夢をかなえる新聞・聖教新聞 -人間革命の指針-

聖教新聞は夢をかなえる新聞です。その中より「新・人間革命」、名字の言、体験から夢をかなえゆくための指針をつづります。

松下幸之助の積極主義

2008-03-31 11:11:41 | 小説「新・人間革命」
名字の言 3月24日

▼池田名誉会長と親交の厚かった松下幸之助氏は、万物が芽吹き、草木が躍動する春の様子を「積極主義」と評した▼いかに厳しい冬であろうと、「積極主義」で自然は成長し続ける。そうした弛まぬ自然の姿に惹かれた。氏は、何事もこの精神で事業に向かった。常に「新しく開業する気持で経営に当たりたい」。積極主義こそ「わが社の伝統の精神」と▼こうも言っている。「つねにみずから新しいものをよびおこし、よびおこしして、そしてなすべきことをなしてゆくという態度を忘れてはならない」(『松下幸之助実語録』)▼今、広布の庭で青年が躍動している。第2総東京のある新任の男子部の部長。毎週、必ず「対話の現場」をつくることを自らに課した。「常に動き、新しく生み出す気概をもとう」と。結果、就任2カ月で7世帯の弘教・拡大▼“これぐらいでいいだろう”という姿勢は、自ら壁をつくってしまうことに。たえず、どうすれば打開できるか、どうすれば発展できるか。その挑戦の連続の先に、勝利は訪れる。信心とは立ち止まることのない前進だ▼かつて名誉会長は句を詠んだ。「春が来た/桜が咲いた/君も立て」。まもなく新年度。春の訪れとともに、
勇躍の出発を誓い合いたい。(葉)

言い訳をしない生き方

2008-03-28 07:39:43 | 小説「新・人間革命」
ひとことでいえば、言い訳をしない、という真剣勝負の生き方が大切である。どんな立派ないいわけをしようとも、負けは負けである。ゆえに、何があろうとも、その場で、自分なりに、悔いなく、精一杯生きることだ。

そして、自らの力で、自らの運命を切り開いていくことである。自分のいるその場で勝て、これが仏法者の生き方である。

信心は行き詰まりとの永遠の闘争

2008-03-27 22:39:07 | 小説「新・人間革命」
「戸田先生が事業の再建のために苦闘されていた時代が、私にとっても、最も苦しい時代でした。健康状態も最悪であり、給料は遅配が続き、無理に無理を重ねていました。そして、先生とお会いしていた時に、つい弱音を口にしてしまったことがありました。その時、先生が、厳しく言われた言葉が忘れられません。

『伸一、信心は行き詰まりとの永遠の闘争なんだ。魔と仏との闘争が信心だ。それが「仏法は勝負」ということなんだ』

人生には、誰でも行き詰まりがあります。事業に行き詰まりを感じている人もいるかもしれない。夫婦の関係にも、行き詰まってしまうことがあるでしょう。子育てでも、人間関係の面でも、あるいは、折伏や教学に励んでいる時も、行き詰まりを感ずることがあるかもしれません。

しかし、御本尊の力は広大無辺であり、宇宙大であります。ゆえに、私たちの生命も、無限の可能性を秘めています。つまり、問題は私たちの一念に、行き詰まりがあるかどうかにかかっています。それを本当に自覚した時には、既に勝利の道が開かれているんです。

もし、行き詰まりを感じたならば、自分の弱い心に挑み、それを乗り越えて大信力を奮い起こしていく。戸田先生は、それが私たちの『発迹顕本』であると言われたことがあります。

長い人生には、信心なんかやめて、遊んでいたいと思うこともあるでしょう。病気にかかってしまうこともあれば、家族の死に直面し、悲しみに沈むこともあるかもしれません。それは、煩悩魔という行き詰まりとの闘争であり、病魔という行き詰まりとの闘争であり、死魔という行き詰まりとの闘争といえます。

