ちゅう年マンデーフライデー

ライク・ア・ローリングストーンなブログマガジン「マンフラ」

蜂蜜とうどんとコロッケとビールな休日

2009年07月30日 | アフター・アワーズ
 夏らしく晴れ上がった土曜日に、妻と散歩がてら近所の蜂蜜屋さんに蜂蜜を買いに行った。全国から取り寄せた種類豊富な蜂蜜を実直そうなご夫婦が販売しているお店だ。熊本のミカンの花からとったもの、青森のリンゴ、定番のアカシア、さらにアザミ、トチの木、ソバなど、まずいろいろと試食させてもらって、買うことができる。ソバの蜂蜜は、以前僕の田舎で買ってみて、その強烈なにおいに卒倒しそうになったので、今回は遠慮し、他のお客さんに「強烈ですよ」なんて試しに勧めてみると、興味津々で口に入れ、その後顔を歪ませながら絶句している姿を、こっちは楽しんでいるのだった。

 ミカンとリンゴ、北海道の何とかという木の花からとった蜂蜜を買い、さらに、散歩しながら最近できたうどん屋で昼食。店員に元気がない、こしがあるのはいいけれど、もう少しつるつる感がほしいな、などと食後の感想を述べながら帰る途中、コロッケが美味しいと評判の肉屋で揚げたてのコロッケを買い、食べながら日差しの強い午後の道を帰ってきたのだった。実は僕は前夜の深酒で結構な二日酔い状態だったのだが、夫婦でこんなにのんびりできる休日も珍しいので、さらに近くの公園を散歩することにした。家から、キャンプ用の小さな折りたたみ椅子とマット、水に本、お菓子、水彩画道具をもって、風の気持ちのいい木陰に陣取って昼寝とスケッチを楽しんだ。

 夕方になっても暑さが和らがず、公園に隣接する市営ホールの一角にあるイタリアンレストランがビアガーデンを始めたので、生ビールを飲んで帰ることにした。公園を借景にした眺めのいいビアガーデンで、夕方の風が気持ちいい。ソーセージ、ガーリックバターがきいたポテトフライ、かたくちいわしの唐揚げなどをつまみに、中ジョッキ2杯。二日酔いなどすっかり忘れて、いい心持になってしまった。

 夕食はかの肉屋で買った熊本産馬刺しをつまみに、発泡酒を飲み比べてみた。最近の発泡酒はさらにビールに近づいていると聞いたからだが、アサヒのクール・ドラフトが最初に飲んだせいか、一番おいしいということになった。でも、やっぱりビールだね、ということで、わが家の貯蓄は一向に増えないのだった。
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民主党が政権を握ると日本人のセックス頻度が上がるだろうか?

2009年07月22日 | 
 友あり遠方より来るではないが、ひょんなことで中学や大学時代の友人と続けて会った。大学時代の友人J君は、最近アルゼンチンタンゴを始めたといい、すっかりスマートになっていた。僕も日本画を始めたので自慢したかったが、アルゼンチンタンゴには負けた。そんな話で明け方近くまで痛飲。中学時代のS君、20年ぶりくらいのO君、Kさん、こういうメンバーで飲むなんて考えられなかった。中学時代の思い出、同級生のその後の消息などで盛り上がり、Kさん(亀淵友香似。歌がうまい)の地元のスナックでカラオケなんかして、終電ぎりぎりまで痛飲。そんなわけで連休は身体に滞留していた酒の毒を吐き出すべく、最近復活したウォーキング+ジョギングで汗をかく。爽快。

 日本画はなかなか完成しないが先は見えてきた。日本画の元になるデッサンを少し描きためたいと思い、アスパラを描き、近くの公園の風景をスケッチ。よく観察してモノの形の法則というか構造が分かってくると筆が進む。花、野菜、樹木、よく見ているととてもエロチックだ。大地に根を張る樹木の二股の根っこの襞のような部分など、鉛筆で陰影をつけているとミョーな気分になるなー。

