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ちゅう年マンデーフライデー

ライク・ア・ローリングストーンなブログマガジン「マンフラ」

「コンバット」「20世紀の記録」がナチス映像を見た原点と思いめぐらした夜に「ロンリーハート」を観た

2009年07月02日 | 映画
 ジョン・トラボルタ主演、トッド・ロビンソン監督「ロンリー・ハート」を深夜のWOWOWで観る。これは、拾い物だった。アメリカの1940年代、戦争未亡人をねらって結婚詐欺をはたらく男女。とりわけ「デスペラード」や「フリーダ」などに出ていたサルマ・ハエック演じるマーサは、妹と称して詐欺師のレイと行動を共にするが、未亡人といちゃつくレイに嫉妬して、次々と相手の女を惨殺する悪女ぶり(脱がないのが不満だが)。ラテン系の濃い顔立ちと豊満なボディ、危機を乗り切るためなら警官の股間に顔を埋めることも厭わず、詐欺相手の未亡人とレイが情交に及んでいると女を撲殺してベッドから引き摺り下ろし、その死体を横目に今度はマーサが情交に及ぶという女。その恐ろしさにレイも一度はマーサを殺しかけるほどだが、肉体的快楽で結ばれた男女は、そう簡単には離れられない。これを追う刑事ロビンソン役のトラボルタは妻が自殺した過去をもつ男で、同僚の女と不倫中だが再婚には踏ん切りがつかない。おまけにその現場を子供に見られて親子関係も修復を迫られている。父親としても男としてもだめだが、刑事としては鋭敏な嗅覚でレイとマーサを追い詰める。

 この監督は全く知らない人だが、時間も約100分とほどよく、その簡潔な語り口がいい。結局、凶悪犯2人は電気椅子で処刑されるが、「レイを愛しているから殺した」というマーサの愛憎の深さに、ロビンソン刑事は、自らが愛するものと真剣に向き合うことを決意する。やがて不倫相手とも息子とも関係を修復し、警察を辞めて家族幸せに暮らしたとさ、で幕を閉じるストーリー。処刑シーンはロビンソン刑事が警察を辞める決意を観客に共有させるシーンとして必要かもしれないが、何か他の方法はなかったか。期待せず観はじめたけれど、WOWOWはたまにこういうのがあるからおもしろい。

 「ロンリーハート」の事件は実話らしいが、戦争がアメリカの市民生活に影を落としていたとはいえ、あの戦争のとき、アメリカはこんなことをやっていたのかと思う。戦場になったヨーロッパやアジア、日本に比べれば、なんと平和なことだ。一人殺せば殺人者、1000人殺せば英雄だといったのはスターリンだったと思うが、「ロンリーハート」が殺人者の映画だとすれば、戦後のアメリカの戦争映画は戦場の英雄たちを描いていた。そんなことを考えるのは、「ナチスと映画-ヒトラーとナチスはどう描かれてきたか」(飯田道子・著/中公新書)を読んだからだった。この本は、標題どおりヒトラーとナチスが映画においてどう描かれてきたかを概説した入門書的な書物だ。前半は、ナチスが映画をどうプロパガンダの武器として利用してきたか。その後、戦後なぜアメリカ映画はナチスを悪役として描いたかも含め、戦後の映画におけるヒトラーやナチスの表象の変遷をたどっている。巻末にヒトラー・ナチス関連映画一覧が掲載されており107本の映画が紹介されていて、これがなかなか役立つ。「将軍たちの夜」や「ルシアンの青春」「勝利への脱出」(あったかも?)が入っていないとか、「ゲシュタポナチ女収容所」などのエログロものがないとか、まあ、いろいろあるが、とりわけ、ナチス時代の映画を系統的に観ているのは著者の強みで、これらをきちんと紹介している珍しい本といえるかもしれない。

 僕が、ナチスの映像に出会ったのは、小学校の時にTVで観た「コンバット」と「20世紀の記録」というドキュメント、「少年マガジン」「少年サンデー」に登場するフォッケウルフやユンカースなどの戦闘機やタイガー戦車のイラスト、そして母親の「民族の祭典」に関するすべらない話だった。

 「コンバット」では、ドイツ軍は敵であると同時に、しばしば同じ戦場で戦うことになってしまった人間同士、あるいは同じように故国に家族や恋人がいる人間として描かれていた。敵にも慈愛を注ぐサンダース軍曹の男気に義侠心を学んだのだ。ドイツ軍はどちらかというと闇雲に撃ってくるだけで、知恵がなく間抜けな軍隊として描かれていた。だから、ナチスを悪とは感じなかった。「20世紀の記録」は戦争の記録映像で、演説するヒトラーの姿もこれで観た。フォロコーストのこともたぶんこの番組で知ったのではなかったか。

