夢をかなえる新聞・聖教新聞 -人間革命の指針-

聖教新聞は夢をかなえる新聞です。その中より「新・人間革命」、名字の言、体験から夢をかなえゆくための指針をつづります。

リアル・ワールド(現実世界)を体感すること――それが学ぶということ 11/20

2011-11-20 22:56:08 | 名字の言
母は送迎バスを断った。幼稚園までの道のりを子どもと一緒にゆっくり歩く。片道約30分。それは〝宝石のような時間〟となった▼ススキの穂が朝日に輝く。雪道は遊びの舞台だ。桜吹雪を身に浴びた。あじさいの花のカタツムリにエールを送る。四季の移り変わりを心豊かに味わいながら、母子は通った▼子どもは風邪もひかず、元気に育つ。小学生のとき、市のサッカーチームに選ばれた。中学校では、いつもトップクラスの成績。学級委員もしっかり務めた。「いっぱい歩いて育てたおかげで体も丈夫、心も丈夫」と、母は明るくほほ笑んだ▼一方で、驚くような話も知った。有名大学の学生に、推定可能な数値を問うたというのである。東京―札幌間の直線距離は? 「30㌔!」。一円硬貨の直径は? 「5㌢!」。正解は約800㌔、そして2㌢。1㌔の距離も歩いたことがないのだろうか。物差しを使ったことがないのだろうか▼リアル・ワールド(現実世界)を体感すること――それが学ぶということだろう。バーチャル(仮想)な感覚をいくら肥大化させても、人生の真の豊かさは得られまい。「世界を知る」とは教科書の知識を暗記することではない。季節の風と光を、わが身に浴びることから始まる。(裕)

東日本国際大学(福島県いわき市)の石井英朗学長に話を聞く機会があった 11/19

2011-11-20 22:55:22 | 名字の言
東日本国際大学(福島県いわき市)の石井英朗学長に話を聞く機会があった。同大学は若き日の戸田第2代会長が在籍した開成予備学校(夜間)の系譜に連なる▼3月12日、同大学から直線距離で30キロ余にある福島第1原発で爆発事故が起きた。約130人の留学生は異国で遭遇した大惨事に動揺した。無理もない。彼らの不安を取り除きたいと、学長は避難先の確保に奔走。だが、文化や生活習慣の違う外国人を一手に受け入れてくれるところはなかった▼学長の苦悩を知った創価大学は即座に受け入れを表明。14日早朝、福島県を出発したバスは14時間をかけ創価大学に到着。不安と疲労に打ちひしがれた彼らを、教職員らが総出で迎えた。その後、母国で無事を祈る家族に連絡できるよう国際電話が提供された。1本の電話が、海の向こうの家族をどれほど安心させたことか▼「英知を磨くは何のため 君よ それを忘るるな」とは、創価大学のブロンズ像に刻まれる創立者の文。「何のため」――その答えは、ただ「民衆の幸福のため」である▼人の痛みに同苦し、どうすれば、目の前の悩める人に手を差し伸べられるか。常に考え、心を砕き、行動で表す。これが、81年前の源流から流れ通う「創価の心」である。(城)

学会本部が東京・信濃町に移転して58年を迎える 11/18

2011-11-20 22:54:44 | 名字の言
学会本部が東京・信濃町に移転して58年を迎える▼「率直に申しますと……学会員の人達はすぐに分かりました」「失礼ですが、どなたも服装は粗末で、特に、男性の人は皆、ズボンの折り目がなくなって……」。移転当時を、地域の名士が振り返っておられた▼しかし続けて「今では見違えるように立派になっておられる。颯爽と歩いておられる皆さんの顔色、目の輝き、服装を見て、これが本当に信仰の賜物だな、と」(『新・信濃原の郷土史』本社刊)。総本部建設の準備が進む中、信濃町を訪れる友の姿は、迎える菊花に照らされて一段と晴れやかに見える▼牧口初代会長は67年前のきょう、獄中で妙法に殉じた。昭和28年11月、信濃町の新本部に移った戸田第2代会長は、自身の会長室よりも立派な部屋を“牧口先生の部屋”と定め、師の写真を飾った。後を継いだ池田第3代会長は、自身が指揮を執る本部は簡素な建物のままにとどめ、各地に「牧口」「戸田」の名を冠した大殿堂を築いていった▼無数の学会員が妙法の大功徳に浴することができた源には、この峻厳な師弟と広宣流布の魂が脈打っている。総本部の完成する2013年は、学会本部の信濃町移転60周年。大佳節へ、感謝とともに出発したい。(飛)