 ところで、英国のコンドームメーカーの調査によると、日本人は調査対象国41カ国でもっとも年間のセックス回数が少ない国民らしい。平均的なカップルというから、20~30代だろうか、45回。週イチより少ない。フランスは120回。3日に1回か。日本人のセックスレス化はどんどん進んでいて、年間ゼロの割合は30代でも30%くらいあるらしい。そんなデータを駆使しつつ、少子化の原因は格差社会にありと説くのは『セックス格差社会』(門倉貴史・著)。タイトルからほぼ内容を想像はできるのだが、年収と月間のセックス頻度の相関から、年収が下がるほどセックス頻度も低下することを導き出す。格差社会の下のほうは、ビンボーなので女性とつきあえない、だからセックスもできない、子供がつくれない。ゆえに少子化が促進。格差社会の上のほうは、相手はいても忙しくてセックスレス。ゆえに少子化が促進、というわけだ。少子化をくいとめるには、出会い→結婚→セックス→出産→子育ての流れを支援する政策が必要だが、そういえば民主党が子育て支援政策を表明していることから、総選挙が決まるや赤ちゃん本舗などの株価が上昇しているという話はおもしろい。民主党が政権を握ると、日本人のセックス頻度が上昇するかどうか注目したいところだ。

 映画に関する傑作本を2冊、『何が映画を走らせるのか』(山田宏一・著)、『偽りの民主主義~GHQ・映画・歌舞伎の戦後秘史』(浜野保樹・著)を読む。いずれも、映画とは何かを考えさせられながら、扱われている映画にまつわるエピソードが面白すぎる。とりわけ『偽りの民主主義』のほぼ主役でもある永田雅一の「FOCUS ON THE MONEY」(この言葉については『何が映画を走らせるのか』にくわしい)とでもいうべき映画的人生がすごい。その品性たるや褒められたものではないが、永田の大映映画はみんな面白かった。
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恋する誰かさんの愚かなる心に降るアメリカはジェントルレイン

2009年07月08日 | 音楽
 南博・著『鍵盤上のU.S.A. -ジャズピアニスト・エレジー アメリカ編』を図書館で借りて読む。銀座のクラブのピアノ弾きで貯めた資金でボストンのバークリー音楽院に留学した海外ジャズ武者修行記。本の惹句では「ジャズ青年のビルドゥンクス・ロマン」とされているが、ジャズピアニスト・ボストン格闘編といったほうがいい。三十路前(アラサー)の留学、若造の視点とは異なったアメリカ観、アメリカ人観が展開されておもしろい。アメリカ人のスーパーフィシャルな笑顔、ボストンの素顔、バークリー音楽院の実態、ポーランド人サックス奏者のパワー、スティーヴ・キューンとの出会いなどジャズマンならではの体験と視点にノンストップ一気読みだ。ロバート・B・パーカーのボストンや大学の街という知的な都会のイメージとは違う田舎な都会としてのボストンの素顔は意外だったが。快作である。この人の音楽は信頼できる。

 そんなわけで、早速タワレコで南博トリオの「Like Someone in Love」を購入(昨年リリースされた時、ジャケットが?だったのと、あの靖国オジンが推薦していたので敬遠したが)。これも傑作。「My Foolish Heart」の一音目。これはビル・エヴァンスへのオマージュであり、たぶんこの単音でいきたかったのだということが、この本を読むと分かる。そして繊細だけれども男気と粋が感じられるアルバムなのだった。

 一緒に武田和命(ts)「ジェントル・ノヴェンバー」が高音質で再発売されていたので購入。フラスコ・レーベルのレコードが出たのはもう30年前か。社会人として駆け出しの頃でもう擦り切れるくらい聴いた。武田のテナーに山下洋輔トリオ〈国仲(b)・森山(dr)〉。1曲目「ソウル・トレイン」で胸がキュンとなる。あの頃好きだった女の子を思い出しつつセンチメンタルな旅だ。ジャズにおける「歌う」ことの真髄が聴けるアルバムだ。