 母親からは、女学生時代にヒトラーはアイドル的存在であったことを聞き、「民族の祭典」を観た時の興奮というか、ギリシャ彫刻が生身の裸の人間にかわる映像に、男子生徒が興奮しまくりだったり、ヒトラーが登場するたびに女子がこれまた嬌声をあげたことが面白おかしく語られ、なんでも「民族の祭典」というだけで、当時の高校生は笑い転げたのだとか。以来、僕にとって「民族の祭典」は、母親のすべらない話として記憶されてきたのだった。おまけに、「日の丸だー、トリコローレだー、ハーケンクロイツだー」といった歌詞の三国同盟の歌といような歌を歌ったりしてね。

 さらに、「マガジン」「サンデー」に描かれる小松崎茂などのドイツ軍の戦闘機、戦車などの挿絵は、他を圧倒するかっこよさだった。カギ十字のマークもデザイン的に視覚を魅了した。タミヤ模型のプラモデルの箱絵に描かれた戦車やそこに並走するドイツ兵の軍服のかっこよさ、少年たちはみんなドイツ軍のファンだった。
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死刑囚はグラントリノに乗ってスカイラークを歌うイーストウッド三昧の日々

2009年05月26日 | 映画
 新宿のバルト9。ネットで座席を予約することができる。かつて席とりにダッシュした身としては何かが違うと敬遠していた。同じ映画なら歌舞伎町のきれいとはいえないロードショー館を選んでいたが、クリント・イーストウッド監督「グラントリノ」は、バルト9とピカデリーにかかっていた。ならばと、バルト9の席をネットでとり、「グラントリノ」にご対面。ホテルや飛行機、列車の予約はネットが当たり前なのに、映画というと、なぜか旧態依然の振る舞いになるのだが、まあ、気に入らないけどなかなか便利ではある。

 この映画に出てくるグラントリノとは、フォード社の1972年グラントリノスポーツ2ドアファストバック・ハードトップのこと。排気量7,000ccという超マニアックな車らしいのだが、映画の中で走るのはエンディングだけで、モン族の少年が運転してスクリーンの向こうへと走り去る。ここにかぶるのが、イーストウッド自らが歌うテーマ曲だ。「グラントリ~ノ、グラントリ~ノ」と、幽霊が歌うように低くしゃがれた声で響く。イーストウッド演じるウォルト老人は、自らの命を犠牲にして少年たちの争いに終止符を打つのだが、モン族の少年にグラントリノを譲ったことが、まるでうらめしいといわんばかりに、ウォルト老人が幽霊となって歌っているように思えてならないのだ。

 イーストウッド映画の中で数多登場する十字架の記号だが、この映画で、ついにイーストウッドは自ら十字架と化す。胸に鉄板など入れていないぞ。立ち上がって反撃することもないぞと、ご丁寧にも弾丸が背中を貫通するところまで見せる念入りな演出で、ウォルトの死を告げる。葬られたのはウォルト老人なのか、ダーティ・ハリーなのか、俳優クリント・イーストウッドなのか。肺の病により死期を意識した老人は、復讐、制裁というアウトローの選択ではなく、贖罪と自己犠牲の証として自らの命を投げ出すことでモン族の不良少年たちに、法による裁きをあたえるという犠牲的な精神を発揮する道を選択した。しかも自らの肉体を十字架に化身させて。

 決闘に向かうガンマンよろしくバスタブで身を清めるシーンを挿入する念の入れようで、ならば、グラントリノで乗り付けてコルトをぶっ放すのかとも思いがちだが、やらない。こんなイーストウッドの映画は観たことはない。だが、吐血のシーンでウォルト老人の命がそう長くないことを暗示させているので、いつものように拳銃をぶっ放さなくても、観るものはこの選択に納得することになるだろう。恐らくお得意の早撮りでこの映画も仕上げたのだろう、そんなテンポのよさが伝わるまぎれもない傑作である。

「グラントリノ」の余韻に浸りつつ、「ブックオフ」でダイアナ・クラールの1999年のアルバム「ホエン・アイ・ルック・イン・ユア・アイズ」の未開封が1,250円だったので購入。このアルバムには、イーストウッド監督「トゥルー・クライム」の主題歌「ホワイ・シュッド・アイ・ケア」が入っている。この曲がとてもいい。映画は未見だったので、早速DVDも購入。これが、またまた傑作だ。死刑執行までの限られた時間のなかでその無実を証明していくという絶妙のサスペンス。だからこそ、ラストのクリスマスのシーンで、夜の街をスクリーンの向こうに去っていくイーストウッドのうしろ姿に、これまた絶妙のタイミングでかぶる「ホワイ・シュッド・アイ・ケア」に泣けるのだ。