初雪の便りが各地から続々と届く頃 11/17

2011-11-20 22:53:30 | 名字の言
初雪の便りが各地から続々と届く頃。粉雪、泡雪、牡丹雪……雪にもいろいろあるが、その分け方は国や民族等で異なる。例えば、北極海沿岸に住むイヌイットの雪の分け方は100種類とも。雪の世界に暮らす彼らは、その質などを詳細に見分けて伝え合う▼音程には何種類あるか? ピアノの鍵盤の数は88だが、米イリノイ大学の実験によると、人が耳で明瞭に区別できる音の数は約1380だった▼物や事象の種類・区別は、それに対する感受性や観察力が強いほど、差異が細かく認識されるという(西村佳哲著『自分の仕事をつくる』ちくま文庫)▼人間の関係も同じことが言える。表情や振る舞いのわずかな違いは、相手を深く思うからこそ気付くもの。教育部の友が語っていた。「毎朝、校門に立っていると、子どもたちの表情の違いが分かる。元気良く挨拶してくれても、どこか昨日と違う。“お母さんに怒られてきたのかな?”とかね」。その眼差しに、深い慈愛があふれていた▼一人として同じ人間はいない。悩みも課題も千差万別。自分の経験だけを頼りに「あの人はこう」と決めつける拙速を戒めたい。じっくりと話を聞いて、相手を深く知る。そこから、その人に合った励まし方が見えてくる。(馨)

共戦7

2011-11-20 22:52:51 | 小説「新・人間革命」
 五月度本部幹部会を終えた翌十九日午後、山本伸一は、福岡の博多駅から、新幹線で山口の小郡駅(現在の新山口駅)に向かった。

 彼の山口県訪問は、一九六七年(昭和四十二年)三月に萩市、八月に下松市、防府市を訪れて以来、十年ぶりである。

 今回の訪問では、五月十日に落成した山口文化会館での勤行会などに出席する予定であった。

 伸一が、山口県入りした十九日は、三年前に開催された第一回県総会を記念して、「山口の日」と制定されていた。その時の県総会には、伸一は出席できず、メッセージを贈ったが、今回の訪問で、「県の日」の意義を、さらに深めることができればと考えていた。

 また、この七七年(同五十二年)は、山口開拓指導から二十年の佳節を迎えていた。

 山口開拓指導は、五六年(同三十一年)十月、十一月、翌五七年(同三十二年)一月にわたって、伸一の指揮のもとに実施された、広布史上に輝く大闘争である。

 全国各地から山口県に縁故のある同志が集い、果敢に弘教を展開していったのだ。当初は、四百数十世帯しかなかった山口県の会員世帯が、この三回の開拓指導で四千世帯を超え、約十倍の大発展を遂げたのである。

 以来二十年、開拓魂を打ち込まれた同志が核となって、山口県は大前進を遂げたのだ。

 自身の一切を注ぎ込む思いで、必死になって戦い抜いた体験をもつ人は強い。あの開拓指導に参加した同志は、懸命な祈りと執念の行動の力を実感し、広宣流布の新しい道を開く使命感、責任感を培い、信仰への絶対の確信を築き上げてきたのである。

 山口県に向かう車中、伸一は思った。

 “今回の山口県滞在は、三泊四日である。短期間ではあるが、山口県の同志が、二十一世紀への飛躍の力を培う、第二の山口開拓指導としなければならない。一人ひとりの胸中に、いかなる困難にも負けぬ、信仰の闘魂を、赤々と燃え上がらせるのだ!”

