ちゅう年マンデーフライデー

ライク・ア・ローリングストーンなブログマガジン「マンフラ」

ナッシュビルのスインギーな一夜

2007年06月29日 | アフター・アワーズ
 20年ぶりに旧友に会った。まず銀座の居酒屋で枝豆に中ナマ。その後、老舗のC&Wライヴの店「ナッシュビル」へ。月に1、2回出演している外山喜雄とデキシー・セインツのライヴの日だった。

 客はお年寄りばかり5、6組、われわれも入れて20人に満たなかったが、とてもリラックスした雰囲気の中で、バーボン片手に3ステージ白熱したデキシーランドジャズを堪能した。スイングしながらメロディーを一緒に口ずさむ老婦人などもいてなかなか微笑ましい雰囲気。モダンジャズのライヴハウスとは大分趣が違う。ウエスタンな店の拵えもさることながら、外山さんのサッチモばりのトランペットとヴォーカルは、そのフレージングを聴いていると、古いデキシーランドジャズというよりオーネット・コールマンのような、どこかパンクな味があって、なかなかよかった。トロンボーンは名手粉川忠範さんで、デキシーバンドもやっていようとは。ベースは若いだけあってモダンな響きなのだが、後で知ったことだが巨人軍原監督とは東海大相模高校野球部で同じ釜の飯を食った仲らしい。

 サッチモのレパートリーをはじめ、すばらしいのはリクエストに応えて演奏してしまうこと。まあ、お客も突拍子もない曲はリクエストしないが、僕も調子に乗って、エラ&ルイでおなじみの「チーク・トゥー・チーク」「アラバマに星落ちて」などリクエストしてしまった。最初は「チーク」だけだったので、「アラバマ」がまだだよ、といったら、「アラバマ」はあんまりやったことないんだなー、なんていいながら、泣ける演奏を披露していただき、エンディングでは外山さんがハイノートのカデンツァで、観客と掛け合いをやるなど、リクエストした本人も大満足な演奏でした。

 というわけで、なかなかスインギーな一夜でありました。
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「葉桜の季節に君を想うということ 」を読んであの後のことを思う。

2007年06月18日 | 
 歌野晶午「葉桜の季節に君を想うということ 」(文春文庫)を読んだ。いきなり、射精したあと女の乳など揉みたくない、後戯なんてごめんだという男の独白で始まる。つかみはOKというところか。かくいう私もこの冒頭で読む気になった。そう、確かに射精の後は、こっちが愛撫してもらいたいくらいだ。ただ、この独白も、年齢によるだろうよ。

 交通事故で死んだ資産家の老人の死をめぐってその真相を突き止めるべく、健康器具などの詐欺商法で荒稼ぎする団体に果敢に挑む素人探偵のお話なのだが、本筋のミステリーとは別の部分で、終盤にどんでん返しがあるという小説。おもしろいといえば、おもしろいが、「このミス」の上位にランクされるほどのものかどうか。まあ、長時間の乗り物のお供にはいいかもしれない。

 そういえば、この小説の中で、詐欺集団の一人が、年寄りが貯蓄というかたちで滞らせている金を流通させることで経済を活性化させているのだと居直っていた。最近世間を騒がせているトマソンだったかコマソンだったかの介護サービス企業が、入居料3億円の超高級介護施設を作っていたという報道があったが、悪いやつらは考えることの根本が同じなのだなと思った次第。
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Jazz★TANKA2 アイ・ラブ・ユー

2007年06月15日 | Jazz★TANKA

「愛してる(アイ・ラブ・ユー)」が

信じられなくて 

長き首傾ぐ モジリアニの女

 破調ですが、りっぱに31文字です。

「愛してる」なんて言っても、日本人はにわかにはこの言葉を信じないのですが、モジリアニの首の長い女は、幸せなのか、不幸せなのか、その首を傾ぐしぐさは、「愛してるなんて言って、きっと嘘よ」とつかの間の幸せが信じられないといった風に見える。

「アイ・ラブ・ユー」はコール・ポーター作曲、ミュージカル「メキシカン・へライド」のために書かれた曲。ビル・エヴァンスの初リーダーアルバム「ニュー・ジャズ・コンセプション」の1曲目がこの曲。すごいタイトルといえばすごい。でも、矢沢はただ「アイ・ラブ・ユー」ではなくて、「アイ・ラブ・ユー、OK」だもんね。

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駄菓子屋のババアに騙されたような映画「監督・ばんざい!」