 CDのライナーノーツだったか何かで、イーストウッドはダイアナがお気に入りで、「トゥルー・クライム」の前作「真夜中のサバナ」でダイアナを使ったとあった。これも早速DVDを購入(紀伊国屋ではいま20%オフ)。でも、実際の映画には出ていない。サントラ盤で「ミッドナイトサン」を歌っていたのだった。「真夜中のサバナ」は、「スカイラーク」などのスタンダードナンバーで知られるジョニー・マーサーの出身地サバナが舞台とあって、全編にマーサーの曲が使われている。イントロから「スカイラーク」がテーマ曲のように流れ、劇中で、娘のアリソン・イーストウッドが「降っても晴れても」を歌ったりする。イーストウッド映画には、本筋とあまり関係のないが、ああ、これがやりたいのね、というようなシーンがよくある。「グラントリノ」なら、床屋で少年に男の振る舞いを教えるシーンとか、この映画は、そのどうでもいいけど、やりたいのだろうというシーン満載の映画で、勝手気ままに作ったサスペンスのないサスペンス映画なのだった。

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あえて女性監督による活劇だから「K-20 怪人二十重面相・伝」を支持

2008年12月24日 | 映画
 昭和の人間にとって天皇誕生日というと4月29日なのだが、お腹の具合が芳しくなく風邪かなと思いつつ、いつも空いているわが街の映画館にノスタルジックな映像が話題の「K-20 怪人二十面相・伝」(佐藤嗣麻子監督)を観に行った。予告編で観たら意外と面白そうだったからだが、二十面相のマスクが「Vフォー・ヴェンデッタ」みたいだとか、ワイヤーアクションが「スパイダーマン」や「バットマン」のようだとか、まあいろいろあるけれど、デジタル映像や美術、舞台装置も含めて日本映画によくある貧乏臭さがない点を評価したい。例えば、松たか子の家は、エミール・ガレ風のスタンドが置かれたアールデコで統一、明智の家はバウハウス的モダンといった徹底ぶり。オープニングタイトルのアニメとジョン・ウィリアムズ風オーケストラによる音楽も、その後を期待させる拵えでなかなかよいではないか。

 監督と脚本は、TVドラマの脚本などで活躍している佐藤嗣麻子の初作品。太平洋戦争を回避した日本の1949年の帝都が舞台という時代設定、これを「ALWAYS」のスタッフによるデジタル映像や上海でのロケーションなどがうまく支えて、結構面白い仕上がりになっている。サーカス団員の平吉(金城武)が泥棒修行をするため、地図上に引いた直線の道をひたすら走るという難題をどうアクションとして見せるかと思ったが、これはスタントを使った背面からの撮影と上海あたりの街並みをうまく使ったヤマカシ的アクションで処理している。とくに落下ということに監督がこだわってアクションを展開していることにTV出身の最近の馬鹿男監督たちとは違う、映画を撮ろうという意気込みが見えた。さりげなく「帝都物語」の島田久作がお嬢様のデザイナーで出てくるあたり、帝都ものにはこの長い顔が必要と心得ているのだろう。

 これはロングショットで露呈したことだが、明智小五郎役の仲村トオルは、立ち姿も歩く姿も(セリフも)全くダメ。さらに兵隊たちの黒いマスクや間抜けな動作、これらの集団のアクションシーンが緊張感のないもので興ざめだった。最近のハリウッド映画が拠りどころになっているのが気になるが、活劇に熱心な女性監督が日本に出てきたことは大いに喜んでいいのではないだろうか。ただ、今後も活劇を撮るかどうかは分からないけどね。

 そんなわけで映画は結構楽しめたのに、帰ってみれば熱など出し、風邪薬を飲んで早めに寝た天皇誕生日だった。
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地球に落ちてきたデッドマンは金髪がお好きな将軍たちの夜

2008年12月17日 | 映画
 ジム・ジャームッシュ監督、ジョニー・デップ主演「デッドマン」をDVDで観る。「ダウンバイロー」でもそうだったが、ジャームッシュにあって川と船は、エクソダスへ誘う装置のようでもある。デップ扮するウイリアム・ブレイクという名前の会計士を助けるインディアンのゲイリー・ファーマー(漫才の東京ダイナマイトの太ったほうに似ている)が実にいい。ディッキンソン社長役のロバート・ミッチャムなど、出てくる男たちのみごとな存在感を楽しもう。

 ウイリアム・ブレイクは18世紀イギリスの詩人。「ドアーズ」のジム・モリソンなどが影響されたとか、ロック・アーチストにけっこう人気な詩人だが、この映画でも、インディアンのノーボディがデップを助けるのも、ブレイクの詩に救われた経験があり、デップ扮する会計士ブレイクを詩人と思ったからなのだった。呪文のように口ずさまれるブレイクの詩。映画そのものがブレイクへのオマージュといわれているけれど、ブレイクをしっかり読んだことがないので、よくわからない。

 ハワード・ホークス監督、ジェーン・ラッセル、マリリン・モンローのグラマラス・コンビ主演「紳士は金髪がお好き」、ニコラス・ローグ監督、デビット・ボウイ主演の「地球に落ちてきた男」をDVD、アナトール・リトヴァク監督、ピーター・オトゥール主演「将軍たちの夜」を録画で観る。

