冒頭、スローターダイクはジャン・パウルの「本というのは友人に宛てた分厚い手紙である」という言葉を引用しながら、哲学の歴史を、古代から現代へと時代を超えて連綿と続く<手紙>、それも宛名のない、受取り人の定かではない<手紙>としての書物が人と人とを結び付けていく「遠隔操作術( actio in distans )」の歴史として捉える。この後世への<郵便的>な<友愛>の身振りは西欧の人文主義の伝統と国民( Nation )の幻想を支えてきたが、マス・メディアの発達によって書物というメディアが局留め郵便物のように可能なる<友人たち>に対する発送物であることを停止し、人文主義者たちが今や古文書館の職員に取って代わられてしまっている今日の大衆化された社会においては無効になってしまったと説き、とりわけ「学校・教養モデルとしての近代人文主義の時代は終焉した」と宣言する。
しかも、こうした人文主義的教養の起源を古代ローマにまで遡り、そこから円形競技場の血なまぐさい娯楽に興じる人間の獣性との対比において、人文主義の本質をこうした人間の獣性を飼い馴らす技術であると定義する。この挑発的な言辞が切り開くポスト・ヒューマニズム的な思考空間は、アリストテレス以来の「精神的な付加物によって拡張された動物性( Animalitas )」という視点から出発する人間観の捉え直しにつながるのだとスローターダイクは言う。
ハイデガーの存在論思想に倣って、人間的なものの存在の仕方が持つ動物や植物のそれとの根源的な差異、この存在論的な差異に目を向けようとするスローターダイクは、言語を「存在の家」とし、その「存在の家」の中に住んでいる人間を「存在の真理の番をしながら、その存在の真理に帰属」し、そのことを通じて実存する者、とするハイデガーの定式をひとまず受け入れた上でさらに吟味する。
すると、この存在の明るみとして理解された人間もまた、飼い馴らしと友愛化に引きずり込まれていると見なされる。しかも「存在それ自体から語られるべきものとして課せられているものに、待ち受けつつ耳を澄ませる」がゆえに、人文主義的な脱野獣化作用にも増して、飼い馴らされる。つまり、ここでは古典的な人文主義における人間を他者の言葉と「友愛化」させる機能を、「教育的な領域から存在論的な思慮」に移し替えることで、ハイデガーは単なる「良き読者」ではなく、「隷従的=傾聴的な読者」を求めているからだ、と。このようなハイデガーの存在論の持つある種秘教的なものへとつながる面は批判しつつも、スローターダイクはそれが開示する「人間としての自己を中心点から引き摺りおろすに至った人間たち」の「存在論的謙遜の実践」からなる社会のヴィジョン、あるいはヒューマニズム自体の戦闘性に対する徹底的な批判、「人間飼い馴らし学校としてのヒューマズムが挫折した」あとの人間の形成=自己の飼い馴らしの思考の可能性を評価する。
そして考える獣から考える人間のプロセスを把握するために、このハイデガーの存在論の圏域からやがては相互に収斂し合う二つの「明るみの歴史」へと議論は進められる。一つは、「人間が世界に対して開かれ、世界に耐えられる動物になることができた放下性の自然史」。そして、もう一つは「飼い馴らしの社会史」。
前者では、人化、すなわち生物学的誕生から"世界に到来する=誕生する"ことに向かっての飛躍と、それと同時になされる環境世界から「存在の家」への「引越し=入り込み」の意味が問われる。スローターダイクは、ハイデガーを踏まえて、人間が"世界に到来する"ことを"言語に到来すること"と捉えるが、一方で、まさにこの「明るみの歴史」において、人間が自らの住処(言語だけでなく定住する家も含む)によって飼い馴らされることも意味するという。ここから後者、つまり人間の「飼い馴らしの歴史」を通じて、「決定と選別の場」としての「明るみ」の解明へと向かう。
この時、ニーチェの「飼い馴らし、飼育する暴力としての人間」についての思考が召喚される。そしてスローターダイクは、ニーチェ/ツァラトゥストラとともに、人間の人間による家畜化、無害さの方向への育種の技術であるにも関わらず、自らを無害なものと位置づける人文主義の地平を粉砕し、その背後のもう一つの地平を示唆する。
神々が人間を人間とする=育種することの任務を人間自身に譲り渡して既に久しい。いわば(「動物園」ならぬ)「人間園の営業の規則」たるプラトン以来の政治に関する哲学的言説の歴史は、それがエクリチュールの文化に属するゆえに、そこに「選別」の思考を内包し、その実践は生-政治という形態をとる。今や遺伝子操作という新たな「選別」と「育種」の手段を手に入れた人間(の飼い馴らしの)技術が、誕生の前の選別、"原像に近い人間の範型を体系的に"育種-飼育する可能性についても示唆する。ただし「人間たちが罪を犯さない方向を選ぼうとすれば、自らが事実上獲得してしまった選別の力の行使をはっきりと拒絶し続けるしかない」、と付け加えているのだが、こうした議論に進むのは軽率というか、端的にいって勇み足だろう。
スローターダイクのヒューマニズム批判は、ヒューマニズム(人文主義)の根源にある人間の飼育と調教という暴力性へ向けられているというより、その暴力性から目を背け続けてきた欺瞞への告発ということになるだろう。ただし、ヒューマニズムが無効となったとして、「例外なき自制心の喪失の波がとどまるところを知らず」拡がりつつ、「野獣化する傾向と飼い馴らす傾向」の闘争の場となっている現代の大衆社会に対して、スローターダイク自身が新たな人間化のプロジェクトの具体像を提案しているわけではない。
『人間園の規則』は、<良識派>を自認する人々に対して、挑発的な言辞が散りばめられているし、議論の厳密さを犠牲にした着想の奔放さゆえ哲学的エセーというスタンスで向かい合うのがよいようだ。それは確かにこの文章の弱さなのだが、一方で様々な興味深い論点がそこかしこで明滅する。たとえば大衆社会論、あるいは大衆社会における知識人論、といった様々な切り口からのアクセスを可能とする。
けれどもこれらの言葉は誰に宛てて書き送られているのだろう?
ペーター・スローターダイク『人間園の規則』(仲正昌樹訳・お茶の水書房・2000)
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