ちゅう年マンデーフライデー

ライク・ア・ローリングストーンなブログマガジン「マンフラ」

かぼちゃの語源はポルトガル語のカンボジャ・アボボラなんだって

2009年08月27日 | マンフラ・ギャラリー
 マンフラ・ギャラリーを開いて図々しくも自分の描いた絵を掲載してしまうことにした。金魚もギャラリーに移動。1作目はミニかぼちゃ、ししとう、イチジク、プチトマト。かぼちゃの語源はカンボジャ・アボボラというのだそうだ。カンボジアの瓜の意味とか。ミニかぼちゃは、そのまま電子レンジで加熱するだけで、おいしく食べられるが、これは、オレンジジュースで煮て、そぼろあんかけにして食べた。イチジクは青臭さとぐちゃぐちゃした食感が好き。
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忍者のように皇居の石垣を除草している職人が見えた「ゴーギャン展」

2009年08月27日 | 絵画
 竹橋の国立近代美術館に「ゴーギャン展」を観にいった。平日なのでそう混んではいなかったが、大作「我々は何処から来たのか。我々は何者か。我々は何処へ行くのか」が初公開とはいえ、約50点の展示ではいささか寂しい。貧困と病気と失意のなかで死を意識しながら描いたというこの大作がメーンになっているせいか、ゴーギャンの暗い一面が表れた作品が多かった。タヒチ時代の作品も「タヒチの女」のような明るい野生の表現よりも、「かぐわしき大地」「何処へ行くの」「タヒチの田園」など、人間の原罪を問うような宗教色の濃い作品が選ばれていたのには何か意図があったのだろうか。母性を感じさせるタヒチの大らかさと鮮やかな色彩は影を潜め、とりわけ晩年の作品を特徴づけるのは赤の喪失であるように思われた。

 会場を出たグッズコーナーには、タヒチ産の黒真珠やら琥珀の装飾品を売るコーナーがあった。見ていると、観光地の土産物屋のおばはんがするセールストークのような売込みをしながら店員の女性(おばはん)が近づいてきたので、「ここは何処?」「我々は何処にいるの?」と自問したくなってしまったのだった。

 常設展示も見ることができる。常設展示の4階には皇居側に向かってガラスばりの休憩室がある。一休みしてボーッとしていると、皇居の石垣を這っている人影が見える。石垣の除草をしている職人さんらしいが、命綱もつけずスイスイと石垣を登り、草を抜き取っている。なるほど、すでに除草が済んだらしい左側の石垣はすっかりきれいになっていて、こんな仕事もあるのかと妙に感心したのだった。

 さて、「我々は何処へ行くのか」、我々は、パレスビル地下のニュートーキョーで、生ビールとフィッシュ&チップスをつまんだのだった。
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快晴の空の下、安曇野ちひろ美術館のデッキチェアで午睡を貪る。

2009年08月26日 | アフター・アワーズ
 ほぼ毎年、夏は安曇野市にでかける。高原らしいさわやかな気候と落ち着きのある村のたたずまい、食べ物もお酒もおいしいのでとても気に入っている。大人が楽しめるレストランや個性的な雑貨類のショップ、美術館などもたくさんある。ちひろ美術館は、日本でも来館者数ベスト5に入るほどの人気と聞いたが、美術館建築としてのすばらしさもさることながら、棟と棟を結ぶ空間にデッキスペースがあって、身体を伸ばしてくつろげるデッキチェアが設置してあるのはありがたい。以前見学した時は、ちひろ絵画そのものにあまり興味がなかったのだが、自分で水彩画など描くようになってみると、その水彩画の色やタッチ、力の抜け方などに感心することしきりだった。とはいえ、前夜に静岡の「磯自慢」という本醸造なのだが、冷やしてとびきりうまい日本酒を飲みすぎて体調は最悪、しばしデッキチェアで横になり、快晴の安曇野の空を仰ぎつつ午睡を貪ったのだった。ちひろ美術館は二日酔者にもやさしい美術館であった。

