goo blog サービス終了のお知らせ 

ちゅう年マンデーフライデー

ライク・ア・ローリングストーンなブログマガジン「マンフラ」

恋の罪」(園子温監督) 思わせぶりなタイトルに艶やかな蛾のように群がる女たち

2011年11月18日 | 映画
 園子温監督「恋の罪」を観た。

「恋の罪」などという思わせぶりなタイトルに、それが話題の監督園子温ならさぞかし女性の情感を巧みに描いてくれるのだろうと思っているのか、あるいはおそらくはじめて観るだろうR18+の映画という設定も、少し冒険してみたい気分と共振するからなのか、テアトル新宿の座席は満席で、しかも三分の一強は女性で占められていた。まるでネオンに群がる艶やかな蛾のようであり、それはそれで製作者のねらいどおりだったのかもしれない。だが、すでに日活ロマンポルノを体験している者にとっては、「恋の罪」はその延長線上の映画にすぎないし、何でもありのロマンポルノでは、こうしたエログロ・サイコサスペンスも珍しくはなかった。ならば、2時間20分という上映時間は、それだけで何か大作めいてはいるのだが、せいぜい90分にまとめられてしかるべきだろう。

 冒頭の水野美紀の“インモーアル”ヌードにはじまり、主演の神楽坂恵、富樫真の3女優がいずれも裸体・インモーを晒す近頃珍しい映画で、その点は日頃「脱げなきゃ女優ではない」とおっしゃる園監督の面目躍如というところと、喝采を送りたい。だが、ここにはタイトルどおりの恋の罪など描かれていないし、少し日常を変えてみたい、危険な恋もしてみたいくらいの気持ちでこの映画に接した女性は、果たしてどんな思いで映画館を後にしたのかきいてみたいものだ。

 スクリーンに映し出されるのは、男性の性のはけ口としての女体であり、性の喜びとは無縁の裸体と堕落の証しとしてのまぐわい、そして無残に切り刻まれ腐乱した女性の死体である。夫の後輩と浮気する女刑事、几帳面な夫に従順に尽くす作家の妻、昼は大学の助教授、夜は円山町の街娼である良家の女、そしてその母、いずれもがいささか劇画チックに描かれ、「服従させ・される」男女関係の中の女として立ち振る舞う。やがてこれは、東電OL殺人事件に着想を得たリアルな物語などではなく、現実を誇張したエログロ・サイコな戯画の体裁をとる極めて観念的な、言葉はいかにして肉体化できるかなどといったテーマを含む観念劇なのだと理解したくなるだろう。思うに富樫真演じる街娼のイメージはバタイユの「マダム・エドワルダ」に着想を得ているのではあるまいか。そしてスクリーンの表層にうごめく裸体など、実はどうでもよく、言葉として語られる「城」、決して行きつけない、周縁をまわり続けるしかない城に象徴されるもの、それが何かは分からないが、おそらくそういうものをこの映画のテーマにしたいのだろう。70年代風に言えば、都市の聖なる空間である皇居という「城」に、俗の象徴である円山町のアパートの「城」を対峙させ、現代の虚無を描いた物語とでもなるだろうか。
 
 物語は、円山町という都市の異空間の磁力が3人の女を引き寄せながら展開する。フランツ・カフカの「城」が引用され、あたかも円山町、とりわけ廃墟のような安アパートが城であるかのように提示され、3人の女とそれをめぐる男たちが、その周縁をめぐっていく。街娼の女助教授は、毎日、安い料金で男とまぐわい、堕落の底を探る果てしない旅を続けている。そして金銭を介在させることで性は自由を勝ち取ることができると、堕落の入り口にいる作家の妻を堕落の深みへと誘うのである。作家の妻と街娼の女助教授が出会うのは、退屈な日常からAV撮影にかかわったことで女性性に目覚めた作家の妻が、円山町のホテルで地元のポン引きに弄ばれ後悔して彷徨っているときだった。作家の妻にとって、異彩を放つ街娼の女性性を無化するふるまいは驚愕であり、その強力な磁場に引き寄せられるのだった。街娼が向かうのは円山町の廃墟のような安アパートであり、これこそ城であると街娼はいうのである。そして、肉体を無化するまぐわいによって街娼は限りなく自由と虚無を手に入れるのだろう。

 だが、こう読めばまるでダークファンタジーとして成功を収めているかに見えるが、過剰なまでの音楽や演技、使い古されたサイコ・サスペンス的な展開では、到底現代の虚無などにたどりつけない。

 物語のプロットなど通俗的でかまわないとはいえ、あまりに意匠が古すぎる。この物語のコアである、街娼に堕落した女助教授も、父との近親相姦的な関係が示唆され、それに嫉妬し父の血を呪う厳格な母という、結局は家や幼児体験が歪んだ人格をつくり出したという解決の仕方であって、これでは特殊な事情を持つ異常な人間を描いたにすぎなくなってしまう。とりわけその母の異常ぶりによってよくあるサイコ・サスペンスとしての物語が補強され、それはあたかも物語の中心を放棄するふるまいであるかのようだ。だから、本来女助教授の鏡として機能すべき作家の妻の存在が宙に浮く。まだ堕落の入り口にあった作家の妻が、女助教授の堕落ぶりに魅了されるのは、同じ日常性を持っている女性がこうも変化できることへの憧憬があるからだ。だが、単なる異常者では、作家の妻がやがて同じ道を歩んでいくことの必然性へとつながらない。中心が陳腐化することで、中心としての意味を失えば、罪と知りつつSな浮気相手の無理強いを拒否できない女刑事の存在はいったい何なのか。女刑事がこの事件から何を得たのかが全く伝わらない。間に合わなかったゴミ収集車を追いかけたまま失踪してしまった主婦のエピソードをなぞるように、ラストでゴミ収集車を追いかける女刑事がたどりつくのは円山町なのだが、これは女刑事そのものが世界の迷宮に迷い込み、また入口に戻ったという城の物語の表明なのだろうか。少なくとも街娼という非日常を抱えた女が殺されたこととの関係で女刑事の不倫のその後が語られなければ、女刑事の存在そのものがただのサスペンス仕立ての道具にすぎなくなってしまう。

 おもわせぶりなタイトルと同様、港町に流れ着いた作家の妻が港で子供に放尿してみせるシーンの意味は何なのか。妻は、港町の街娼に身をやつすのだが、ショバの仁義を無視してヤクザのリンチにあい、道ばたに寝ころびながら「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」という田村隆一の詩の一節をつぶやいて映画は終わる。