2007年06月15日 | 映画
 5円の飴を10円出して買ったガキにお釣りを渡さず、「はい、これで10円分」といって買いたくもない別の品物を押し付ける駄菓子屋のババア。そんな昭和30年代の下町の駄菓子屋のシーンがこの映画の中にあるが、北野武の新作「監督・ばんざい!」も、そんな駄菓子のババアに騙されたような映画だ。

 わが町のいつも特等席で観られる映画館は、期待通り観客は5人。気の毒だったのは、老夫婦二人が、終わった後、ため息をつきながら無言のまま劇場を後にしたことだった。「金返せ!」と暴動でも起きる映画館があってもよさそうなものを。そんな気概もない映画ファンをあざ笑うかのように作ったのがこの映画なのだろうか。北野監督自身がメディアで発言しているように、北野ファンを失望させるという点では申し分ない内容だ。しかし、“世界のキタノ”をチャラにできたかどうか。むしろ“世界のキタノ”だから成り立つ映画だろう。

 それでも、ワンシーンだけだがやくざ編の迫力はさすがで、昭和30年代編だって、あのまま作っていれば、それなりの映画にはなっただろう。江守徹の怪演も見ものだが、なんといっても恋愛編に出てくる内田有紀がとてもよかった。女優だって、こんなにきれいに撮れるんだとさりげなく主張しているようで、1,800円は、内田有紀の拝観料としてお納めしてはいかがだろう。
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『めぐらし屋』を読んだら同級生のレーミン君を思い出した。

2007年06月13日 | 
 堀江敏幸『めぐらし屋』は、蕗子さんという女性が主人公で、作中でも「蕗子さん」として語られるせいか、あるいは焼肉やら、ジャズの流れるこじゃれたうどん屋やら、食べ物の話題がさりげなくちりばめられているためか、なんか川上弘美の小説に似ているなー、これは。

 蕗子さんは、たぶん40歳前後の独身女性。倉庫業の会社のベテランOL。落語で言う粗忽者という表現がぴったりのキャラクター。蕗子という名前も、路子と命名したはずが、役場に届出に行った父親が、役所の職員が読み間違えてほめられたことがきっかけで、急遽、路に草冠がついて、蕗子にしてしまったという次第。こういうどこか調子っぱずれな人物が出てくるところが、この作家の魅力だ。

 亡くなった父親の机を整理していたら、蕗子さんが小学校のとき父親にプレゼントした黄色い傘の絵の切抜きを貼り付けた大学ノートが出てくる。表紙には「めぐらし屋」と記されてあり、日記とも備忘録ともつかぬメモで埋められている。ときおり新聞の切抜きが貼ってある。父親は蕗子さんが幼い頃、昔で言う蒸発してしまっていたので、成人してからの蕗子さんは、父親が何を生業に生きていたのかよく知らない。偶然受けた電話をきっかけに、やがて、父親が暮らしていたアパートのある街の造り酒屋のせがれがひょうたん池でおぼれかけたのを助けたこと、それが縁で、訳ありの人に隠れ家を斡旋するらしい奇妙な「めぐらし屋」という活動をしていたこと、未完の百科事典を訪問販売していたことなどが明らかになってくる。いかにも暢気そうな会社の部下や上司、離婚した幼馴染レーミンなどが、蕗子さんを取り巻いて奇妙な物語が進行していくのだが、父のアパートでたまたま取った電話が「めぐらし屋」の依頼で、それを蕗子さんが受けてしまうという展開。

「めぐらし屋」という訳のわからない、何か必殺仕置き人のような雰囲気を漂わせ、ボランティアなのか商売なのかも分からない奇妙な仕事にかかわることで、蕗子さんは、父親を自分の中に復権させ、人生にぽっかり空いた空白やら喪失感を埋めていくのだろう。その空白は、父親のアパートの前に、水をたたえて、向こう側と隔てているひょうたん池のようではないか。

 そういえば、中学時代、二つ年上で字は異なるが「富貴子」さんという美人がいたっけ。中学の同級生には、玲民と書いてレイミンと読む中華料理店の息子もいた。父母が共産党員で、かのレーニンにちなんでレーミンと名づけたのだった。名字には「菊」がついていて、菊の紋章とヴ・ナロードが同居するありがたい名前の友人であった。
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ジャズ短歌始めました。 Jazz★TANKA1

2007年06月07日 | Jazz★TANKA

 ジャズ短歌を始めることにした。

ジャズの曲名、ミュージシャン、ジャズ用語を盛り込みながら短歌を詠むという趣向。たいした意味はない。ただ短歌を作るよりシバリがあったほうが作りやすいから。そんなわけで、興味ある方はご投稿ください。

