私は戦争を望みます

2007年01月07日 | Weblog
かれこれ十数年もフリーターを続け、結婚どころか親元に寄生して自分ひとりの身ですら養えない現況は耐え難い屈辱である。
しかし、世間は平和である。平和という言葉の意味は「穏やかで変わりがないこと」つまり「今現在の生活が全く変わらずに続いていく事」である。

「就職して働けばいいではないか」と世間は言うが、その足がかりはいったいどこにあるのか。大学を卒業したらそのまま正社員になることが「真っ当な人の道」であるかのように言われる現代社会では、まともな就職先は新卒のエントリーシートしか受け付けてくれない。ハローワークの求人は派遣の工員や、使い捨ての営業など、安定した職業とは程遠いものばかりだ。安部政権は「再チャレンジ」などと言うが、我々が欲しいのは安定した職であって、チャレンジなどというギャンブルの機会ではない。

NHKの「ワーキング・プア」の放送に登場した妻の葬儀代100万円を貯蓄している老人が、その貯蓄がある故、生活保護が受けられない、と同情的に紹介されていたが、ではそもそも妻も持てない、100万円の貯蓄など夢のまた夢でしかないフリーターに尊厳などあるのか。

結局、「平和な安定した社会」を維持することは、これまでより多く消費してきた高齢者は同情され、少ない消費しかしてこなかった若者は貧困でもかまわないという考え方に繋がる。また、若者に仕事を譲ろうとすれば、誰かの生活レベルを下げなければならない。持ち家で仲良く暮らしている家族に「家を売ってください。離婚してください。」とは言えないだろう。一方で最初からシングルでアパート暮らしの人間に結婚して家を買えるだけの賃金をあたえないことは非常に簡単だし、良心もさほど痛まない。だから、社会は、それを許容する。

「平和な社会を目指す、維持する」という一見きわめて穏当で良識的なスローガンは、こうして社会を固定化する。

であるのなら、いっそ戦争が起こればいい。戦争が起これば、既得権益者である老人や、持ち家があり、家庭のある人も死ぬだろう。人が沢山死ねば、社会が流動化し、そこで初めて若者にも既得権益が解放されるだろう。

だから、私は戦争を望みます・・・

しかし、それでもと思う。
それでもやはり見ず知らずの他人であっても、我々を見下す連中であっても、彼らが戦争に苦しむさまを見たくはない。だからこうして訴えている。私を戦争に向かわせないでほしいと。

   (月刊論座1月号、赤木智弘氏の論考より)

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