「紳士は~」は、むしろ「淑女はお金が大好き」というタイトルの方が合っているかな。カメラを意識させないショットのつなぎのみごとさよ。ローグの映画はやはり退屈。ラストの「スターダスト」が誰の演奏だったか知りたくてDVDを買ってしまったのだが、やはりアーティ・ショー楽団の演奏だった。この頃のボウイはやはり人間離れした顔をしている。

「将軍たちの夜」はワルシャワの反ナチ勢力を掃討するため、オトゥール扮するエキセントリックなタンツ将軍が、ベンツのオープンカーに立って指揮し、その背景の建物に火炎放射器の炎を放たれるシーンが秀逸。美術がアレクサンドル・トローネ、そのセットがすばらしい。

 ひさびさにミステリーなど読む。トム・ロブ・スミス著「チャイルド44」。面白いとの評判どおり一気読みだったが、ラストの失速が不満。スターリン圧政下のソ連が舞台、しかも1953年の話というところがミソ。スターリン独裁下のソ連ものは、粛清社会という過酷な現実にいかに抗うかがポイントとなるので、ナチものと同じでどうしたって面白くなる。極貧の村に生まれた兄弟、残酷な子ども殺しの連続殺人事件、嫉妬深く無慈悲な同僚に執拗に痛めつけられる主人公、愛情のなかった夫婦の再生などがからみ、読み応えは十分。表紙のイラストもよい。

 村上もとか著「龍(ロン)」が14巻までになった。750円×14で10,500円かかっているわけだが、日中戦争期の日本、中国を舞台にした歴史大河漫画で、なかなか読み応えのあるおもしろい漫画だ。14巻で舞台は上海から満州へと移るのだが、毎月2冊ずつの文庫化が楽しみの一つになっている。

 景気悪化著しく、暗い新年になりそうな気配だが、こんなときはアキ・カウリスマキの貧困3部作、「浮き雲」「過去のない男」「街の灯り」を観るべし。
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「昼顔」でも「夜顔」でも変わらない「変わった男」

2008年10月28日 | 映画
 WOWOWで録画したマノエル・ド・オリヴェイラ監督「夜顔」とルイス・ブニュエル監督「昼顔」を観る。

「昼顔」の40年後を描いたのが「夜顔」。当然だが、「昼顔」を見ていないと「夜顔」は分からない。ミシェル・ピッコリ演じるアンリは、40年たってもやはり「変な男」だった。「昼顔」でセブリーヌの客になる東洋人が持っていた小箱の中には何が入っていたのだろうか。「夜顔」の40年後の再開で、アンリは意地悪くこの小箱を「昼顔」ことセブリーヌにプレゼントしようとして、拒否される。きっと芋茎が入っていたのではないかと想像するのだが、それは、セブリーヌが東洋人とのまぐわいで、始めて経験したことのない快楽を得たからだ。このときのカトリーヌ・ドヌーヴの快楽の余韻に浸ってベッドにうつ伏せに横たわる虚脱な肢体、白の下着の上は着けて下は着けていない淫靡な姿がすばらしい。セブリーヌに恋慕してしまう若い男が警官に撃たれ路地に倒れるシーンはゴダールを意識してのことか。

「夜顔」で自らアル中と称する嫌なじじいアンリを演じるピッコリがいい。グラスに注がれたウイスキーを待ちきれないしぐさが絶品。40年経ってもアンリはセブリーヌとまぐわいしたかったのではないか。アンリとセブリーヌが40年後に再会するというだけで、そこに何かが起こるだろうという視線が画面に注がれる。セブリーヌが最も嫌がる男アンリを生き延びさせて、同じように意地悪をさせる映画を作る100歳オリヴェイラ監督も相当すごいじじいだ。バーのカウンターで向かい合うアンリとバーテンの会話という退屈なシーンを、鏡を使いながら3回とも別のアングルで見せて楽しませてくれるのだった。
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あえてゾンビ映画と呼びたい「トウキョウソナタ」に涙する

2008年10月15日 | 映画
 黒沢清監督「トウキョウシナタ」は、まぎれもないゾンビ映画の傑作なのだが、ラストでドビュッシーの「月の光」を1曲まるまる演奏するシーンは感動もので、あふれる涙がとまらなかった。

 音大の付属中学を受験した次男(井之脇海。この子役は天才的)がその実技試験で演奏するのだが、演奏が進むにつれて、試験会場にもかかわらず次々と聴衆が集まってくるというシーンで、それだけで次男のピアニストとしての非凡な才能を表現しており、何よりも洋館風な高い天井の部屋の窓にかかる黒沢監督お得意の白いカーテンが風に揺れ、少年のピアノを弾く指がしなやかに鍵盤の上をすべる、その運動感がすばらしい。あえていえば家族の再生への希望を暗示するシーンとして、観るものに安堵感をあたえもしよう。だが、そもそも「月の光」は18歳のドビュッシーが人妻に捧げた曲とも言われ、この映画でもあるいは少年からピアノ教師(井川遥)への愛のメッセージとして機能しているのだと思いたい。教え子の演奏をみつめるピアノ教師井川遥の丸い顔は、まるで月のようではないか。