 この映画が着想を得たであろう「東電OL殺人事件」を書いた佐野真一さんの目的は、犯人に仕立てられたゴビンダさん救済だったが、当然ながら殺されたOLの心の闇に迫ろうとした。しかし、あまりの闇の深さにたじろぎながらも、安易にその理由を家庭環境に求めて解決しようとしなかった。それを思うとこの映画の陳腐な解決の仕方は、カフカの城も田村隆一の詩も、単なる思わせぶりな装置や道具にしか感じられないのだった。

「海炭市叙景」「マイ・バックページ」「東京公園」という日本映画について

2011年06月21日 | 映画
 すっかりブログを書かなくなっていた。ツイッターが気楽でいいからだ。フェイスブックは、どちらかというと仕事上のネットワークづくりというか、否応なくそうなっているので、そう積極的に使っていない。ただ、ツイッターにしてもファイスブックにしても、毎日フォロワーからのメッセージやツイートがあるので、それをチェックしていると、なんだかすぐ時間がたってしまう。

 それに、なんといってもツイッターで、「つぶや句」という俳句を始めたのが大きい。毎日「季題」がリツイートされてきて、その季題に合わせて作っていたら、なんだか、自分勝手に作っていた頃よりも、上達したような気分になってきたのだ。そうこうするうちに、そろそろ200句に達する塩梅なのだ。とりあえず年内に1000句めざそうというわけで、毎日17文字をひねっている。

 そんなわけで、なんだか一時夢中で読んでいた西村賢太、佐藤泰志などの小説の類もこのところ停滞気味だ。根気がない。買ったままの文庫本が増えるばかりだ。

 その一方で、映画館には近年になく足を運んでいる。4月から観た映画。封切は、青山真治監督「東京公園」、山下敦弘監督「マイ・バックページ」、マイケル・ウィンターボトム監督「キラー・インサイド・ミー」、アーヴィン・チェン監督「台北の朝、僕は恋をする」、再上映で熊切和嘉監督「海炭市叙景」、名画座は、加藤泰「遊侠一匹」「緋牡丹博徒 花札勝負」、テオ・アンゲロプロス監督「エレニの旅」「蜂の旅人」、エドワード・ヤン監督「ヤンヤン思い出の夏」。多くはないが、できれば週一くらいは映画館に行きたい。

「海炭市~」は小説がよかったので、映画もぜひ見たいと思っていたところ下高井戸シネマにかかっていた。関係者のツイッターに煽られて、さぞや満員ではと思ったのだが、意外や空いていた。

 ロケ地の函館の市民の協力なくしてできなかった映画だが、その志が非常に高いのが、この映画を傑作にしたといってもいい。冒頭のタンカーの進水式もそうだが、市や市民の協力なくしてこんな場面は撮れまいと思うシーンによってこの映画の力強さは支えられている。それは、最近観た「マイ・バックページ」が70年代を描くのにいかにロケ地に苦労していたかがありありとうかがえるのを見れば、なおさらそう思わないわけにはいかない。

 オールロケで、しかも素人の役者を使い、複数のエピソードで構成される物語をクランクインから約一か月で撮ってしまったというのは、今日では奇跡的だろう。熊切監督は、時間や予算もあるだろうが、一つひとつのシークエンスをほぼ固定の長回しで撮り、役者の緊張感ある演技を引き出している。だから観る者はスクリーンにくぎづけになり固唾をのむ。

 冒頭のストライキに入る造船所の労働者たちが赤錆びた造船所の壁を背景に佇むショットは、この映画のすばらしさを予感させた。僕は、小説を読んだときカウリスマキ的世界をイオセリアーニ的長回しでエピソードを関連付けながらつないでいったら面白かろうと思っていた。出来上がった映画は、むしろジャ・ジャンクーを思わせた。

 脚本は、小説をベースにしながらも、映画「海炭市」としての物語を再構築しており、暮れの同じ時間を共有する海炭市に住む複数の人々の身に起こる出来事を描く。終盤、大晦日の路面電車に、登場人物が乗り合わせる場面がある。ここで複数の物語が出会うことになるが、それぞれが自分や家族と向き合うことによって再生していくという物語の骨組みがより鮮明になっていく。この映画が地元の人々の深い愛情に支えられているように、ここに出てくる人たちの誰もが、故郷である海炭市が人生の拠り所になっている。故郷を離れた路面電車の運転手の息子さえも、家には帰らなくてもこの街には帰ってくるのだ。街も人も変貌する。だが、海炭市を通過することによってしか再生できない人々の物語を真正面から描いている。ときどき挿入される海炭市の俯瞰ショット。銀色に輝く海の風景は、津波に襲われた東北の街の俯瞰ショットに似ており、あの津波で流されたのもまた、この映画に出てくるような、問題を抱えながらも再生に向かって生きている人々なのだと思うと涙が出てくるのだった。

 「海炭市~」に比べ、「マイ・バックページ」は、70年代の風景をロケで描くことの難しさを感じさせた映画だった。新聞社や下宿屋、バリケードの廃墟など室内はどうにかなる。屋外は時代劇より難しい。それにしても、いまこの原作を映画化する理由が終始僕には分からなかった。革命を夢想する遅れてきたおちこぼれ青年とその言動に共感してしまうエリート新聞記者。単にCCRの「雨を見たかい」を一緒に歌った(この長回しのシーンはよい)から共感してしまったのか。安田講堂に参加できなかった後ろめたさで、威勢だけはよい革命家気取りの男に、なぜ共感してしまうのか。

 妻夫木は好演しているし、山下監督の演出や近藤カメラマンの撮影も悪くない。だが、物語のプロットがいささか弱い。自衛官殺しの首謀者に対し「彼は思想犯だ」と擁護する(擁護するほかはない)主人公の心情が今の若い人たちに理解できるだろうか。第一、革命家気取りの松山のどこに魅かれるのか。カリスマ性みたいなものが全くない。騙されても仕方ないよなと得心できる部分がない。だから観る側が、松山にも妻夫木にも共感できないのだ。それは原作の悪さだろう。まあ、若い映画人が悪い原作をあたえられちゃったなと同情したくはなる。そもそも、自らの70年代体験を、ボブ・ディランを借りて「マイ・バックページ」などと感傷的なタイトルで総括してしまう時代の気分だけには目が利く原作者に僕は共感できないのだ。