それを唱題で乗り越え、絶対的な幸福境涯を開き、最高に意義ある人生を創造していくところに、仏法の最大の意味があります。ゆえに、何か困難にぶつかったならば、行き詰まりとの闘争だ、障魔との闘争だ、今が勝負であると決めて、自己の宿命と戦い、勇敢に人生行路を開いていっていただきたいのであります」

「人間革命―他者に貢献する人生への転換」

2008-03-12 06:47:19 | その他
第12回(シリーズ最終回)「人間革命――他者に貢献する人生への転換」

ジャパンタイムズ 2007年4月12日(木)

今年に人って、シカゴ大学にある「世界終末時計」が、五年ぶりに、二分進められた。現在は二三時五五分。人類滅亡を象徴する〝真夜中〟まで、あと五分に迫ったことになる。これは、北朝鮮の核実験や、イランの核開発問題とならんで、環境破壊と地球温暖化の進行が、深刻に受け止められた結果である。

この終末時計が設定された一九四七年の当時、人類の存亡を危うくする最大の脅威は、核兵器であると考えられていた。六十年を経た今、それに加えて、地球環境の問題が、未来に大きな影を投げかけている。もはや「待ったなし」の状況といってよい。

人類の未来に警鐘を打ち鳴らした、ローマクラブの第一次報告書「成長の限界」が発表されたのは、今から三十五年前であった。その三年後、私は、創立者のアウレリオペッチェイ博士とお会いした。

このままでは、二十一世紀は、自然も人間も破壊されて「不毛の地球」となってしまう。だが、世の指導者たちは、未来のことよりも、目先の利益を守ることばかりに汲々としている――。

ペッチェイ博士の憂慮は、誠に深かった。

この事態を打開するためには、どうすればよいのか。博士と私の意見は一致した。

「人間自身の革命が、まず何よりも必要である」と。

人類は、これまで幾たびも、革命的な変化を起こしてきた。農業革命、科学革命、産業革命、そして政治革命――。ただし、それらは、いうならば、人間と社会の外形的な変化であった。

「外なる世界」を操作する技術と力においては、飛躍的な発達を遂げてきたにもかかわらず、そうした力に見合うだけの精神的な跳躍を、人類はいまだに果たせていない。だからこそ、その巨大な力に翻弄され続けてきたのだ。

たしかに、長年にわたって、人類が獲得を目指してきたのは、生き延びるために物質的な必要を充足させることであったといってよい。
しかし、「大地はすべての人々の必要を満たすが、すべての人々の貪欲を満たしはしない」(マハトマ・ガンジー)。

人間の際限のない〝貪欲〟を原動力とするならば、物質主義の文明は人間のコントロールを離れ、人類は、地球という自らの依って立つ基盤すら浪費し、破壊してしまいかねまい。端的に言えば、人間のすべての営みは「幸福」の実現のためにある。その「幸福」を追い求めながら、かえって「不幸」へと転落してしまうのは、なぜであろうか。それは、本当の幸福でないものを幸福と見誤って追い求めるからであるといっても、決して過言ではあるまい。

「欲望の追求」と「幸福」とは違う。

もしも同じであると考えるなら、ソクラテスが譬えた「痒いところを掻き続けながら過ごす一生」が、幸福な人生となってしまうであろう。

ゆえに、快楽のみを追求する生き方から、より高次元の目標へと上昇していかないかぎり、本当の幸福をつかむことはできない。それは、より多くを所有することよりも、わが心の世界を、より豊かに、より大きくしていく道である。

「幸福」とは「充実」である。人間は自身のみならず、他の人々の幸福をも追求しゆくときに、いっそう深き充実をつかめるものだ。この〝自他共の幸福〟を目指す生き方こそ、「人間と人間」そして「人間と自然」の共生を実現する道ではないだろうか。

大乗仏教には、そうした人間像を求めて、「菩薩」が登場する。菩薩とは、自らの救いだけを追求するのではなく、自己の救済を差し置いてでも、悩める人々を救おうと、勇敢に行動する人々である。