 家族の再生を描いた映画というキャッチフレーズにだまされてはいけない。確かに4人家族が登場するのだが、これほどいいかげんな物語を平然と映画にしてしまう監督も他にはいない。北野武の「監督ばんざい」のいいかげんさはいいかげんそのままだが、あたかもリアルな現実を描く素振りでいいかげんなことをやっている、それゆえゾンビ映画になっているのが「トウキョウソナタ」であり、微妙に現実をずらしたSF映画と呼べるかもしれない。

 この映画がゾンビ映画であるのは、アメリカ軍に入隊し中東に行って不在の長男(小柳友はブラザートムの息子だと)を除き、夫(香川照之)と妻(小泉今日子)と次男、いずれもがそれぞれが遭遇あるいは選択する犯罪をきっかけに、擬似的な死を経験することでこれまでの人生を一度清算し、新しい出発に向かおうとするからである。長男も一度米兵となって戦場で人を殺す体験をし、別の国際貢献のあり方があることに気づいた旨の手紙を送ってくるので、家族が全員同じ日に再生の道を歩み始めることになる。とりわけ車に轢かれた夫が昏倒した道端の枯葉の中から起き上がるシーンはゾンビそのままではないか。妻の小泉今日子も夜の海岸の波打ち際に、溺死体のように大の字に横たわってしまうのだが、何よりも、いくら才能があるとはいえピアノを習い始めて数カ月でドビュッシーをみごとに弾きこなす子どもはお化けかもしれないのであって、一度死んだ家族が再生するその象徴的場面が、最後の「月の光」のシーンなのだった。

 テーブルの上の新聞紙が風に吹かれて床に落ちるファーストシーン、父と子が帰宅途中に無言で出会う家の近くのY字路、夫の会社の窓に映る風に揺れる垂れ幕のようなものの影のゆらめき、長男が2人乗りのヤマハのスクーターで都内を疾駆するその疾走感、親子喧嘩のはてにみごとに階段落ちする次男、米軍に入隊するため空港バスで出発する長男を見送るシーン(絶対に長距離移動を思わせるバスでなくてはならぬ!)、青いプジョー207CC、カブリオレの開閉する屋根の装置としての運動感、暗い海に光線のように走る白い波の線の動き、海辺に立つ漁師小屋と思しき粗末な建物を照らす街灯などなど、あるものは、これから家族に起こる出来事を暗示する秀逸な場面として機能もしているのだが、ありそうなリアリズムなどどうでもいい大胆さで、映画的な運動感が躍動する「トウキョウソナタ」は、ありえない世界を描きながら傑作を作ってしまう見本のような映画なのだった。観るべし!

 ラストの余韻に浸りながら映画館を出て、夜空を見上げると、クロワッサンな三日月が輝いていた。
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お国のためなら2、3の犠牲なんて、「土呂久」は終わらない。

2008年09月09日 | 映画
 日曜日、等々力にある川崎市民ミュージアムで開催されている公害映画特集の1本「咽び唄の里 土呂久」(伊藤宏一監督/1976年)を観にいった。この映画の監督である伊藤さんは、仕事で20年以上前からお付き合いをさせていただいているが、こうした硬派なドキュメンタリーを撮っていたとは知らなかったし、さらにいま、次回作のための取材を始めていると聞いて、がんばる団塊おやじにいささか羨望の念を抱いたのだった。

「土呂久」は、宮崎県高千穂町の山村岩戸にある土呂久鉱山の公害問題を扱っている。ここでは採掘された硫ヒ鉄鉱を原始的な焼釜で焼いて、亜ヒ酸を製造するいわゆる「亜ヒ焼き」が行われていた。この過程で、有害なヒ素を含んだ煙が村を覆い、廃棄物から出るヒ素が地面や川に流れ込み、家畜、農作物への被害、村民への深刻な健康被害を与えたというもの。鉱山は廃鉱になったが、その後も放置された焼釜や廃棄物から垂れ流される鉱毒は、子どもたちの健康にも影響を及ぼしていた。

 土呂久の公害は、子どもの異変に疑問を持った土呂久の小学校教師の告発(1971年)により世間に知られることになったが、管理者である行政や鉱山会社の対応は、全国の公害問題を抱える自治体と同じで、実に不誠実なものだった。村民の訴えにニヤニヤと小ばかにした態度で臨む当時の宮崎県の役人たち。早くから健康被害を訴えていた住民に「農家の2、3つぶれても産業のない村に鉱山は利益をもたらす」とあからさまに発言する町長(村長?)など、この映画に記録された役人の姿は、いまも変わらない。「お上のやることに文句をいうな。小さな犠牲はしかたがない」なのだ。コンプライアンスだ、ロハスだと喧伝しても企業の姿勢だって基本的には変わっていなかろう。