 僕は、山下監督や近藤カメラマンの才能以外に、この映画に見るべき価値があるとすれば、それは、3.11以降、マスコミ周辺に正義の装いをしたペテン師が跋扈していることへの警鐘としてこの映画は機能するかもしれないということだ。「自粛」「被災地のため」「反原発」などを旗印に、市民のうしろめたさ、ルサンチマンを正義へと収斂させていく力こそ、妻夫木が共感してしまったものと同じなのだ。これに加担してはならぬ。

 「海炭市~」も「マイ・バックページ」も自分と向き合うことで再生を試みる映画という点で共通しているように見える。そうした意味で青山真治監督「東京公園」もまた、愛と再生の物語だ。いや、もっと強烈なファンタジーでありゾンビ映画で、それは同じゾンビ映画の黒沢清「東京ソナタ」への青山監督からの返信でもあるのだろう。

 まず、アントニオーニ「欲望」を思い起こしながら観たのだが、カウンターでゲイのマスター宇梶剛士(さりげなくゲイだとわかる仕草が秀逸)と春馬が話す姿を斜め後ろからとらえた場面とか、炬燵で三浦春馬と榮倉奈々が会話する切り替えしショットは、脇に置かれたワインボトルの存在まで、誰もがあの巨匠を感じるはずだ。しかし、これは映画的引用とか先達へのオマージュなどということではなく、青山監督が見ることと見られることによって成り立つ映画というものを主題的にとらえながら、自らも映画と正面から向き合い、そして、複雑な事情のある男女の物語を、正面から見つめ・見つめられることによって再生していく愛の物語として、映画にどう構築するかということの答えなのだ。

 アンモナイトの渦と地図上にポイントされる東京の公園の渦、その表層的なイメージは、榮倉奈々、小西真奈美、井川遥という3人の女優の丸い顔につらなって、心地よく画面に収まる。幼馴染でもある榮倉から義理の姉の小西真奈美の愛情を告白された春馬が、直接小西を訪ねその気持ちを確認するシーンは、観る側はその姉の気持ちを知っているだけに、ヒチコックのサスペンスを観るようなわくわく感で春馬がどう向き合うのかと期待する。

 春馬は姉を撮影することでレンズ越しにその心をはかろうとする。食事を終えると小西真奈美が髪をとき、初めて正面から向き合う。「黒い姉さん」とつぶやきながらレンズを向けると、その髪がみるみる黒さを増し、愛の神が降臨したかのようにその強い瞳の力に観る者は圧倒される。それほほどの、愛の光線を放つのだ。やがてソファの上でまたがるように姉にレンズを向ける春馬が姉から離れようとすると、そこに小西真奈美が手を添え、二人はみつめあう。春馬が姉の位置まで腰を屈め、長く見つめあった後、やがて二人は抱き合い、唇を寄せる。最初は軽くぎこちなく、そして深く。やや後ろからワンショットでとらえたこの長いキスシーンは、そのまま二人の思いが共鳴しあう過程をとらえたすばらしいシーンで、映画とはド派手なアクションなどなくても躍動をとらえることができることを証明してみせる。その胸の高まりに息がつまりそうになるくらい感動的な場面なのだ。小西真奈美がすばらしい。井川遥はただ歩くだけ、微笑むだけなのだが、これが美しい。榮倉奈々の丸顔に反してよく伸びた四肢と快活な動き、シネフィルとしてのセリフ回し、とりわけ「瞼の母だよ。加藤泰だよ」なんていわせるあたりがいいではないか。女優の存在感が際立った映画なのだった。

 「海炭市」も「東京公園」も低予算の映画だろう。どちらも短期間で撮られた映画らしい。いまさらながら、金がなくてもよい映画は撮れる。しかし誰かが観なければ映画は成立しない。せっせと映画館へ足を運ぼう。

CG最新、セット70年代並の実写版「ヤマト」。エコへの殉死讃歌、いまどき身捨つるほどの地球などありや。

2010年12月07日 | 映画
 実写版「ヤマト」を観る。スペースオペラと銘打たれたかつてのSFアニメが、山崎貴の監督による実写でどのように再現されるのか、そんな興味から劇場に足を運んだ。アニメ「ヤマト」はほとんど観たことがないので、ストーリーも知らない。松本零士が絵を描いていたとかテーマソングくらいは知っている。その程度だ。

 「ALWAYS」で評価された白組のCG技術は、確かに高い技術力を見せているようだ。宇宙空間でのバトルシーンは、もはや「スターウォーズ」でおなじみとはいえ、それなりにスピード感はある。だが、船内のセット、衣装などは、なんとも1970年代的で、TVのウルトラマンを思わせるレトロぶりなのだ。2199年(いまから200年も先の時代だぞ)のデザインやインテリアではないだろうよ。2199年という時代に対する世界観とか創造力が圧倒的に欠け過ぎていないか、この映画は。エロチシズムも感じられない。黒木メイサのボディスーツはもっとボディコンシャスでなければならぬ。

 脚本も悪い。大義のための死が、犠牲的精神として賞揚される、この映画全体を貫く思想はあまりにアナクロで反動的、安易なメロドラマというしかない。ヤマトを守るため仲間を自らの手で犠牲にしなければならなかった黒木メイサとキムタクは、葛藤しながらも、ここでも大義のために正しかったと結論付け、さらにはお互いを慰めあうように抱擁し、二人のまぐわいを連想させてそのシーンは終わる。二人がここでまぐわったことは、メイサをママと呼ぶ子がラストに登場することで想像されるのだが、このまぐわいはあまりにノーテンキ過ぎるだろう。大義のためとはいえ見方を殺したあとだぞ。

 ことほど左様に、この映画はご都合主義に満ち溢れているのだが、テーマは、美しい地球と人類を守ること。「生きて還る」がスローガンになっているが、この大義のために死を賭して若者たちがドンドコ死んでいく。挙句にヤマトは特攻する始末。エコ・ファシズムと殉死の讃歌だ。大義への忠誠と殉死。これこそ、ファシズムとスターリニズムだ。製作のTBSはジャーナリズムの一翼を担う機関として、何故にこのような反動的な物語を、いま社会に発信する必要があったのか。「1945年戦艦大和が死を覚悟で国民を守るために出航したようにわれわれも地球を守るために云々」といったセリフがあったけれど、この戦艦一隻のためにどれほど国費と人命が浪費されたことか。こんなセリフは不要だろう。監督の山崎貴は才能のある人だと思う。もっと別の企画で発揮してほしいと切に願う。