 ウオトカの 

 グラスを指でなぞる君口ずさんでる 

 ワルツ・フォー・デビー

 やはり1作目は、この曲で。

女性は、細い指でお酒のグラスの腹を上下にさするしぐさをよくする。そんなとき何気なく「ワルツ・フォー・デビー」を口ずさんでいる。女性はこの曲がみんな好きみたい。でも、飲んでるお酒がウオッカのロックではすごすぎる!? ウオッカバックかウオッカトニックだったはず。

エヴァンスの同じアルバムだと、やはり「マイ・フーリッシュ・ハート」か。「愚かなりし我が心」。母親が娘に嫉妬する、そんな自分を「ばかね、あたしって。年甲斐もなく」と自戒する女心を歌った歌らしい。

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「だれのものでもない悲しみ」と誰にでもある縁

2007年06月07日 | 
 東京といわず地方都市といわず、いまや映画館といえばシネコンスタイルの封切館が主流になりつつある。名画座といわれる二番館、三番館はもはや数えるしかなくなってきた。その象徴的なのは池袋文芸座が新文芸座に衣替えしたことだろうか。もちろん、今も特集形式で独自の番組を上映し、映画ファンの期待を裏切らないが、往時の勢いはない。

 文芸座がモデルの文映座が登場し、その地下劇場でフェリーニの「カビリアの夜」が上映されている夏至の夜、映画館に消火器爆弾がしかけられ、犯人からの予告電話で、一斉に非難する観客の中に、物語の主人公になる男女がいる。実はこの二人、運命の糸に操られ、双方は知らないが過去にお互いが幾度となく接近していた。偶然か、運命か、神のいたずらか、やがて二人は出会い、結ばれる。中国の超稀少種のカエル顔をした金魚をめぐる事件をきっかけに、二人は死に向かって疾走して行くのだが、果たして最後はどうなったかは分からない。

 辻原登「だれのものでもない悲しみ」(中公文庫)は、早回しの映像のように展開する男女二人の長いストーリーをかいつまみながら、そこで偶然出会う人物たちが、思いがけない方向にそれぞれを導くドラマを、読者は高みから見物する仕掛けの物語だ。そんなことがあるわけないでしょとか、それはできすぎだよと思うのは、天から物語を観覧している読者だからで、当の本人たちは、まったくそんな因縁など知らないで生きている。車窓の夕焼け、エーデルワイスの歌など異なった過去を持つ二人を結び付ける符牒が物語のあちこちにちりばめられ、それがサスペンスを産むのだが、たまたま同じ日に二人が観た「カビリアの夜」は、それぞれに啓示を与え、二人は結ばれていくことになる。そんなわけで、この小説を読むと、今日電車の中で偶然隣り合わせた人物と、もしかしたら何かの縁があるのではないかと思ってしまう。思い切って誘ってみたらどうですか、とまるで扇動されているようでもある。

 風で瓦が落ち、通行人に当たる。その出来事は偶然かもしれないが、ある一定の力が働けば緩んだ瓦が落ちるのは必然だし、そのくらいの風が吹くこともある季節の気象の必然で、通行人がその場所をその時間に通ることも必然性がある。だから、三つの必然が出会うことは、果たして偶然なのか、必然なのか。あの時、こうしていれば、こうしていなければ、と思っても、人生は走り出している。変えられるのはこれからの人生だが、そして必然だけの人生なんて楽しくないが、それさえも過去の見えない糸に操られているとしたら。それでも、そんな仕業には逆らってみたい。終点はそう遠くはないのだから。
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アートで候。神風吹かば思い起こせよ9.11

2007年06月05日 | 絵画
「アートで候 会田誠・山口晃展」を上野の森美術館で観る。現代アートの人気者の二人展とあって会場は若者がほとんど。おそらく、その日上野で最も若者が多い美術展だろう。もっぱら、じいさん、ばあさん、おばはん、おじさんばっかりの展覧会が多かったので、「アートで候」は、そればっかりではもちろんないが、とても楽しい催しだった。

 二人とも分かりやすいくらい絵がうまい。日本画と洋画の伝統的な技法を踏まえながら、卓越した画力とアイデアで独自の世界を築く二人。伝統から少し位相をずらすことで、放物線の重なるところでは、伝統が顔を出し、それでいて絵画性を解体した現実とは似て非なる独自の世界が現出している。

 山口の作品は、描かれたどこか懐かしい風景に騙されそうになるが、時間と歴史を同一空間に暴力的に平面化し、アナーキーな逆ユートピアを描く。会田の作品には、思いつきやおふざけもここまで高度なテクニックで表象化されればアートになることをみせつけながら、時代の空気の中に漂う目に見えないグロテスクを、徹底的に表に晒している。両者とも遠近法など科学的な手法で現実を写し取る西洋画的手法より、むしろ時間や空間が平面化される日本画的な手法を導入することで、現代の混沌そのものが描かれているように思えるのだ。