 さらにアン・サリーの1stアルバム「Voyage」が、ジャケットをリデザインして1,000円だったので、これも購入。この1stが歌手としての力量を一番発揮しているのではないかと思うくらい声も歌もいい。「小舟」「酒バラ」「スマイル」「青春の光と影」など選曲もよく、伸びのある声とときどきのファルセットで聴く者の胸に歌が入り込んでくる。ついでにミッシェル・カミロの1988年のアルバム「ミッシェル・カミロ」も1,000円だったので買ってみる。で、4枚買って、その日のタワレコはボーナスポイントがつく日だったので、3倍もポイントがついたのだった。そこでジャズ短歌一首。

  恋する誰かさんの愚かなる心に降るアメリカはジェントルレイン


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チンチン電車の女車掌が切るものは?「朗読者」と「愛を読むひと」の間

2009年07月06日 | 映画
 「愛を読むひと」(スティーヴン・ダルドリー監督)を新宿歌舞伎町のオスカーで観た。ここなら必ず空いているとの予測どおりの入りは、まず「アタリ」(映画はハズレ)。学校の体育館のような雰囲気。広さに比べスクリーンが小さい(客も少ない)が、最近の映画館のように上映中明るくないのがいい。昭和の映画館です。

 「愛を読むひと」は、『朗読者』(ベルンハルト・シュリンク著)としてベストセラーになった現代ドイツ文学の映画版。『朗読者』は、日本では2000年に翻訳出版され、いわゆる翻訳文学ブームのさきがけとなった。しかも、ドイツの作家の作品ということで、当時僕もひさびさに現代ドイツ文学を読んだのだった。10年近くたつので、主人公の僕が回想する一人称のスタイルで書かれた小説であること、筆おろしをしてくれた忘れられない年上の女性が実はナチスの戦犯だったというストーリーくらいしか、詳細はもうよく覚えていなかった。

 ドイツ伝統のビルドゥングス・ロマンの形式をとりながら、この小説で主人公が成長して出会うのは、戦後世代はナチスとどう向き合えばよいのかという問題だった。この世代間の問題を21歳離れた年齢の男女の恋愛を設定することで描こうとしたわけだが、著者のシュリンク自身にも、信頼していた教師がナチスの協力者だったという体験があったらしい。世代を超えて体験する「ナチスという過去」は、ドイツ社会では、依然として一人ひとりが負わなければならない十字架のようなものなのだろう。ギュンター・グラスのカミングアウトも記憶に新しいところだが、たぶんシュリンクは、ナチス問題は裁く問題ではなく受容する問題だといいたかったのだと思う。でも、僕は『朗読者』のことはほとんど忘れていたのだった。

 映画「愛を読むひと」として封切られたとき、その原作が『朗読者』であることさえ知らなかった。ポスターの下に原作:『朗読者』とあって、合点がいった次第なのだ。ならば、観てみようと。映画を観て、こんなお話だったかなというのが感想だが、ドイツ人の物語でありながら主人公は、ミヒャエルではなくマイケルと英語読みされてしまうことにはじまり、朗読される書物の文字や音声も当然ながら英語であることに違和感を持ってしまった。前半は、主人公の少年マイケルと21歳年上の女ハンナとの情交が描かれ、もっぱらベッド上の2人のアップ、中盤は法廷でのハンナとそれを傍聴するマイケルの表情のアップ、後半は、朗読をテープに録音するマイケルとそれを聴くハンナのアップというショットの連続で物語が展開される。この展開だけで、いかにこの映画が退屈だか分かろうというものだが、「愛を読むひと」は、ナチスを戦後世代がどう受け入れたかがテーマではなく、熟年になったマイケルの青春時代の清算と再生としての物語なのだった。ナチスという特殊体験ではなく、人生の光と影にアメリカ映画としての普遍性を求めたのだろう。だが、如何せんハンナ役のケイト・ウィンスレットがヌードをみせることくらいしか観るべきものがなかった。(ちゃんとバストトップも見せているのはえらい。最近の日本の有名女優といわれる若手で、しっかり脱げる女優はいるだろうか。40歳後半でも脱いでいたシャロン・ストーンなど見上げたものだ。こういう女優魂を見習ってほしいものだ)