「映画芸術」に刺激されて私の性愛映画ベスト10を作ってみる。

2010年11月22日 | 映画
 久々に「映画芸術」を買う。1,500円なり。小川徹編集時代の「映芸」はエロとやくざとアートな映画の解放区であり、本のつくりは全く雑だけれど、左翼、右翼入り乱れた批評の熱気とパワーに魅力があり、毎月欠かさず買っていた。欧米におけるポルノ解禁の流れの中で、猥褻論議や、ヘア・本番論争が喧しかった時代だが、常にその論議の主戦場になっていたのが「映芸」だった。日活ロマンポルノ全盛の時代、巻頭のエロなグラビアも学生の股間を刺激していたものだ。1年間のベスト、ワーストを決める特集は、ベストのプラスポイントからワーストのマイナスポイントを引いてベストテンを決めていた(これは今も伝統として継承されている)のが画期的だった。多様な論客による批評の多様性を保ちつつも選ばれた映画は、他の映画雑誌とは一線を画していた。「ルシアンの青春」のシナリオが翻訳されて掲載されたが、その日本語が広島弁になっていたのは笑った。これまた「仁義なき戦い」がヒットしていた時代のご愛嬌だ。

 東映実録路線やロマンポルノが衰退するとともに、そして東西冷戦の終焉とともに「映芸」のパワーも低下し、僕自身の興味も、映画雑誌でいえば「イメージフォーラム」などへ移行していった。その後「映芸」も休刊になり、季刊として復活したわけだが、現在の荒井晴彦編集の「映芸」は業界誌的な色彩が濃く、どうも1,500円を出してまで買う気にならなかった。

 今回買う気になったのは、「映芸」のツイッターを読んで、「映芸」頑張っているじゃないかと思ったのと、私の映画歴みたいな企画で「性愛映画」を特集していたからだ。エロなくして「映芸」はない。いわゆる女の裸が、エロとは程遠い、ネットで堂々と展開されるAVの局部画像、本番(昭和風に言えば)画像に収斂され、映画、映画館、テレビからもエロが消えている時代だからこそ、「映芸」にはエロについてもっと論陣をはってほしいのだ。まあ、季刊雑誌でエロばっかりやっているわけにはいかんだろうけど、欲望が管理され、抑圧されたエロへのエネルギーが、無差別殺人などの犯罪へ向かう時代だからこそ、映像、映画におけるエロが追究されるべきだと思うのだ。もっとエロが解放されない限り、時代の閉塞感や鬱屈した負のエネルギーは解放されないだろう。なんて、まあ、僕のエロへの意識の広がりには、多分に「映芸」が寄与した部分があるので、こんなことをつぶやいてみたくなったわけだ。

 それで、僕自身の「性愛映画」ベスト10を考えてみた。順位は関係ないけれど。性愛映画とは、性と愛の映画ではなく、エロいと感じた映画、情欲を刺激された映画という意味だ。とりあえず日本映画。かならずしも封切時期と観た時期が一致しているわけではないが、小学生から大学にかけて観たものでエロへの意識を広げてくれたものだ。

1.「一心太助」(沢島忠監督・中村錦之介/1961年)
  シリーズのうち「家光と彦佐と一心太助」だったと思う。小学生の時、錦之介の真っ白な股ひきにもやっと気もちになった。
2.「続・おんな番外地」(小西通男・緑魔子/1966年)
  中学のときビートルズの「ヤー・ヤー・ヤー!」とどちらを観るか迷って緑魔子を選んだ。題名が分からなかったが、今井健二と田中春夫がいやらしかったのを記憶しておりこれと判明。緑魔子は顔がエロい。
3.「雪夫人絵図」(溝口健二・木暮実千代/1950年)
  観たのは大学時代。最近改めて観て、エロの極致と思った。木暮実千代は存在そのものがエロ。サディスティックな溝口の演出。
4.「愛の渇き」(蔵原惟繕・浅丘ルリ子/1967年)
  中学のとき新聞広告でルリ子の官能的な表情に刺激された。中身を観たのは大学になって。映画を観ずにエロを感じた映画。
5.「日本昆虫記」(今村昌平・左幸子/1963年)
  これも同じ、映画の看板で、タイトルと写真にエロを感じた1作。実際に見たのは高校のとき新宿の名画座だったと思う。今村の映画では、エロは春川ますみに尽きる。
6.「でんきくらげ」(増村保造・渥美マリ/1970年)
  私の性愛映画ベスト1。なんといっても渥美マリだ。顔も体つきもエロ。高校生の股間を刺激してやまなかった。
7.「狂走情死考」(若松孝二・武藤洋子/1969年)
  高校のとき初めて観たピンク映画。学生服の襟を中に入れて背広のようにしてチケットを買った。もぎりのばあさんは何も言わなかった。「もぎりの私」。大きなスクリーンで男と女が馬鍬っているその姿にいたく感動した。
8.「実録・阿部定」(田中登・宮下順子/1975年)
  大学時代はロマンポルノ全盛期。いろいろあるがあえてこの1作。そもそも阿部定の物語は小学校のとき聞いたそのエピソードとともに、僕のエロへの道を開眼させたと思う。吉蔵役の江角英明がよかった。松林かどこかで立位をやや低いアングルで  とらえたカメラが秀逸だった。
9.「温泉こんにゃく芸者」(中島貞夫・女屋美和子/1970年)
  この秀逸なタイトルをもってベスト10の一角におくべき1作と思う。こんにゃくの効用については、山上たつひこ「新喜劇思想体系」を読むべし。このころの東映エロ路線は相当アナーキーだった。松井康子がエロ。
10.「眠狂四郎・魔性剣」(安田公義・嵯峨美智子/1965年)
  「眠狂四郎」シリーズは、ちょっとエロいシーンが必ずある時代劇だったが、嵯峨美智子が出ているのでこの1作を推す。この人は目、唇、しぐさ、すべてがエロい。