 映画は、告発から1975年に土呂久の住民たちが宮崎県や鉱山会社を相手どって公害訴訟を起こすまでが記録されている。フィルムは裁判資料として買い上げられた関係もあって、この映画が一般に上映されるのは、数十年ぶりらしいが、その後、訴訟は1990年に和解が成立したものの、鉱山会社の責任は問わないことが条件となった。土呂久公害の認定患者は今年の調査で177人、存命者は50人。だが、公害認定に至る以前に、多くの住民、鉱山労働者(この中には朝鮮人強制労働者が含まれる)が鉱毒被害で亡くなっているのである。

 さて、映画の中でも少し触れられていたが、土呂久で製造された亜ヒ酸は、戦時中、毒ガス製造に使われ、中国大陸で国際法違反の毒ガス兵器として使用されていた。土呂久の住民たちも深刻な被害に悩まされながらも、非国民と罵られることを恐れ、環境の改善を訴えることもできず国策に従っていたのだという。この毒ガスを製造していたのが、広島県にある瀬戸内海の大久野島。ここでも当然ながら毒ガス製造工場で働いた労働者が健康を害し死亡しているが、さらに陸軍は、終戦時に、これらの違法な毒ガス兵器、材料を地中に放棄するなどの隠ぺい工作をしたのだが、これが戦後になって、たとえば広島市の出島東公園における環境汚染などとなって露呈したのだった(1973年に広島県が出島に毒ガス原料を埋設していたものが露出)。

 土呂久鉱山の公害問題は、公害だけでなく、毒ガス兵器、朝鮮人強制労働、環境汚染まで、実に多くの問題を含んでいる。映画「土呂久」は、公害というテーマと同時に、実はこの毒ガス兵器、戦争の問題を扱うつもりだったらしい。しかし、あまりの問題の大きさに断念したそうだが、その志は忘れているわけではなく、伊藤さんは「土呂久」から改めて再出発したいと語っていた。

 小川紳介、土本典昭、佐藤真といった公害を扱った優れた日本のドクメンタリー作家が亡くなっている今日、そして安直な日本映画が跋扈している志なき時代に、一撃をくらわす映画をつくってほしいと思うのだった。
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シネマな休日、20世紀少年は2度ベルを鳴らさない?

2008年09月08日 | 映画
 土曜日とはいえ、18時40分からの最終回ならきっと空いているだろうという予測どおり、わが街の映画館では「20世紀少年」(堤幸彦監督)も20%くらいの入りで観ることができた。原作漫画は超ベストセラー、それゆえ漫画と映画の比較があれこれいわれがちだが、映画はスクリーンに映し出された映像以外ではありえないのだから、漫画との比較などおよそ無駄なことだ。

 そもそも脚本に原作者たちの名前が入っていることが、原作の解体が困難であったことを感じさせる。そうした環境の中で、監督はよくやったという声もあるようだが、「徹底して原作に似せた」というように、映画であることを放棄し、敗北感を自ら制作意図として語らなければならないのだから、2作目からは監督を替えるべきだろう。無理なら3作目でもいい。ドリームワークスにでも頼むべきだろう。というより、コミックス22巻+2巻の大作という原作の長大さへの屈従と3回うまい汁を吸おうという製作者の目論見から、3部作というスケールになったのだろうが、これをせいぜい2時間半程度にまとめるのが映画人の腕ではないのか。世界征服を目論む邪悪なカルト教団と幼馴染を中心とした市井の戦士たちの戦いを描いた近未来冒険アクション、これでいいのだ。

 ところが、残念ながらこの監督には映画的な才能が欠如している。ヒーローと悪役の登場の仕方は冒険活劇ではいかにあるべきか、その思慮さえ欠いている。初めて「ともだち」が登場する集会でのサスペンスの欠如(それゆえカルト教団の不気味ささえ表現できない)、ロックコンサートでともだちが、空中浮遊というイリュージョン的な演出のなかで、さながら降臨するように登場するこの映画の中で最も重要なシーンの一つを、浮遊する足を背後からとらえたアップ(会場の聴衆は驚きの表情だが、映画の観客が驚く演出をすべきだろう)、同様の前面のアップ、引きの全身を入れたショットという、まったく緊張感のないショットでつないでしまうという安直さで処理してしまったこと、これにはガッカリだった。

 まあ、それほど期待していたわけではないけれど、「原作に似せた」というキャスティングはなかなか面白かった。とりわけトヨエツのオッチョ、石橋蓮司の万丈目は秀逸。誰が作曲したのかエンディングロールのバックにかかるケンジの歌がなかなかよい曲であった。

