谷原恵理子句集『冬の舟』を読む
~揺蕩いのある時空へのまなざし
◆事の始まりと終わりを詠む
まず、映画好きの私が気になった次の句から鑑賞してみたいと思う。
春昼のざらりと映画館の壁
どこか春昼となじめない不協和音のようなものを、「ざらり」が醸し出す。映画(館)句というものがあるとすれば、掲句はその中でも秀句に入るのではないだろうか。
上映中の映画館(おそらく名画座だろう)に入った作者は、目が慣れるまで手探りで壁伝いに席を探している。春の光に満ちた快活だが気だるくもある屋外に比べ、暗闇でスクリーンの光を頼りに壁にへばりついている私のどこか滑稽な姿。そんな安穏と不安の揺蕩いが、句跨りの「ざらりと映画/館の壁」というリズムの外し方に表れている。
掲句では、春昼と映画館の暗闇が対比されていて、作者はその闇の中にいる。本来映画館とは映画を「観る」ための場所だが、作者は「観る」のではなく「触る」ことで、自己確認している。「ざらり」という皮膚感覚は、春昼の明るさになじめない作者の心象の表現だろう。光にあふれた春の日の下ではなく映画館の暗闇にいることで、自己の存在確認をしているのである。岩淵喜代子代表は『冬の舟』序文の中で掲句について「どこか揺蕩いのある時空」と述べられているが、暗闇に対比されることで春昼の「揺蕩い」のようなものが増幅され、主体は映画館にありながら春昼という季語が輝きを増すのである。作者も句の主体も季語に対比される側に置くことで、季語を生かす手法は恵理子さんの作句の特徴の一つである。季感の押し付けがないのである。それが、クールで都会的な空気感につながっているように思う。
次に紹介する句も、季語と他の措辞が対比される取り合わせの構造になっているが、いずれの句もクライマックスや熱狂から外れた時間を詠んでいるのが特徴だ。事の始まりと終わりの静謐だが気だるいひと時。それは熱狂から覚めて自己を見つめる時間でもあるだろう。作者が、事の始まりと終わりの時間を好んで詠むのは、そこが自分のいる時間、自己確認できる時間だからだろう。そして読み手もまた、そうした「揺蕩い」の時間に自己を見出すことが少なくない。恵理子さんの句が私たちをひきつける一つの理由ではないか。この「揺蕩い」こそ恵理子さんの句のキーワードではないかと思うのである。
トランプと籠とサンダル夏館
閉店といふ帽子屋の夏帽子
梅雨の雷ホテル小箱のやうに揺れ
天使の羽ちよつと直してクリスマス
シュレッダーの飲み込む文字や小鳥来る
水澄むやもうペディキュアを落とすころ
囀りや扉を抜けてジャズの店
夏館の句は、接続助詞「と」でつないだ無造作に置かれたトランプ、籠、サンダルの並列が避暑地での遊びを終えた午睡の時間を思わせる。誰にも買われなかった夏帽子、ホテルの一室で聞く雷の後の一瞬の静けさ、これら二句も避暑地の出来事だろうか。
クリスマスの飾りをパーティの前に直す幸福感。昭和のテレビで観たアメリカのホームドラマのようだ。小鳥来る明るさに対比される言葉を飲み込むシュレッダーの紙を切り裂く音と静寂、ハレの時間の終わりを告げるペディキュア落とし、ジャズ喫茶の音の洪水の前の一瞬の静けさ、いずれもが事の前か後、クライマックスをはずした時間が詠まれている。それは次のような句に際立ってくる。
セーター脱ぐライブの光落ちる時
ライブの熱狂の後の虚脱、ライブが終わりステージの光は落ちて暗くなる。その一方で、作者は祭のあとの虚脱から脱皮するようにセーターを脱ぐ。照明の落ちた会場の中で、静かに決意するかのようにセーターを脱ぐのである。これもまた、自己確認の行為に他ならない。「セーター」という冬の季語は、寒い冬の身体を温める衣服としての機能を放棄しながら、「脱がれる」ことで、自己確認を喚起し季語の本位を取り戻すのである。
黒セーターレノンの歌は雨のやう
雨のようなジョン・レノンの歌とはどんな曲だろう。「イマジン」だろうか。あるいはジョンの遺作となったアルバム「ダブル・ファンタジー」に収められた「ウーマン」だろうか。黒セーターに身を包んだ作者は、冬の雨のように歌うレノンの声の中に身を潜ませ、揺蕩うているようだ。つまり、季語「セーター」は、作者が暗闇と雨のようなレノンの歌声と同化するためのコスチュームであって、季語の本位を相対化しているかに見える。作者はセーターそのものよりもレノンの歌に温もりを感じている。しかし、そこに同化するためには、赤や青のセーターではなく黒いセーターこそ、自らの存在確認に必要なアイテムなのである。