 洋画では、ブニュエルとドヌーヴの「昼顔」がベスト1。双璧はベルトリッチ「暗殺の森」のドミニク・サンダ。マルコ・フェレーリ監督の「女王蜂」、「007 ロシアより愛をこめて」のダニエラ・ビアンキ、「バイバイ・バーディ」のアン・マーグレット、「恋するガリア」のミレーユ・ダルクが中学時代。そして、アニエス・ヴァルダ「幸福」は、中学の時、「サウンド・オブ・ミュージック」と併映でかかっていて、マリー・フランソワ・ボワイエの露わな乳首に興奮した。

 なんだか、私はいかにして性に目覚めたかみたい映画遍歴になってしまったが、洋画編もそのうちしっかりまとめてみよう。

 

松方の殺陣あっぱれ、吾郎ちゃんの今後をちょっと心配した「十三人の刺客」

2010年10月04日 | 映画
 三池崇史監督「十三人の刺客」をわが街の、いつも空いている映画館で観る。封切間もなくでいつになく入りはよかったが、楽々鑑賞。若い女性客もそこそこいて、これは吾郎ファンなのかどうか。

 工藤栄一監督版のリメイクだが、むしろ、ペキンパーの「ワイルドバンチ」をやりたかったのではないかと思った。工藤版は明石藩士53人対13人の戦闘。三池版では、刺客側は、最初170と踏んでいたが、敵が増員し230人に、これを待ち伏せのしかけで130人までに減らし、ほぼ130対13の戦闘となる。工藤版は、江戸末期の武士が刀を使わなくなった時代の戦闘をリアルに描くという、「七人の侍」のリアリズム風時代劇の発展系だった。その路線を継承しつつ「ワイルドバンチ」的皆殺し(四肢と舌を変態殿様にもぎ取られた女が口にくわえた筆で書き記した文字も「みなごろし」だ)を再現し、より激しいアクションを追求するなら、これはもはや増員しかあるまいとこの数字になったのだろう。しかし、考えてみれば、一人10人倒せば、130人は倒せるのだ。座頭市は数秒で10人を倒す。ならば、この数字、時代劇上は不可能ではない。工藤版と一線を画すなら、目標一人10人といった130人を倒すプランと、13人のそのさばき方を見せた方が面白かった。そもそも、松方弘樹などは、東映時代劇伝統の流麗なる殺陣で、この映画の見所のひとつではあるが、これはもう一人で50人くらいは倒しているのではないか。かつての東映時代劇だと、一度倒れた侍が、再び刀を振り回しているゾンビ的復活はよくあったので、たぶん、敵は300人くらいいたのだろう。それにしても松明を背負って疾駆する猛牛のCGには失笑。

 後半のほとんどを割いた長い戦闘シーン。まだ終わらないのと、あらかじめ時間が決められたプロレスを観るような気分であった。太平な時代に剣を使ったことのない侍たちのリアルな戦闘は、血まみれ汗まみれ泥だらけというイメージにこだわりすぎたのか、その長さは、活劇の醍醐味より冗長されたアクションのみが垂れ流されるだけになった。吾郎ちゃん演じる変態お殿様は、「今日が生きていて一番楽しかった」と、さながらアメリカのネオコンのように退屈な平和の時代を嘲笑うのだが、観ている方がいささか退屈になってしまったのだった。

 それにしても稲垣吾郎は、というかジャニーズがこんな役をよく引き受けたものだ。工藤版の菅貫太郎が同じような役を続けたように、アンソニー・パーキンスが「サイコ」のゲイツ役から逃れられなかったように、吾郎ちゃんはほかのキャラクターができなくなってしまうのではと。まあ、マンフラが心配するこっちゃないけどね。

 三池監督の作品を映画館で観るのは初めてだった。WOWOWなどでは、何本か観たが、この人が鬼才といわれる所以がよく分からなかった。映画における目新しさや奇行を目指している人なのかと思う。前半の抑制の効いた照明とローアングルな室内シーン、戦闘の舞台となる坂道に作られた木曽宿のセットのなどは、悪くない。某監督の藤沢周平もの時代劇よりはるかに良いと感じたのだが、目新しさや過激、暴力的であろうとしないほうがよいのではないか。この監督がおすすめのDVD10枚に、意外にもオルミの「木靴の樹」が入っており、「長くて退屈でもよい映画」とのコメントがついていた。新しさを求めた退屈な映画は最悪だ。

ヤクザコント集「アウトレイジ」は北野版「仁義なき戦い」だ。

2010年07月07日 | 映画
 北野武監督「アウトレイジ」を、新宿歌舞伎町のミラノ1で観る。この映画を観るならやはり歌舞伎町だろう。ミラノ座は入れ替えなしなのがうれしい。早めに行ってしまったので後半30分をまず観て、その後フルで観た。この結末は、知っていても観る楽しみを阻害はしない。

 タケシ演じる組織下層の組長大友が主役といえば主役だが、むしろ主役のいない群像劇だ。「仁義なき戦い」と「ゴッドファーザー」の抗争劇部分を合わせた、まさに仁義なき現代ヤクザ映画。鈴木慶一の音楽も北野版「仁義なき戦い」というにふさわしいアンダンテ。最後に笑うのは誰かより、誰がどう裏切り、どう殺すかが映画の推進力になっている。

 北野映画の基本はコントだ。「アウトレイジ」はいわばヤクザコント集だ。その連続でストーリーが展開されるが、これだけ抗争と殺しのコント(ヤクザ社会の人間関係そのものがコントという意味で)が続くと、いささか飽きる。しかも、凄惨な殺しのシーンも含め、結構、タケシのお笑いで観たパターンだからだ。それは、ヤクザ社会、あるいは日本の社会の構造がお笑いコントと表裏にあるから成り立つのだが、これもやりたいあれもやりたいうちに盛りだくさんになってしまったのは、芸人ビートたけしのサービス精神なのか。一足先に逃亡する大友の情婦板谷由夏との別れ際、黒のワンピを着ている板谷に「なんだもう葬式の準備か」と自嘲気味におどけてみせるくさいシーン。おまけに北野映画には珍しくセックスシーン(「その男凶暴につき」でシャブ漬けにされた妹が犯されるシーン以来か)まである。そもそも、ボッタクリバーのホステス、高級娼婦、ヤクザの情婦など、女性は出てくるが、これほど女性が映画的な役割をもたない映画も珍しい。