 この日は午後から、録画してあったルキノ・ヴィスコンティ監督「郵便配達人は2度ベルを鳴らす」を、夜中のBSで中原俊監督「コキーユ」を鑑賞して、けっこうシネマな一日なのだった。「郵便~」も「コキーユ」もいわば不倫もののメロドラマなのだが、「コキーユ」は中年のせつない恋を描いた儲けものの佳作。でも女性はこの映画はダメだと思う。徹底して男性目線のストーリーだもの。風吹ジュンがせつなくていい。ジュンちゃん演じる直子にとって同級生の浦山(小林薫)は、中学時代からのあこがれ。その思いが30年後に同窓会をきっかけに伝わり、やがて2人は一夜を共にする。妻と別れることを切り出す浦山に直子は、「あなたの幸せをこわすつもりはない、恋ができて私は幸せ、また同窓会で会えればいい」と幸せそうに語る。こんな男にとって都合がよすぎる不倫相手がいていいものか。いてほしい(風吹ジュンなら)。それ故、浦山は直子の死という制裁を受けなければならない。映画は、直子を失った浦山が、数年後(翌年?)の同窓会で直子を追悼する場面で人目も憚らず号泣するシーンで終わるのだが、僕も同じ立場だったら号泣するよと共感してしまう、それもこれも風吹ジュンの直子があまりにせつなくてかわいい(ちょっとこわい)からだ。そんな映画なのだった。
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「ダークナイト」の居心地悪そうなリアル・バットマン

2008年08月19日 | 映画
 新宿歌舞伎町のジョイシネマで「ダークナイト」を観る。バルト9に続き、靖国通りにピカデリーがオープンし、両館でこの映画はかかっているのだが、そして、きっと設備・音響とも新しいシネコンのほうがいいだろうことは想像できるのだが、環境の悪いジョイシネマのほうが空いているに違いないと思い、歌舞伎町で観ることにしたのだった。ねらいどおり、1割程度の入り。全米興行成績ナンバー1としては、ちょっと寂しかろうが、大画面を独り占めしているような気分は、こんな映画館でなくては味わえない。
 
「バットマン・ビギンズ」の続編でありながら、そして、2人の男に愛されるというヒロインでありながら、なぜ、ブルースの恋人レイチェルは、ケイティ・ホームズからマギー・ギレンホールに変わってしまったのだろうか。ヒロインとしておよそ魅力を欠いていながら、ブルースの恋人にして美人で聡明な弁護士という役柄は、どうしても似合わない(ギレンホール本人はコロンビア大学卒の才媛らしいが)と思わざるを得ないのだが、よくよく考えてみれば、だからこそ、監督のクリストファー・ノーランは、やすやすとこのヒロインを爆死させてしまうことができたのではないか。いくらマスクの下に顔が隠れているとはいえ、恋人レイチェルを失ったにもかかわらず、バットマンがあまり取り乱さない素振りなのは、それがギレンホールだからなのであって、そこに「ダークナイト」がリアル・バットマンたる所以があるのではないかと思ってしまう。

 そもそもタイトルにさえバットマンの文字は登場しない。だから、「ダークナイト」の中でバットマンは、常に居場所がなく、まるで画面の中で居心地悪そうに佇んでいたり、ビルの屋上でしゃがみこんでいたりして、決して感動的な登場の仕方もしないばかりか、最後には飛ぶこともできず落下してしまうのである。おまけにジョーカーの言葉を疑うこともなく信じてレイチェルの救出に向かったはいいが、そこにいたのはトゥーフェイスという間抜けぶり。まさに意表をつく登場の仕方と軽快な身振りで画面を蹂躙するジョーカーとは対照的だ。たとえば、起爆装置である携帯電話のキーを押しても爆破しない病院に一瞬イラつくジョーカーの背後で、絶妙の間で爆破が始まる病院の建物を、青空の見える奥行きのあるショットでとらえた画面ひとつで、ジョーカーの狂気はみごとに描かれてしまう。バットマンが唯一画面で存在感を発揮できるのは、飛翔するときではなくバットポッドで地を這うように疾駆するときであり、ビルの壁を使ってUターンするスリリングなショットさえ生み出すのだが、これさえリアル・バットマンの普通さの証明にしかならない。

 この徹底した解体ぶりはなんなのだろう。アメリカのとある大都市を思わせる白昼のゴッサムシティを俯瞰でとらえたショットで始まるこの映画は、このファーストショットでアメコミのヒーローものではなく、犯罪アクション映画であることを宣言する。続く銀行襲撃のシークエンスのカメラワークがすばらしい。しかし、極悪非道の異常な犯罪者と警察・検察が対決する犯罪アクション映画でありながら、はたして今回の悪の主役であるジョーカーの結末が、どうなったのかは不明という点で、悪を退治するカタルシスさへ味わえず、ラストシーンは正義のヒーローであることをやめたバットマンが、警察犬に追いかけられながらバットポッドと呼ばれる奇妙なバイクで闇の中に消えていく始末。「ダークナイト」の称号は与えられたが、その後姿に悲哀がただようリアル・バットマン、この姿は子どもには見せられない。
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そして、川は流れ、船は行く『長江哀歌』