蓮根の穴よりパリの灯が見えて
蓮根とパリの灯の焦点移動が見事な句である。ここでも蓮根は、冬の季語「蓮根(掘る)」の季感を逸脱し、パリの灯をのぞくエトランゼの「レンコンを通してのぞいてもパリはパリなのね」というような幸福感を醸す補助装置となっている。それでも、覗いているパリの灯が澄み切った冬の夜であることを感じさせてくれる。その幸福感と自己確認の装置として、蓮根は機能しているのである。
ここまで取り上げた句は、奇しくもカタカナ言葉を使った句ばかりになってしまった。作者は都市生活者(避暑は都市生活者のバカンス)で、その現場を生きて自己を見つめ、俳句という形で表出する。自ずとカタカナで表記される事物が素材対象になってくるだろう。季語を他のフレーズとの対比によって相対化する手法も、感動の押し付けがなくクールな都会性につながっている。
俳句は「いま・ここ・われ」を詠むことだとは、俳句入門の作法としてよく言われることである。しかしそれは作句の作法ではなく、メタ認識を通じていまをよく生きる、その自己表現の一つとして俳句があるということだろう。そうした意味で、恵理子さんの俳句は「いま・ここ・われ」を生きる「人」の自己認識の表現なのである。
◆サウダーヂ――常ならざるものと永遠の狭間で
さて、『冬の舟』には、これまで紹介してきたような都会テイストをもった句と対照的に、伝統句を学ぶことから出発した作家らしい、造形力に優れた骨太な自然詠の作品が少なくない。むしろそれが作者の本流だろうか。例えば、
椿落つ大地に伝ふ波の音
まるで水原秋櫻子の「滝落ちて群青世界轟けり」を彷彿とさせて、読み手を唸らせる。
糸とんぼ生者も死者も好む水
風やめば水遅れたる蓮の池
生きてゐる井戸きいきいと冬の寺
いずれも水を主題に生と死、過去と現在へと変わりゆくもの、常ならざるものをとらえようとする作者のまなざしがある。自己確認し生きることをみつめれば、常ならざるものへ引き寄せられていく。それは永遠への憧れと表裏一体だ。常ならざるものと永遠との狭間に揺蕩う存在、それが人間であって、恵理子さんは、その揺蕩いを紡ぎ出す詩人ではないだろうか。それが昇華したのが次の句である。
眉にふれ淡海にふれ春の雪
掲句は、琵琶湖にいて春の雪に遭遇した情景を詠んだものだろう。眉というクローズアップと淡海の遠景の対比、「ふれ」のリフレーンの調べが降っては溶けてゆく春の雪を私たちに体感させる。眉、淡海という儚いモノクロームの世界を提示しながら、下五で「春の雪」と春の一字を置く転調で、単色の世界に淡い春の色が広がるのである。
春の雪は淡雪である。だが、掲句は「淡雪」とは言わず、「淡海」という言葉にその儚さを託した。そこが作者の巧みさだ。降っては淡海の水と化していく雪は、戻すことのできない時間の象徴でもある。すなわち、常ならざるものと永遠の狭間に揺蕩う世界である。
私たちは、ある景色や出来事に遭遇すると、そこに眠っていた記憶が懐かしさを伴って溢れ出ることがある。恵理子さんの句に私は、そんな場面に立ち会った時の郷愁を感じるのである。それは、ポルトガル語でいうサウダーヂ(saudade)のようなものである。
サウダーヂとは、郷愁、憧れ、思慕、切なさなどを意味するといわれる。取り戻せない時間にであったり、叶わぬかもしれぬ夢や憧れなど、今いる場所からは手の届かぬ距離や時間への思いといえるだろうか。ポルトガルの大衆音楽ファドやブラジルのボサノヴァの主調音こそ、このサウダーヂである。いずれにしろ人が人であるために抱えている切なさや悲しみをサウダーヂという。
以上見てきたように、都会生活から生まれた句であろうと、自然詠であろうと恵理子さんの句は、冒頭で引用した岩淵代表の言う「揺蕩いのある時空」を詠んでいるように思える。常ならざるものの中で生きる私たちは、どこか永遠を求めて彷徨う船の乗客のようである。恵理子さんの句は、そうした世界へ読む者を誘うからこそ、サウダーヂを感じるのではないかと思う。
(「ににん」2021年夏号掲載)