 キャストは悪くない。なかでも大組織の若頭役の三浦友和が、初めての悪役を演じてなかなかいい。現代劇でも時代劇でも主役ができる80年代の2枚目といった顔立ちだが、年を重ねて渋さと凄みが出てきた。エキセントリックなインテリヤクザ役の加瀬亮も秀逸だ。ヤクザの抗争劇とはいっても日本の社会そのものが「アウトレイジ」化している。そんなわけで、俺もあんなふうにクライアントの嫌な課長だの部長をたたきのめしてやりたいというフツーの人たちの鬱屈した情動を吸収する映画ではある。

多国籍俳優による多言語がサスペンスを生み出す「イングロリアス・バスターズ」

2009年11月30日 | 映画
「イングロリアス・バスターズ」(クエンティン・タランティーノ監督)は、多国籍の俳優が母国語で演技し、その言葉がドラマやサスペンスの鍵になる映画だ。

 封切翌日の土曜の初回だったが、わが街の映画館はみごとに空いていた。ブラピ惨敗か。だが、映画は滅茶苦茶面白い。

 冒頭、のどかな牧場風景に、干したシーツの向こう側からバイクの音が聞こえ、シーツが風になびくと、彼方からサードカーに乗ったナチスの兵隊が近づいてくる。ユダヤ・ハンターと恐れられるランダ大佐たちだ。大佐は慇懃なしぐさで家の中に入り、牛乳を所望し、巧みなフランス語で会話しながら、村にいたユダヤ人家族がどこに行ったかを尋ねる。家主はスペインに逃げたと応える。大佐はユダヤ人をネズミにたとえて、ネズミが家の下を這い回るのは習性だと、ユダヤ人家族がこの家の地下に隠れていることを暗示的に語り、やがてフランス語をドイツ語に切り替えて、家主を恫喝しながらユダヤ人たちに分からないよう白状させ、兵士を招き入れて容赦なく地下に銃弾を浴びせる。ここで、メラニー・ロラン演じるショシャナが家族で唯一生き残り脱出。ユダヤ人少女によるナチスへの復讐劇というこの映画の一つの流れが語られる。この第一章の緊張感はすばらしい。とりわけ、ランダ大佐役のクリストフ・ヴァルツが強烈な存在感を発揮する。ヴァルツはこの映画でドイツ語、英語、フランス語、さらにはイタリア語まで自在に操り、多言語が飛び交うこの映画の中で、ブラピの影を薄くさえしているのだ。

 第二章で主人公レイン中尉役のブラピが登場。ナチス・ハンターのユダヤ人特殊部隊の隊長役で、リー・マービンが生きていたら演じるのがふさわしかろう役どころなのだが、ブラピは、妙に鼻にかかった声でヤンキーヤンキーした英語をしゃべったり、相当つくっているところがおかしい。映画の後半、ナチスのプロパガンダ映画の試写会に進入するためイタリア人映画関係者になりすますのだが、イタリア語は分かるまいと高を括っていると、ランダ大佐はイタリア語も堪能であっさりと悟られてしまうというオチがある。

 ナチス・ハンターの特殊部隊といっても、集められたユダヤ人たちは、鼻が大きくどこかみんな弱々しい、アメリカ映画の典型的なユダヤ人イメージを踏襲しているところが笑わせる。こんな扱い方でいいのと思ってしまうのだが、極めつけは、「ユダヤの熊」と恐れられるイーライ・ロス演じるドノウィッツ軍曹の登場シーン。ためにためて、どんな凶暴な男が出てくるのかと思えば、毛深い大男とはいえ、ごくふつうの男が登場する。「ユダヤの熊」の登場と、さんざんドイツ兵を脅しておいて出てきたのが普通の男なので、たぶん拍子抜けしたドイツ兵は、余裕さえみせて自分の陣地の位置を頑なにしゃべらない。だが、ユダヤの熊が非情な身振りでドイツ兵をバットで撲殺すると、ほかの兵士は恐怖の余りあっさりとげろってしまう。ランダ大佐のイタリア語にしてもこういうオチのたたみかけ方がタランティーノはうまい。

 国籍を問わず全ての登場人物が英語をしゃべるアメリカ映画とは異なり、この映画は、アメリカ人やイギリス人は英語、ドイツ人はドイツ語、フランス人はフランス語をしゃべり、しかもそれぞれの国籍の俳優が演じている。複数の言語が飛び交うヨーロッパという舞台のサスペンスを言葉によってうまく演出していて、イギリス人の特殊部隊がドイツ人女優のレジスタンス、ダイアン・クルーガーと落ち合う酒場のシーンでは、ドイツ軍将校に変装したイギリス人のドイツ語の発音がおかしいと居合わせたゲシュタポが問い詰める。この場面の緊張感もなかなかで、長々としたカード遊びで緊張感を盛り上げ、その果てに、酒を注文する時の3本指の出し方がドイツ人と違うことで変装がばれて、壮絶な銃撃戦になるというのがオチだ。

 この映画の白眉は、ショシャナの映画館でヒトラー、ゲッベルスなどナチスの高官が集まってのプロパガンダ映画の上映シーンだが、爆薬代わりに映画館にあるフィルムを燃やしてナチス首脳部を皆殺しにするという計画が実行される。ナチス映画は、途中でショシャナが自ら撮影したフィルムに切り替わり、ナチスへの呪いのメッセージが劇場にこだまする。これを合図にフィルムに火が放たれ、劇場は一気に火炎に包まれ、スクリーンは焼け落ちるのだが、劇場を満たす煙にショシャナの映像が亡霊のように映し出されるという、ああ、タランティーノはこれがやりたかったのだなと思わず喝采を贈りたくなってしまったのだった。ちなみに、このシーンではヒトラーもゲッベルスもみんな死んでしまうという、歴史を無視した荒唐無稽さで観るものを楽しませる。

 ゲッベルスの情婦役で、日本でもおなじみのジュリー・ドレフュスが妖しい魅力をふりまいている。ショシャナがレストランでゲッベルスと会う場面では、会話と会話の間に、ショシャナの想像イメージとしてゲッベルスと情婦が後背位でまぐわうシーンが唐突に短く挿入される。確かにナチス高官のアモラルな私生活を想像させるショットではあるのだが、これ以外、ゲッベルスと情婦がいちゃいちゃするわけでもなし、サービスショットのつもりなのかどうか、いずれにしろいろいろ楽しめる映画なのだった。

