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ウディ・アレン『セレブリティ』

2007-01-21 20:18:59 | 映画
セレブリティ    CELEBRITY
(アメリカ・1998・114min) 

 監督:ウディ・アレン
 製作:ジーン・ドゥーマニアン
 製作指揮:J・E・ボーケア
 脚本:ウディ・アレン
 撮影:スヴェン・ニクヴィスト
 出演:ケネス・ブラナー、ジュディ・デイヴィス、
     ジョー・マンテーニャ、ウィノナ・ライダー 他

 空疎な饒舌と過剰な自意識によってひたすら空回りする神経症的な男女。彼らの離婚後を(男の方に主軸を置きながらも)交互に、ときに交錯させつつ多彩なエピソードを絡めて描いていく。

 ウディ・アレンの狙いはセレブリティたちの実態をいささか誇張しつつ茶化してみせるということにはないだろう。(それならばタイトルも複数形になっていたのではなかろうか?)
 ポイントはスクリーン上に映し出されるものと映し出されないものとの関係にあると思う。つまり劇中、幾度も主人公が脚本や小説を執筆していることを本人や周囲の人物たちが語っているにも関わらず、画面の中に描かれているのは、彼が脚本を売り込もうとしてはスターたちの狂態に振り回されたり、作家や出版業界人との空疎な会話に曖昧に相槌を打ったり、それらと並行して描かれる三人の女性たちとの関係であったりで、彼がタイプライターに向かって執筆する場面を見ることはない。彼が書く場面は彼が芸能記者として取材メモをとる場面だけだった。唯一タイプライターの前に座っているシーンでは白紙の束を持って、恋人の編集者に小説の構想を話しているだけだった。


 ここで描かれているのは、これまで見たことのあるウディ・アレンの映画のすべてがそうであったように、ジジェク(『イデオロギーの崇高な対象』)や、それを援用した大澤真幸(『電子メディア論』)が『ボギー!俺も男だ』の分析を通じて論じていたセルフ・アイデンティティの獲得をめぐる悲喜劇のヴァリエーションでしかない。
 つまり映画『セレブリティ』の主人公は、主体の現実(現在)との距離において、その理想性を確保する超越的他者(象徴界の大文字の他者)を、主体との類似性を持つがゆえに模倣可能な内在的他者(想像界の他者)として理想化しようとして、言い換えれば届きえぬものを模倣の対象として理想化しようとして人生に失敗しているということになる。(*1)それゆえ彼にとっての理想の自己像(セレブリティとして他者から扱われる自己)に至るためのプロセスである脚本や小説の執筆の描写はなされない。

 映画の結末はけっこう苦いものがある。
 彼が収まりたいと思っていた場所には(身近な)別の人間が次々と収まっていったことが登場人物の一人の口から語られたあと、彼は映画の試写会に向かう。そこで、模倣不可能と思いこんでいたものへの同一化を果たすことで、セルフ・アイデンティティを獲得した、つまり自分が自分にとって好ましい存在として現れるようになった元妻と再会する。やがて映画が円環をなすように閉じていくとき、カメラは元妻とその新しい夫より低い位置でもある、試写会の会場の最前列でうつろな表情でスクリーンを仰ぎ見る主人公の姿を捉える。そのときスクリーンは、彼の心の中を映し出す。

 少し時間ができたので、ウディ・アレンの映画をこの作品を含めて三本見た。他の二本は『カイロの紫のバラ』と『ギター弾きの恋』。ウディ・アレンの映画は、基本的にどんな映画を下敷きにしていても、テーマ自体は変わらない。



 注記
*1 大澤真幸の議論を要約すると、セルフ・アイデンティティの獲得とは、自己の理想とする内在的な他者への同一化と内在的な他者の理想性を保証する超越的な他者の視点を自分の中に固有化することによってなされる、ということになる。

 2007.6.16 コメント欄より移動







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