 ケイト・ウィンスレットは、ラファエロ前派の画家ジョン・エヴァレット・ミレーの描く女性のような面立ちをした女優で、美しき土左衛門ことオフィーリアとか、大木に縛りつけられている「遍歴の騎士」の裸婦役をしたらよかろうと思っていた。だから、聖なるものと官能とのアンビバレントな同居を期待していたのだが、老ける特殊メイクにばかり熱心だったようで、これは「ハズレ」だった。

 ハンナは、制服に身を固めた律儀なチンチン電車の女車掌。チンチン電車の女車掌が「切符を切らせてください」というと車内に笑いがおきたという阿部定事件後の逸話をすぐ想起させる。つまり職業としてチェリーボーイの相手役の資格十分なのだが、ウィンスレットは官能性に欠ける。というより36歳の処女のように見えた。では文盲で、戦時中ゲシュタポに就職するくらいしか道がなく収容所の守衛だったハンナは、一体どこで少年に性の手ほどきができるような体験を積んでいたのだろうか。その残滓が見えない。この映画の一つのポイントは制服を「脱ぐ=身につける」という官能性だと思う。「脱ぐ=身につける」行為とその変容をどう描くか、その官能性に観客は、性に溺れていく少年の視点を共有していくことができるのだが、それが見えないのだった。

 ハンナは、少年のありあまるほどの性欲を受け入れながら、これまでの、たぶん禁欲的だった生活の中でひさびさに快楽を味わっただろう。しかし、少年とのセックスは快楽より奉仕ではなかったか。身体で少年に奉仕する代わりに、少年にも、かつて収容所で少女にさせたように「朗読」という奉仕を求める。「今日はセックスが先、本を読むのが先?」という台詞があるように、朗読は性行為の代替行為にほかならない。やがてハンナが裁判で無期懲役となり離れ離れになっても、2人は「朗読=声を聴く」という行為によってしか交歓できない。その変態的な愛のカタチにおいては、もはや実際に対面することに意味はなく、どちらかの死のみが、この愛を成就させるのだ。だから、「朗読=聴く」という行為をどう愛の行為として映像化するか、とりわけ音声と文字をどう扱うかが、この映画のもう一つの見せ場であるはずだが、心理描写といわれる顔の表情の変化をアップでとらえた映像ばかりでは、金のかかったTVドラマにつきあわされたようではないか。

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「コンバット」「20世紀の記録」がナチス映像を見た原点と思いめぐらした夜に「ロンリーハート」を観た

2009年07月02日 | 映画
 ジョン・トラボルタ主演、トッド・ロビンソン監督「ロンリー・ハート」を深夜のWOWOWで観る。これは、拾い物だった。アメリカの1940年代、戦争未亡人をねらって結婚詐欺をはたらく男女。とりわけ「デスペラード」や「フリーダ」などに出ていたサルマ・ハエック演じるマーサは、妹と称して詐欺師のレイと行動を共にするが、未亡人といちゃつくレイに嫉妬して、次々と相手の女を惨殺する悪女ぶり(脱がないのが不満だが)。ラテン系の濃い顔立ちと豊満なボディ、危機を乗り切るためなら警官の股間に顔を埋めることも厭わず、詐欺相手の未亡人とレイが情交に及んでいると女を撲殺してベッドから引き摺り下ろし、その死体を横目に今度はマーサが情交に及ぶという女。その恐ろしさにレイも一度はマーサを殺しかけるほどだが、肉体的快楽で結ばれた男女は、そう簡単には離れられない。これを追う刑事ロビンソン役のトラボルタは妻が自殺した過去をもつ男で、同僚の女と不倫中だが再婚には踏ん切りがつかない。おまけにその現場を子供に見られて親子関係も修復を迫られている。父親としても男としてもだめだが、刑事としては鋭敏な嗅覚でレイとマーサを追い詰める。