『キネ旬』日本映画ベスト10×マンフラベスト10

2009年11月27日 | 映画
『キネ旬』が別冊で日本映画ベスト10を発表した。新聞記事になっていて1位は「東京物語」だった。「東京物語」は僕も大好きな映画だ。だが、ベストワンかといわれれば、なんといっても僕が生まれた年の映画だ。リアルタイムで観ていない。同時代的に観た映画の力にはかなわない。ならば、ほぼ、リアルタイムで観た映画を中心に、日本映画マンフラベスト10を並べてみようと思った。そんなわけで監督は、小津も溝口も成瀬も黒沢もいないベスト10になった。とりあえずの順番に意味はない。日本映画というとかの4人がやけにもてはやされるが、この多様性こそ日本映画のすばらしさだ。

①「喜劇・ああ軍歌」(1970/監督:前田陽一)
 快作にして傑作。賽銭箱に忍び込み「ああ銭冷えする」というくだりが秀逸。
②「新宿泥棒日記」(1969/監督:大島渚)
 人を扇動する映画。この映画に刺激されて「アンドレ・ブルトン選集」を本屋で万引きしたとかしないとか。
③「けんかえれじい」(1966/監督:鈴木清順)
 ほぼリアルタイム。麒六ちゃんのポコチンピアノ、浅野順子の美少女ぶり。
④「戒厳令」(1973/監督:吉田喜重)
 「けんかえれじい」で駅の待合室にいた北一輝は、ここで処刑前に「天皇陛下万歳と叫ぶのか」と聞かれ「私は死ぬ前に冗談は言わない」。新宿ATGの匂い。
⑤「緋牡丹博徒・お竜参上」(1970/監督:加藤泰)
 ここからはプログラム・ピクチャーの傑作・快作。まず愛の映画の傑作。雪の今戸橋のシーンに涙、涙。1970年は次の健さんと共に仁侠映画が頂点を極めたのだ。
⑥「昭和残侠伝・死んで貰います」(1970/監督:マキノ雅弘)
 高倉健、池部良の立ち姿、歩き方の美しさよ。愛も義も俺たちゃ東映映画から学んだ。NHKじゃねーよ。
⑦「兵隊やくざ」(1968/監督:増村保造)
 次の3作は大映プログラム・ピクチャーの傑作シリーズから。このシリーズは1作目のみ増村であとは田中徳三監督。好きなのは8作目「強奪」。八路軍の女将校役の佐藤友美が美しい。
⑧「座頭市の歌が聞こえる」(1966/監督:田中徳三)
 シリーズ13作目。撮影が名手宮川一夫。1作目で平手造酒を演じた天知茂が再び登場。この2つのシリーズはオールナイト、TVの深夜映画でも何度も観たが飽きなかった。恐るべし大映プログラム・ピクチャー!
⑨「眠狂四郎・無頼剣」(1966/監督:三隅研次)
 市川雷蔵の色気を出すのは、三隅や森一生監督がうまかった。「無頼剣」は8作目だが、中だるみどころか、中盤の作品に結構傑作が生まれているところが、大映や東映のすごさだ。
⑩「狂走情死考」(1969/監督:若松孝二)
 警官の兄を殺した学生運動家の弟と兄嫁の北国への逃避行というピンク映画の巨匠としては珍しかったドラマ性の強い映画。もちろん18歳未満入場禁止。高校時代学生服の詰襟を中に折って観にいった。バレバレだったと思うがもぎりのおばちゃんは黙って入れてくれた。学校帰りに観た初めてのピンク映画。この頃は渥美マリが人気で、高校生の股間を刺激して止まなかったのだが、「でんきくらげ」(1970/監督:増村保造)もマンフラベストに入れたいところだ。

これで10本なのだが、もう1本番外で入れたいのは日活のシリーズ。
⑩「紅の流れ星」(1967/監督:舛田利雄)
 渡哲也は無頼シリーズ(監督:小澤啓一)で「哀しみのやくざ」を演じて人気を得るが、たぶん五郎シリーズの1本なのだと思うが、これは白のスーツで赤いMGを乗り回す軽妙でモダーンなやくざ役。ラストは「勝手にしやがれ」をパクッっているのだが、大らかに作ってしまいましたという雰囲気があふれている。浅丘ルリ子、藤竜也、宍戸錠、みんなきざにふるまっているのだけれど、それが決まっていてさすが日活。後の松田優作のキャラクターにつながる快作です。

 こうしてみると60年代後半の日本映画の多様性、それを支えた監督たちの顔ぶれの多彩さに驚く。そしてまだ、この時代は日本映画は豊かだったのだ。

何も起きないアクション映画「リミッツ・オブ・コントロール」

2009年10月16日 | 映画
 イザック・ド・バンコレ演じるほとんどしゃべらない男(lone man)は、決まったようにオープンカフェ(列車のカフェもある)で「ツー・エスプレッソ」を頼むと、やがて「スペイン語は話せるか」と、コードネームをもった男や女がやってきてボクサーが描かれたパッケージのマッチ箱を置き、しばし芸術や宇宙や映画の話をして帰っていく。マッチ箱から紙片を取り出して開くとなにやら暗号らしき文字が書かれており、男はそれを口に入れてエスプレッソで流し込み、次の場所へ移動する。ジム・ジャームッシュ監督の新作「リミッツ・オブ・コントロール」は、基本的にはこのシークエンスが繰り返されるだけの映画だ。そしてジャームッシュらしく主人公はひたすら歩く。

こう描くといかにも退屈そうだが、実際、こんな退屈な映画はないという批評もあるようだが、前作「ブロークン・フラワーズ」のゆるいコメディを期待したむきは、みごと裏切られた気持ちだろう。実際、僕自身も、何かが起きるだろうという期待をもって、さて次の展開はどうなるだろうと見ていると、意外な結末のラスト以外、ほとんど何も起きない。特別なアクションなどないのだが、それでも繰り返される変奏の果てに、「no limits, no control」の文字が画面に現れる、もうそのときにはみごとにこの映画にはまってしまっているのだった。そして、見終わるともう一度見たいという強い欲求にかられるのだ。幕が開いて15分くらいすると事件が起き、その後短いショットで連続的にアクションが繰り返され、見るものを否応なく結末へとせきたてるハリウッド映画といわれているものは、1度見れば2度目はいらないが、この映画は、無限にスクリーンへの欲望を誘うまさに「ノー・リミッツ、ノー・コントロール」な映画なのだ。