 その日の夕食は、小体なフレンチレストラン「ラート・ドゥ・ラ・サヴール」。地場の食材をうまく使い、見た目も味もすばらしい粋な料理を出す。家族でその味を堪能し大満足で店を出ると空は満天星。星降る安曇野だ。食後の散歩を気取ろうと思っていたら安曇野の夜道は真っ暗なのだ。ひさびさにほんとうの闇夜体験。しかも帰りの村道は意外と交通量があって、疾駆する車に轢かれないようにしなければならない。家族皆で携帯電話のスイッチを入れ、ハザードランプ替わりにして夜道を恐る恐る帰ってきたのだった。


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ぺんてるの透明水彩絵の具で金魚を描いてみた

2009年08月20日 | マンフラ・ギャラリー
日本画教室がお休みの間に、せっせと練習のために水彩やら顔彩やらを描きためている。かぼちゃ、いちじく、とまとにピーマン、ししとう、りんどうなどを描いた。野菜は描いたあと食べる。なすとししとうの煮びたしが最近のお気に入り。冷えてもうまい。昨日の夜は金魚が描きたくなって、パソコンに画像を映しながらそれをスケッチした。絵の具は、ペンテルの12色の携帯用透明水彩絵の具。もっと水彩っぽくやわらかく、あっさり描きたかったけど、にじみやぼかしがうまくいかない。でも、30分くらいで仕上げ、金魚を描きたいという欲望は満たされたのだった。落款は20年ほど前に亡父が彫ってくれたもの。今夜も練習しよう。
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「奇想の王国・だまし絵」展を観に行ってきた

2009年08月04日 | 絵画
 「奇想の王国・だまし絵展」を渋谷のBunkamuraミュージアムまで観にいく。アルチンボルドの「ルドルフ2世」の肖像をはじめとした古典から、20世紀のマグリット、ダリ、エッシャー、さらに日本の河鍋暁斎、国芳、広重、そして福田繁雄、本城直季などのコンテンポラリー・アートまで、古今東西のだまし絵、トロンプルイユというジャンルの絵画、写真、造形を一堂に集め、なかなか楽しめる展覧会だった。

 夏休みの土曜日の午後とあって入場券を買うのに10分ほど並んだが、館内はそれほどの混雑ではなかった。若いカップルやグループが多いせいか、立ち止まっておしゃべりに夢中になっている輩が多く、そのせいで進路に渋滞が起きる。こちらは、律儀に付き合っている暇はないので、割り込み、逆周りなど、人を押しのけて鑑賞したのだった。絵の中心に円柱形の鏡を置くと、奇怪な文様がキリストの受難を描いた聖画になるとおもいきや、その反対側に男女のまぐわいの図がたち現れるアナモルフォーズ、16世紀のエアハルト・シェーンの横長の判じ絵は、絵に対して斜め30度くらいの横から覗くと、野原で脱糞している男の姿が見えるというものだった。図録(2,200円)の表紙は、「ルドルフ2世」の果物や花の一部が型抜きになっていて、一見フェミニンな装いだが、表紙を開くとグロテスクな「ルドルフ2世」が現れる趣向。アナモルフォーズ用の銀紙もついていて楽しい。

 アルチンボルドの「ルドルフ2世」は、高校の時、澁澤龍彦の本で知ったと思う。澁澤龍彦や種村季弘らが、こうした「奇想の系譜」を熱心に世に紹介していて、いわゆる幻想文学などとともに、夢想する10代後半の私の知的関心の半分を占拠しており、それらは社会に対して強烈な毒を発していた。その毒を浴びることで、精神の開放感を味わっていたのだった。だから、こうしたテーマで展覧会が開かれ、実物にはお目にかかれないだろうと思っていた絵画に、40年も後に出会えたというのは僥倖といってもよいかもしれないが、これらの絵画も、今日においては「奇想」や「毒」というより「ギャグ」として受容されているのだと、はしゃぐ若者の多い会場で感じた。むしろ、やなぎみわや、超美人の日本画家松井冬子の作品こそ奇想の系譜につらなるにふさわしい作家なのではないかと思ったのだった。
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