 この監督は全く知らない人だが、時間も約100分とほどよく、その簡潔な語り口がいい。結局、凶悪犯2人は電気椅子で処刑されるが、「レイを愛しているから殺した」というマーサの愛憎の深さに、ロビンソン刑事は、自らが愛するものと真剣に向き合うことを決意する。やがて不倫相手とも息子とも関係を修復し、警察を辞めて家族幸せに暮らしたとさ、で幕を閉じるストーリー。処刑シーンはロビンソン刑事が警察を辞める決意を観客に共有させるシーンとして必要かもしれないが、何か他の方法はなかったか。期待せず観はじめたけれど、WOWOWはたまにこういうのがあるからおもしろい。

 「ロンリーハート」の事件は実話らしいが、戦争がアメリカの市民生活に影を落としていたとはいえ、あの戦争のとき、アメリカはこんなことをやっていたのかと思う。戦場になったヨーロッパやアジア、日本に比べれば、なんと平和なことだ。一人殺せば殺人者、1000人殺せば英雄だといったのはスターリンだったと思うが、「ロンリーハート」が殺人者の映画だとすれば、戦後のアメリカの戦争映画は戦場の英雄たちを描いていた。そんなことを考えるのは、「ナチスと映画-ヒトラーとナチスはどう描かれてきたか」(飯田道子・著/中公新書)を読んだからだった。この本は、標題どおりヒトラーとナチスが映画においてどう描かれてきたかを概説した入門書的な書物だ。前半は、ナチスが映画をどうプロパガンダの武器として利用してきたか。その後、戦後なぜアメリカ映画はナチスを悪役として描いたかも含め、戦後の映画におけるヒトラーやナチスの表象の変遷をたどっている。巻末にヒトラー・ナチス関連映画一覧が掲載されており107本の映画が紹介されていて、これがなかなか役立つ。「将軍たちの夜」や「ルシアンの青春」「勝利への脱出」(あったかも?)が入っていないとか、「ゲシュタポナチ女収容所」などのエログロものがないとか、まあ、いろいろあるが、とりわけ、ナチス時代の映画を系統的に観ているのは著者の強みで、これらをきちんと紹介している珍しい本といえるかもしれない。

 僕が、ナチスの映像に出会ったのは、小学校の時にTVで観た「コンバット」と「20世紀の記録」というドキュメント、「少年マガジン」「少年サンデー」に登場するフォッケウルフやユンカースなどの戦闘機やタイガー戦車のイラスト、そして母親の「民族の祭典」に関するすべらない話だった。

 「コンバット」では、ドイツ軍は敵であると同時に、しばしば同じ戦場で戦うことになってしまった人間同士、あるいは同じように故国に家族や恋人がいる人間として描かれていた。敵にも慈愛を注ぐサンダース軍曹の男気に義侠心を学んだのだ。ドイツ軍はどちらかというと闇雲に撃ってくるだけで、知恵がなく間抜けな軍隊として描かれていた。だから、ナチスを悪とは感じなかった。「20世紀の記録」は戦争の記録映像で、演説するヒトラーの姿もこれで観た。フォロコーストのこともたぶんこの番組で知ったのではなかったか。

 母親からは、女学生時代にヒトラーはアイドル的存在であったことを聞き、「民族の祭典」を観た時の興奮というか、ギリシャ彫刻が生身の裸の人間にかわる映像に、男子生徒が興奮しまくりだったり、ヒトラーが登場するたびに女子がこれまた嬌声をあげたことが面白おかしく語られ、なんでも「民族の祭典」というだけで、当時の高校生は笑い転げたのだとか。以来、僕にとって「民族の祭典」は、母親のすべらない話として記憶されてきたのだった。おまけに、「日の丸だー、トリコローレだー、ハーケンクロイツだー」といった歌詞の三国同盟の歌といような歌を歌ったりしてね。

 さらに、「マガジン」「サンデー」に描かれる小松崎茂などのドイツ軍の戦闘機、戦車などの挿絵は、他を圧倒するかっこよさだった。カギ十字のマークもデザイン的に視覚を魅了した。タミヤ模型のプラモデルの箱絵に描かれた戦車やそこに並走するドイツ兵の軍服のかっこよさ、少年たちはみんなドイツ軍のファンだった。
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