男が、マドリッドのすばらしい建築のホテルに着くと、裸の女がベッドに横たわっており、「私のお尻きれい」とたずねる。それはまるで「軽蔑」のバルドーのようなのだが、コードネーム・ヌードを演じるパス・デ・ラ・ウエルタという女優さんがなかなかよい。左のおっぱいだけなぜ下がっているのかがよくわからないけれど。それにしても、コードネーム・ブロンドのティルダ・スイントン、コードネーム・モレキュールの工藤夕貴、この映画に出てくる女優はみんなすばらしい。

映画館を出ると、僕の歩き方は、確実にコードネーム・孤独な男のバンコレになっているのだった。

チンチン電車の女車掌が切るものは?「朗読者」と「愛を読むひと」の間

2009年07月06日 | 映画
 「愛を読むひと」(スティーヴン・ダルドリー監督)を新宿歌舞伎町のオスカーで観た。ここなら必ず空いているとの予測どおりの入りは、まず「アタリ」(映画はハズレ)。学校の体育館のような雰囲気。広さに比べスクリーンが小さい(客も少ない)が、最近の映画館のように上映中明るくないのがいい。昭和の映画館です。

 「愛を読むひと」は、『朗読者』(ベルンハルト・シュリンク著)としてベストセラーになった現代ドイツ文学の映画版。『朗読者』は、日本では2000年に翻訳出版され、いわゆる翻訳文学ブームのさきがけとなった。しかも、ドイツの作家の作品ということで、当時僕もひさびさに現代ドイツ文学を読んだのだった。10年近くたつので、主人公の僕が回想する一人称のスタイルで書かれた小説であること、筆おろしをしてくれた忘れられない年上の女性が実はナチスの戦犯だったというストーリーくらいしか、詳細はもうよく覚えていなかった。

 ドイツ伝統のビルドゥングス・ロマンの形式をとりながら、この小説で主人公が成長して出会うのは、戦後世代はナチスとどう向き合えばよいのかという問題だった。この世代間の問題を21歳離れた年齢の男女の恋愛を設定することで描こうとしたわけだが、著者のシュリンク自身にも、信頼していた教師がナチスの協力者だったという体験があったらしい。世代を超えて体験する「ナチスという過去」は、ドイツ社会では、依然として一人ひとりが負わなければならない十字架のようなものなのだろう。ギュンター・グラスのカミングアウトも記憶に新しいところだが、たぶんシュリンクは、ナチス問題は裁く問題ではなく受容する問題だといいたかったのだと思う。でも、僕は『朗読者』のことはほとんど忘れていたのだった。

 映画「愛を読むひと」として封切られたとき、その原作が『朗読者』であることさえ知らなかった。ポスターの下に原作:『朗読者』とあって、合点がいった次第なのだ。ならば、観てみようと。映画を観て、こんなお話だったかなというのが感想だが、ドイツ人の物語でありながら主人公は、ミヒャエルではなくマイケルと英語読みされてしまうことにはじまり、朗読される書物の文字や音声も当然ながら英語であることに違和感を持ってしまった。前半は、主人公の少年マイケルと21歳年上の女ハンナとの情交が描かれ、もっぱらベッド上の2人のアップ、中盤は法廷でのハンナとそれを傍聴するマイケルの表情のアップ、後半は、朗読をテープに録音するマイケルとそれを聴くハンナのアップというショットの連続で物語が展開される。この展開だけで、いかにこの映画が退屈だか分かろうというものだが、「愛を読むひと」は、ナチスを戦後世代がどう受け入れたかがテーマではなく、熟年になったマイケルの青春時代の清算と再生としての物語なのだった。ナチスという特殊体験ではなく、人生の光と影にアメリカ映画としての普遍性を求めたのだろう。だが、如何せんハンナ役のケイト・ウィンスレットがヌードをみせることくらいしか観るべきものがなかった。(ちゃんとバストトップも見せているのはえらい。最近の日本の有名女優といわれる若手で、しっかり脱げる女優はいるだろうか。40歳後半でも脱いでいたシャロン・ストーンなど見上げたものだ。こういう女優魂を見習ってほしいものだ)

 ケイト・ウィンスレットは、ラファエロ前派の画家ジョン・エヴァレット・ミレーの描く女性のような面立ちをした女優で、美しき土左衛門ことオフィーリアとか、大木に縛りつけられている「遍歴の騎士」の裸婦役をしたらよかろうと思っていた。だから、聖なるものと官能とのアンビバレントな同居を期待していたのだが、老ける特殊メイクにばかり熱心だったようで、これは「ハズレ」だった。

 ハンナは、制服に身を固めた律儀なチンチン電車の女車掌。チンチン電車の女車掌が「切符を切らせてください」というと車内に笑いがおきたという阿部定事件後の逸話をすぐ想起させる。つまり職業としてチェリーボーイの相手役の資格十分なのだが、ウィンスレットは官能性に欠ける。というより36歳の処女のように見えた。では文盲で、戦時中ゲシュタポに就職するくらいしか道がなく収容所の守衛だったハンナは、一体どこで少年に性の手ほどきができるような体験を積んでいたのだろうか。その残滓が見えない。この映画の一つのポイントは制服を「脱ぐ=身につける」という官能性だと思う。「脱ぐ=身につける」行為とその変容をどう描くか、その官能性に観客は、性に溺れていく少年の視点を共有していくことができるのだが、それが見えないのだった。

 ハンナは、少年のありあまるほどの性欲を受け入れながら、これまでの、たぶん禁欲的だった生活の中でひさびさに快楽を味わっただろう。しかし、少年とのセックスは快楽より奉仕ではなかったか。身体で少年に奉仕する代わりに、少年にも、かつて収容所で少女にさせたように「朗読」という奉仕を求める。「今日はセックスが先、本を読むのが先?」という台詞があるように、朗読は性行為の代替行為にほかならない。やがてハンナが裁判で無期懲役となり離れ離れになっても、2人は「朗読=声を聴く」という行為によってしか交歓できない。その変態的な愛のカタチにおいては、もはや実際に対面することに意味はなく、どちらかの死のみが、この愛を成就させるのだ。だから、「朗読=聴く」という行為をどう愛の行為として映像化するか、とりわけ音声と文字をどう扱うかが、この映画のもう一つの見せ場であるはずだが、心理描写といわれる顔の表情の変化をアップでとらえた映像ばかりでは、金のかかったTVドラマにつきあわされたようではないか。