ちゅう年マンデーフライデー

ライク・ア・ローリングストーンなブログマガジン「マンフラ」

酒場でひとり寂しい女がないている

2006年05月31日 | 音楽
「東京大学のアルバート・アイラー・東大ジャズ講義録・歴史編」(菊地成孔+大谷能生著/メディア総合研究所刊)を読むと、改めてジャズ史をおさらいするように昔のアルバムを聴いてみたくなる。

 さっそくオーネット・コールマンの「The shape of Jazz to come」のCDを買って、昔のレコードと聴き比べてみた。レコードの勝ち。というか僕はこのアルバムはレコードの傷の音とかどこか温かみのある音が合っていると思った。スカジャズというか、オーネットの独特のタイム感覚が、いまでいうゆるい緊張感をかもしだし、ブリキのラッパが鳴っているようなドン・チェリーのポケットトランペット、ぺらぺらしたオーネットのプラスチック製アルトサックスの音(とてもいい音で鳴っている)がチンドン屋的アナーキーさで、12音平均律で武装された西欧楽器の呪縛からフリーになろうとするかのごとくノイジーに響き感動する。美しい曲だ。「Lonely Woman」のアルトは「なによ、なんなのよ!」と酒におぼれた苛立ちから開放されない寂しい女の叫びのようにも聞こえるではないか。

 マイルスの「カインド・オブ・ブルー」と同じ年に発表されたことを考えると、方やモード、かたやフリーへとその後のジャズの一つの方向性を示した1枚だし、昔聴いたときよりはるかに今のほうが新鮮に感じる音なのだ。すばらしい。

 さて、「東京大学のアルバート・アイラー」は、西欧の12音平均律とアフリカをルーツとする黒人たちの音階とリズムがであったときジャズが生まれ、そのいわばブルース衝動と12音平均律との調和と造反がジャズを発展させてきたというふうに読むと、ジャズははじめからジャズ的でないものとの共存によってジャズ足りえていたといえる。さらにMIDIの出現によって、即興の一回性、オリジナル性もいとも簡単に記号化・複製化される時代にジャズとは何かということになる。現在演奏されているジャズといわれる音楽は、ジャズ約100年の歴史の中である一つの形に止揚された形式として演奏されているのではなく、バップありモードあり、ボッサあり、ファンクあり、フリーありとさまざまに変化してきたスタイルが、そのまま幕の内弁当状態で共存し、それら総体をジャズと呼んでいるわけである。基本は即興演奏であることと、即興しなければならない衝動、仮にブルース衝動としておこう、この二つによってジャズは存在しているのだと思う。それだけに、ジャズというスタイルをなぞるだけの演奏より、すでに時代の改革者になり得ないジャズを再度壊そうとするジャズの試みのほうに共感する。だからこのオーネットのアルバムが大切なのだ。
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なんかムンクあるかよ!

2006年05月31日 | 
「明暗」と「虞美人草」を残してちょっと漱石を一休みした。

で、何を読もうかと思うのだが、漱石に匹敵するものでないとどうも四つに組む気になれなくて、マルセル・プルースト「失われた時を求めて」全訳が集英社文庫で出始めたので、よしこれだとばかり、まず「スワン家の方へ」を読み始めたが30頁くらいで挫折。そうだグレン・グールドが「草枕」とともに愛読していたのがトーマス・マン「魔の山」だったと、これは快調に進んでいたが、途中で盗まれたムンクの「叫び」奪還のノンフィクション「ムンクを追え」(エドワード・ドルニック著・光文社)に手をつけたら、「魔の山」が中断のままになってしまった。

読書の核がなくなるとあれもこれもと目移りがして浮気してしまうのは悪い癖。でも「ムンクを追え」は、「叫び」奪還に挑んだロンドン警視庁美術特捜班の囮捜査官チャーリー・ヒルにスポットをあてたノンフィクション。連続TVドラマチャーリー・ヒルシリーズなんかにしたらさぞかし面白かろうというようなエピソードが一杯の本ではある。専門の美術捜査官が活躍する舞台があるところが、盗難品、贋作も含め表裏の豊かな美術市場を形成しているヨーロッパならではなのだろう。この手の本を読んでいつも感じるのは、美術館の防犯がとても甘いということ。日本では最近仏像なんかが盗難にあっているけれど、大掛かりな美術品盗難事件はない。この前行った「プラド美術館展」でもゴヤの小品などは、サイズも手ごろで壁からすぐ取り外せそうだったから、やれば案外簡単にできるかも。

