまう。そして第一の愛人もまた、男を独占することが何かのためでなくそれ自体、自己目的化していく。それは本来、合目的的な行為であるはずのものを自己目的化していく「現代の社会機構」というものの力によるものだろう。
 
 一人ひとりがはまりにはまったキャスティングと影を強調しつつ強烈な横からのライトに美しく浮かび上がる女優たちの顔。それぞれの思惑や心理の綾をこまやかに描き分けながら意外性に富む展開を見せるシナリオと横長のシネマスコープの画面を逆手にとって構成された機知に富む美しい構図。それらを束ねて洒脱な一本に仕上げた職人芸と才気あふれる演出。

 名匠の愛すべき一本。


http://film.guardian.co.uk/obituaries/0,,2256229,00.html?gusrc=rss&feed=fromtheguardian#article_continue
http://www.guardian.co.uk/world/2002/aug/06/japan.edinburgh02
http://www.nytimes.com/2008/02/14/movies/14ichikawa.html?_r=1&partner=rssnyt&emc=rss&oref=slogin
 

 
 


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