アウシュヴィッツの残りの者―証人たち―は、死者でもなければ、生き残った者でもなく、沈んでしまった者でもなければ、救いあげられた者でもなく、かれらのあいだにあって残っているものである。
『アウシュヴィッツの残りのもの』は、著者自身の言葉によれば、アウシュヴィッツ収容所で生き残った人々の「証言の終わりのない注釈」として、「アウシュヴィッツの流儀で証明されたエチカ」として構想されているという。
秀逸なミシェル・フーコー論としても読める本書の中でアガンベンは、アウシュヴィッツの経験をフーコーの「生政治」の概念を用いて読み直すと同時に、フーコーの「言表における脱主体化された主体」をアウシュヴィッツの「証人」たちの言説を通じて問い直しながら、アウシュヴィッツを、「言語を絶する理解不可能」な出来事の領域に押しやるのではなく、「恥じることなく名状しがたいものを凝視」することによって、その意味を明らかにしていこうとする。
いうまでもなく、ここでいう「証人」とは、ラテン語の”testis”、すなわち裁判や訴訟において第三者の立場に立つ者の意味ではなく、”supersics”、すなわち何かを体験したり、何らかの出来事を最後まで生き抜いた生存者であるがゆえに、それについて証言しうる者という意味だ。こうした「証人」のひとり、プリモ・レーヴィによれば、アウシュヴィッツに関する数多くの「証言」には実は重大な欠落があるという。「生と死の境に住む人々」、「いっさいの気力を奪われ底に触れた者たち」、完全な人間性の破壊によって言葉すらも失ってしまった人々、すなわち収容所内の隠語で「回教徒」と呼ばれていた人々の「証言」がそれだ。
アガンベンは、レーヴィが遺した二つのパラドックス、「回教徒こそが完全な証人である」と「人間は人間のあとも生き残る者である」の解読を通じて、「証言」の生起する場=非-場所を、「生にして死の空間」である収容所を成立させる(そして、フーコーによれば、近代の政治システムを特徴づける様態である)「生政治」の機構を、さらに自己喪失とそれが端緒を開くさまよいのうちに存在する人間の姿を浮かび上がらせていき、後半の表題にもある「残りのもの」の考察に読者を導いていく。
残っているものとしての言語とはなんだろうか。どのようにして言語は、主体のあとに、そしてまたその言語を話していた人々のあとにさえも、生き残ることができるのだろうか。残っている言語で話すこととは、なにを意味するのだろうか。
レーヴィのパラドックスを分析しつつ、生政治と生の倫理を問い直してきたアガンベンは、最後にレーヴィが指摘したアウシュヴィッツについての「証言」の欠落を補い、完全なものにするもの、レーヴィの二つのパラドックスが正当なものであることを証明するものを取り上げる。レーヴィの死後にまとめられた論文集に収められた、かつて「回教徒」であった人々の「証言」、すなわちアウシュヴィッツの「残りのもの」としての「声」だ。この「声」に語らせることで本書が締めくくられることで、胸苦しさを感じさせるテーマをめぐるこの繊細にして稠密な思考の読後に一点の希望の灯を点す。それが本書の中ほどに記された次の一節と呼応していることはいうまでもない。
人間的なものについて真に証言するのが人間性が破壊された者だけであるとすれば、このことが意味するのは・・・・人間的なものを完全に破戒するのは不可能性であること、常にまだ何かが残っているということである。証人とはその残りのもののことなのである。
2003/03/06
ジョルジョ・アガンベン『アウシュヴィッツの残りのもの』 (上村忠男・広石正和訳、月曜社:2001.9)
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