 学生時代だったと思うが、フェルメールの贋作で有名なメーヘレンの話を種村季弘の本で読んで以来、美術品盗難や贋作に関する話は大好きで、割と最近読んだ中では、「偽りの絵画」(アーロン・エルキンズ/ハヤカワ・ミステリ)、「フェルメール殺人事件」(講談社文庫)といった小説、とりわけエルキンズには学芸員クリス・ノーグレンシリーズがあり以前はこのシリーズが出版されていたのだが、いまは「偽りの絵画」しかないのが残念。「消えた名画を探して」(糸井恵/時事通信社)はバブル期に日本を舞台に高価で売買されたゴッホやピカソの名画にまつわる話、タイトルどおり盗難絵画王フェルメールにはまってしまうのが「盗まれたフェルメール」(朽木ゆり子/新潮選書)、「にせもの美術史」(トマス・ホーヴィング/朝日新聞社)はメトロポリタン美術館館長と贋作者たちとの頭脳バトルがおもしろい。

あとナチの略奪絵画に関するものなど、この分野にはワクワクするエピソードがあふれているけれど、「ムンクを追え」にも書いてあったように、最近は緻密な計画で防犯網をかいくぐって目的の絵画を略奪するより、いきなり拳銃突きつけて奪ってくるという荒業がまかり通っているというのは、盗むほうも盗まれるほうも怠慢じゃないだろうかと思うのだった。
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新宿、猥雑な渓谷

2006年05月24日 | 新☆東京物語
新宿南口の陸橋からピンク映画館がある駅前の路地を見ると、赤い看板が林立し、猥雑な渓谷のようだった。この一角は昔ムーランルージュがあったあたりで、最近の南口が変わっていく中でも、猥雑さと郷愁が混ざり合ったかつての新宿の雰囲気が残っている。場外馬券売り場も近くだしね。
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サンクト聖橋

2006年05月23日 | 新☆東京物語
 御茶ノ水橋から聖橋方向を眺めるこの風景が好きだ。

 美しい曲線を描いた橋とホームの電車の往来によって風景が動き出すところに郷愁を感じる。

 湯島聖堂とニコライ堂という二つの聖なる場所をを結ぶ橋だから聖橋。分離派建築グループの山田守の設計。日本武道館や京都タワーの設計者だが、残存する山田設計の建築物は少なくなりつつあるのが残念。長沢の浄水場、東海大学のいくつかの校舎建物はぜひ残してもらいたいものだ。
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AKIRAの新宿

2006年05月22日 | 新☆東京物語
六本木ヒルズから新宿方面を見ると、「AKIRA」や「20世紀少年」の旧都心みたいな陸の孤島のようなたたずまいだ。モノクロにしたら雰囲気が出た。
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東京タワー

2006年05月22日 | 新☆東京物語
六本木ヒルズから見た東京タワー。手前の老夫婦のシルエットがどこかせつない。
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絲山秋子を読んでジム・ジャームシュを観にいこう

2006年05月17日 | 
絲山秋子「イッツ・オンリー・トーク」(文春文庫)を読む。小説との幸福な出会いに感謝だ。

妙な純愛ものを書いている最近の男性作家にうんざりしていたので、この絲山秋子さんみたいな作品を読むと、いい小説に出会えたと安堵する。この力の抜けた感じはちょっと抜けられなくなりそうだ。凡庸な作家ならもっと書きすぎるところを、この小説に出てくる痴漢さんのように寸止めできるところがすごい。登場人物たちが蒲田(最高にシュールな街としか思えない)の中で見事に生きて完結しており、次にどうなるのだろうという読む側に未練を残さないところもいい。

「イッツ・オンリー・トーク」を原作に広木隆一監督で「やわらかい生活」として映画化が進んでいるらしいが、この世界を映像化するなら、オタール・イオセリアーニかジム・ジャームシュにしてほしい。この小説自体、「ストレンジャー・ザン・パラダイス」や「コーヒー&シガレッツ」だし、カメラ移動でワンシーンワンショットのような流れでシーンをつないでいくイオセリアーニのゆるいテンポがピッタリだと思う。そうだ、「ブロークン・フラワーズ」を観にいこう。
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コルトレーンとマイルスのライヴ盤

2006年05月17日 | 音楽
 タワレコでマイルスの「ミュンヘン・コンサート」3枚組みが1,480円とお得な値段だったので、コルトレーンの「ライヴ・アト・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード マスター・テイク」とあわせて買った。