 彼は、ぎゅっと拳を握りしめた。

共戦6

2011-11-20 22:52:17 | 小説「新・人間革命」
 山本伸一は、このころ、各地で若手の壮年、婦人の県・圏幹部が数多く誕生していることから、年配の功労者への姿勢について語っていった。

 「創価学会が、はつらつと躍動する、世界的な大仏教団体として発展してきた陰には、幾十万人もの、無名の民衆である先輩功労者の尽力がありました。

 皆、暮らしも貧しいなか、足を棒にして弘教に歩き、それはそれは激しい、いわれなき中傷、批判にさらされてきました。それでも、ただ、ひたすら、広宣流布のために走り抜いてくださった。その方々がいらっしゃったからこそ、今日の、堅固な創価学会ができた。そのことを、若い幹部の皆さんは、絶対に忘れないでいただきたい。

 そうした先輩同志の方々のなかには、今は高齢のため、健康上の理由などから、組織の第一線を退いている人もおられるでしょう。しかし、立場はどうあれ、かつては言語に絶する法戦を展開し、仏の使いとして御本尊への御奉公を立派に果たし、広宣流布に献身してこられた尊い方々です。創価の先駆者、開拓者であり、永遠の宝の方々です。

 したがって、県長をはじめ、ライン幹部の皆さんは、そうした方々を、陰に陽に大切にし、また、尊敬の念を払って、人生の見事な総仕上げのために、温かい配慮をめぐらしていただきたい。

 本日、ご参集の皆さんも、二、三十年もすれば、大半の方々が、今の年配功労者と同じように、ラインの正役職を退き、後輩にバトンタッチしていくことになるんです。

 懸命に、創価学会を築いてこられた方々に対しては、たとえ第一線を退いても、広宣流布の最大の功労者として尊敬し、亡くなられたあともまた、その遺徳を後世に顕彰していく――これが、私の思いなんです。この最も尊く麗しい精神の流れを、これから、ますます強めつつ、共々に今世の使命を立派に果たし抜いていこうではありませんか!」

 会場は、賛同の大拍手に包まれた。

共戦5

2011-11-20 22:51:35 | 小説「新・人間革命」
九州平和会館での本部幹部会で、山本伸一は、広宣流布の流れは、草創期の「渓流の時代」から、今や「大河の時代」になり、やがて、二十一世紀に向かって「大海の時代」となっていくことを述べた。

 そして、広宣流布の活動は、時代の変化を見極め、その時代に相応した価値的な実践方式を創造していくべきであると訴えた。

 仏法という生命の大法も、創価の精神も、決して変わることはない。しかし、時代は、目覚ましい変化を遂げていく。したがって、研修会や会合のもち方、活動の在り方等については、常に工夫を重ね、新しい時代に即した、価値的な方法を考えていかなければならない。英知の輝きをもって、その責任を担い、永遠なる正法の興隆を図っていくことが、後継の人の使命である。

 さらに伸一は、会長としての自分の真情を語った。

 「私にとっての最大の願望は、皆さん方が信心即生活の正しいリズムを持続し、ますます健康になり、幸福で、大福運につつまれた長寿の人生を送ってほしいということです。そして、人生の総仕上げを立派に成し遂げていただきたいのであります。そのために、私は、生命を削って道を開き、戦い抜く覚悟でおります。

 また、皆さん方も、私と同じ心で、後輩の幸せのために、苦労し、汗を流し、戦っていただきたい。後輩から、『本当に幸せになれました。信心できてよかった』と言われる皆さんになってください。

 それが、幹部の責務であり、また、そこに、先輩としての幸福があることを、深く心に銘じていただきたい」

 伸一は、ここで、人材を育てることの大切さを力説した。

 「まず、優れた力ある一人の人材を育てていくことです。すると、その人を中心に、多くの人材、眷属が、必然的に集い、育っていきます。人の育成が遅れれば、結局、組織は弱体化し、一切が行き詰まってしまう」