2008年08月11日 | 映画
 WOWWOWで、ジャ・ジャンクー監督『長江哀歌』を見ることができた。

 顔を見れば、まるで漫才コンビ「次長課長」の河本に似たジャンクー監督の顔なのだが、だからというわけではあるまいが、実際、この映画のここかしこに絶妙な間でしかけが挿入されていて、ダム建設で水没する古都の市井の人々を描いた映画といったリリースのされ方とは異なった映画的魅力に溢れた作品なのだった。

 例えば、妻を探す男サンミンの宿にいきなりやってきて煙草をふかして退室する少年、あるいはこの少年が、どさ周りの芸人の子どものように歌謡曲を歌うショットで始まるシークエンス。サンミンが妻の兄の船を訪ねたとき、操舵室に順繰りにやってきてフレームに無理やり納まるようにして不自然な姿勢でそばを食べる船員たちの滑稽さ。チョウ・ユンファをまねて札の代わりに新聞のきれっぱしに火をつけてタバコを吸うマークと自称する男とサンミンの会話のシークエンス。解体されたビルの瓦礫をバイオテロの後始末をするように消毒して回る白装束の消毒服の男たち、あるいは、サンミンが働く歩きにくそうな瓦礫の工事現場に響く槌音のリズミカルな響き。宿屋の女将がサンミンに女を紹介するといって、壊れたビルの柱の陰から次々と現れポーズを取る主婦売春の女たちのあまりの普通さ。夫を探す女シェンホンが身を寄せる夫の友人の家の窓から見える景観を無視したモニュメントがいきなりロケットになって飛翔して消える荒唐無稽なショット。そして、ラストで山西省に帰るサンミンが足を止めて眺める先に見える、解体途中のビルとビルの間を綱渡りする男などなど、これらは、中国のアンゲロプロスとたとえられもする、映画の通奏低音のようなゆったりとした長回しのカメラの動き、主人公2人の歩行のリズムとは異なって、観るものの意表をついて画面に緊張と弛緩を生み出すのである。

 ジャンクー監督は、こうした意表をつく振る舞いで、世の中が若くして巨匠とさえ呼んでしまうことから自らを遠ざけようとしているのではないだろうか。だから、失われていく奉節の風景と人々への感傷などにひたっていない。サンミンとマークの会話の場面で、「この街に今は似合わない」と格好を付けて言うマークがコミュニケーションの手段にしているのは携帯電話であり、2人は着信音を披露しあうほど意気投合する。サンミンがヤオメイの住所を記しているのは、古い煙草のパッケージの裏で、表にはマンゴーの絵が書いてあるらしく(その意味は中国通でないとよく分からないのだが)、サンミンとマークがその絵をめぐって会話するこのシークエンスは、唯一この映画でサンミンが笑顔を見せる場面でもある。だが、やがてその着信音によってマークの死が分かるという残酷な場面もジャンクー監督は用意しているのだった。

 三峡ダムの建設によって次第に水没していく運命にある古都・奉節は、移住によって人々を故郷から追放する一方で、ダム建設や水没する街の解体作業のために多くの日雇い労働者を受け入れる街でもある。異常な経済発展に奔走する中国社会の縮図のようなこの街で、シェンホンは、この街に出稼ぎに来て、音信不通になっている夫を探す看護婦の妻、一方、炭鉱労働者サンミンは、帰郷したまま帰らない売買結婚で得た妻ヤオメイを探しにこの街に来た寡黙な夫。だが、すでに妻が住んでいた場所は水没しており、妻は出稼ぎのため街を出て行ってしまっている。長江が運ぶ人々の運命。シェンホンは、この街で社長と呼ばれ愛人のいる夫と別れ、新しい人生を踏み出す決意をして長江を下る。一方のサンミンは、日雇い労働者仲間と故郷の山西省にもどり再び炭鉱夫として働く決意をして埠頭へと街を下るところで映画は終わる。たびたび挿入される高い丘の上から長江とその渓谷を俯瞰するショットが美しい。

 烟、酒、茶、飴という名前のついた4つの章に分かれて物語は展開し、それぞれが、人と人をつなぐ媒介物の役目をもっている。烟、酒、茶、飴は、いずれも口唇によって機能をはたすことができるが、それらはまるでキスの代替物であるかのように愛情や友情の交換のための役割を果たすのである。シェンホンが夫の住んでいた部屋の棚から故郷山西省のお茶のパッケージを見つけるところから始まる「茶」の章、そこにシェンホンの揺れ動く心情が簡潔に描かれる。あるいは、のどの渇きというより、人生の渇きを潤すようにひたすらペットボトルの水を飲むシェンホンが、夫の友人の家で、ブラウスの襟もとを広げながら扇風機の風をからだに当てるショットには、シェンホンという女性の孤独感がみごとに表現されていた。

 『長江哀歌』では、何よりも、過剰にコントラストの強い画面が、登場人物たちの表情さえ黒く隠してしまうし、2人の主人公サンミンとシェンホンは常に無表情である。だが渓谷と長江の水をたたえた風景は、山水画のように主人公たちの背景にあって、常にエレジーを奏でているようでもあるのだった。


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