 とりわけミケランジェロ、狩野永徳からフジタ、東山、赤瀬川まで、古今東西の先達の作品を引用しながらグロカワイイ世界を描く会田の作品は大いに楽しめた。その傑作「紐育空爆之図」は、地獄絵図とか「北野天満宮縁起絵巻」だとかを下敷きに、炎燃え盛るマンハッタン上空を銀色の胴体を光らせて八の字に旋回する無数のゼロ戦を描いた屏風絵だ。ゼロ戦は、もしや道真の怨霊ならぬジャップの悪霊か。「東風吹かばにおいおこせよ梅の花」というよりも「神風吹かば思い起こせよ9.11」なのだ。もちろんこの絵は、戦争賛美でも日本人の呪いでも、反戦でもLOVE&PEACEでもないのだが、あの9.11のとき、貿易センタービルに突っ込んだゲリラに、反米愛国を唱える人間でなくても、密かに喝采をおくってしまう気分と似たものがこの絵にはある。その時代のグロテスクを実にうまく描いて感動してしまうのだった。
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シンタロウのジャンキーな「ファンキー・ジャンプ」

2007年06月01日 | 
 大学時代の友人と会うため神保町へ。急な雨、待ち合わせ時間に間があったので、書泉グランデへ飛び込む。新潮文庫の売り場を見ると、探していた石原慎太郎『完全なる遊戯』があった。石原渾身のジャズ小説「ファンキー・ジャンプ」が収められているからだ。これが、読みたかったのだ。

 これは、マキーと呼ばれるジャンキーのピアニスト松木敏夫が主人公で、ブレイキーやガレスピーも絶賛したという日本人ピアニストという設定。マキーはホレス・シルバーがモデルといわれている。そのクインテットの演奏を、一曲ずつジャズ詩のようなスタイルで言語化を試みるという実験的な作品。マキーはヤクのやりすぎで、ラスト・コンサートで生涯最高の壮絶な演奏のはてに絶命する。しかも、その演奏の前には恋人を殺してきているという虚無感漂う作品なのだ。

 で、ここで演奏されるのは、ホレス・シルバーのアルバム「シルバーズ・ブルー」をモデルにした全7曲。たとえば2曲目のタイトルは「トゥー・スイング・オア・ノット・トゥー・スイング」で、オリジナルの2曲目「トゥー・ビート・オア・ノット・トゥー・ビート」のもじりというわけ(もちろん原曲のタイトルもハムレットのもじりですが)。オリジナルのレコードはエピック盤で、シルバーがジャズ・メッセンジャーズから独立した後1956年に収録されたもので、メンバーは、トランペット:ロナルド・バード(ジョー・ゴードン)、テナー:ハンク・モブレー、ベース:ダグ・ワトキンス、ドラム:アート・テイラーという布陣。

 小説の発表が1959年。ブレイキーのジャズ・メッセンジャーズ来日は1961年だから、日本にファンキーブームが起こる前に、この「ファンキー・ジャンプ」は発表されていたわけで、作品そのものよりも、この時期に、シルバーの最新盤を聴いていた石原慎太郎のヒップさに驚く。いまの東京都知事像からは想像しがたいが、平岡正明「チャーリー・パーカーの芸術」所収の「ビーバップと日本文学」によれば、なんでも、作品発表の前年に渡欧した石原はパリのサンジェルマンでホレス・シルバーの演奏を聴き、いたく感銘したのだという。この時期に絶頂期のシルバーを聴いていた日本人はそうたくさんはいまい。そんなわけで、シルバーにはまった石原が、なんとかそのファンキーな演奏を言語化しようと試みているわけだが、その実験的な意気込みは評価しても、作品の青臭さと陳腐な表現は、この時間の経過のなかでは、もはや何も心を揺さぶらない。ラストでタツノという評論家(モデルはいソノてるオか)が、「こりゃ本物だ、本物のビ・バップだ」と叫んで終わるあたりはちょっと気恥ずかしい。

「ファンキー・ジャンプ」と同じ年に発表されたシルバーのアルバム「ブローイン・ザ・ブルース・アウェイ」を聴けば、ファンキーな匂いで揺さぶりをかけてくるシルバーの音楽は、時代を超えても色あせていないこと分かるし、同じ年にマイルスが「カインド・オブ・ブルー」を、オーネット・コールマンが「ジャズ来るべきもの」を発表していたことを考えれば、いかに文学が表面の革新を気取っているだけで遅れをとっていたかが分かろうというものだ。
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