 「ミュンヘン・コンサート」は1988年のコンサートライヴで、「ライヴ・イン・ミュンヘン」としてDVDでも出ていたし、WOWWOWでも以前放映していた。マイルスが亡くなる3年前のライヴだが、音もよく、かなり元気なマイルスが聴ける。ボーナストラックとして1970年のワイト島の35分マラソン演奏のライヴが収録されているが、これと比べるとマイルス自身のトランペッターとしての衰えは致し方ないにしても、吹かないことで存在感を示し、シンプルにして先鋭的なトランペットの1音でバンドの流れを変えるあたりに健在振りが示されていて、こんなジャズマンはマイルスしかいないと改めて感じたのだった。

 コルトレーンのアルバムは、従来の「アト・ザ・ヴィレッジ・ヴァンガード」に「インプレッションズ」からインプレッションズとインディアの2曲を加えたものだから、1961年11月1日から4日までのライヴのうち、2日と3日のいいとこ5曲をまとめたアルバムというわけだ。2日は「朝日のようにさわやかに」「チェイシン・ザ・トレーン」、3日が「スピリチュアル」「インディア」「インプレッションズ」だ。4日間で22曲やったというからすごいライヴだ。
 
 チェイシン・ザ・トレーンが圧巻。コルトレーンがソロのときはピアノレストリオ状態になっていて、ほぼドラムのエルビン・ジョーンズとの一騎打ちの様相を呈していて、始まりはいまいち調子の出ないトレーンをエルビンが扇動して次第にトレーンが過激さを増していく過程を聴けば、このジャズ格闘技戦は引き分けだけれど判定でエルビンの勝ちとしたい。

 ライナーノーツの冊子にはコルトレーンの笑顔の写真が2枚掲載されていた。これまでは大体演奏中の眉間にしわ寄せた表情か、沈思黙考の修行者のような表情の写真が多い中で、この写真のコルトレーンはとてもいい顔、そうだ、朝日のようにさわやかな表情をしていたのだった。
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中心の抜けた二都物語

2006年05月08日 | アフター・アワーズ
 GWに六本木の森美術館に「東京・ベルリン展」が終わるので観にいった。連休中の人出に加え、同じ美術館で「ダヴィンチ・コード展」が始まったので、チケット売り場へ至るエントランスは入場整理されて外まで長蛇の列、30分待ちという混雑振りだった。美術館のある52階は展望ゾーンになっていて、しかも美術館の鑑賞券と展望ゾーンの入場券はセットで1500円、エレベーターも同じだから、老若男女、観光客も美術館の客もみんな一緒というわけ。美術館の中も子供が走り回る賑やかさではあった。

 それでも「東京・ベルリン展」は、外の混雑振りからすれば空いていた。やはり「ダヴィンチ・コード」に比べりゃ地味だもの。「日本におけるドイツ年」の一環の企画だが、東京とベルリンの都市文化が同時代的に共鳴しあってきたイメージをすぐ思い浮かべられる人はそうはいないだろう。ベルリン・ダダ、バウハウス、表現派、築地小劇場、分離派建築などの20世紀初頭のムーブメントに両都市の共振を感じるものの、それも両都市がファシズムを準備した時代が放つ甘い誘惑の香りに満ちていたからであって、だから都市としての東京とベルリンがもっとも共鳴しあったのは、ナチスのベルリンと大日本帝国の帝都東京だろう。このプロパガンダの時代の表現は、ナチス・ベルリンに軍配が上がるが、この展覧会のなかではこの時代にあまり光は当てられない。だから、中心が抜けた二都物語に思えてしまうのだった。

そうはいっても、近代以降の500点あまりの日独の作品を、年代を追って観られる機会というのはめったにない。概論的には興味深い展覧会でありました。
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宇宙人ロナウジーニョ

2006年05月02日 | アフター・アワーズ
 セゾングループのCFに出ているロナウジーニョは、まるで宇宙人の風貌だ。不釣合いなスーツは、宇宙人としてのからだを隠すカモフラージュだろう。それは、最近のロナウジーニョのプレイそのものが宇宙人がひとりまぎれこんでいるとしか思えない、異次元のプレイであることとも一致している。ロナウジーニョには太陽と地球の関係のようにサッカーボールというロナウジーニョの惑星のような存在を自由に操れるのだ。さきのW杯の頃は、天才的だが異形の細い体にひょうきんな顔をしたあんちゃんという趣だったが、いまや「ドラゴンボールZ」のスーパーサイヤ人のように変身した迫力と貫禄と肉体の強さを身につけてしまったのだ。人間離れしたプレイなどという賛辞はロナウジーニョには適切ではない。だからどのようなプレイがあってもこのような感嘆はもらすべきではない。ロナウジーニョのプレイを、同時代において見ることのできる幸福をただただ至福の喜びとするだけである。
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