菩薩にとって、他者に尽くすことは、そのまま自身の成長となり、喜びとなる。「自利」と「利他」は一体である。いな、利他なくして、真の自利もないのだ。

菩薩は地獄の苦しみを味わうことよりも、「利他の心」を忘れ去ることを恐れる。なぜならば、それは自らの存在意義を失うことを意味するからだ。菩薩と言っても、特別な人間を指すのではない。どんな人間にも、本来、貴き「菩薩の心」が具わっている。そう見るのが仏法の知見であり、生命観である。ゆえに、いかなる宗教や文化を背景にした人であれ、他者のために献身する人は、皆、「菩薩」なのだ。

他者に尽くすことは、誰にでもできる。どんな境遇にあってもできる。特別の肩書きも立場も、必要ない。

菩薩道とは、わかりやすく言えば「人を励ます生き方」である。それも、自分が傷つかない高みから、人々を励ますのではない。自らも苦悩の真っ只中に飛び込み、社会の汚濁に身をさらしながら、それでもなお生命の輝きを発光させ、人々に勇気と希望を贈っていく人生である。

その中でこそ、人間は、この世に生を受けた意味をつかみ、尽きせぬ幸福と歓喜に満たされる。

自分中心の生き方から、他者に貢献する生き方への転換――。これこそが「人間革命」だ。

人類が直面する危機の深刻さを直視しつつも、私は、いわゆる「終末思想」には与しない。恐怖に追い立てられてではなく、希望に導かれてこそ、人間は正しく前進していけると信ずるからだ。

「人間革命」こそ、希望のキーワードである。それは、万人に開かれた主体的な革命だ。一人の犠牲者も出さない革命といってよい。その変化の波は、一人から一人へと伝わり、拡大し、ある一点にまで到達したとき、劇的に地球社会を変革するであろう。

それは「今、ここから」――すなわち、私たち一人一人の心の中から始まる革命なのだ。

『先駆』とは、邪悪と戦う先駆

2008-03-05 22:34:26 | 随筆
何ゆえに、九州には、繰り返し、悪人や悪坊主が紛然として現れてきたのか。まさに、これこそ、大九州が邪悪な魔軍との攻防戦の主戦場であった証拠である。大聖人の受けられた大難について、「日蓮つよく法華経の敵を責るによて一時に聚り起せるなり」と御聖訓にある。広宣流布は、仏と魔との戦いである。ゆえに、仏の勢力が奮い立てば、魔も強く競い起こるのである。難があるから、信心が強くなる。魔と戦うからこそ仏の生命が現れるのだ。ともあれ、『先駆』とは、邪悪と戦う先駆だ!自らの戦いで魔を呼び起こしては、木っ端微塵に打ち破り、完勝の旗を高々と翻らせる! これが、わが九州の永遠の名誉の称号なのだ!

すべては強き決意の一念によって決まる

2008-03-05 22:33:28 | 小説「新・人間革命」
人生の戦いも、広布の活動も、すべては強き決意の一念によって決まる。敗北の原因も、障害や状況の厳しさにあるのではない。自己自身の一念の後退、挫折にこそある。山本伸一が会長に就任して以来、未曾有の弘教が成し遂げられてきた源泉も、彼の確固不動なる一念にあった。それは戸田城聖の弟子としての、誇り高き決定した一心であった。

「先生の構想は、必ず実現してみせる!」

それが、伸一の原動力であり、彼の一念のすべてであったといってよい。伸一には、障害の険しさも、状況の難しさも、眼中になかった。困難は百も承知のうえで、起こした戦いである。困難といえば、すべてが困難であった。無理といえば、いっさいが無理であった。人間は、自らの一念が後退する時、立ちはだかる障害のみが大きく見えるものである。そして、それが動かざる現実であると思い込んでしまう。実は、そこにこそ、敗北があるのだ。いわば、広宣流布の勝敗の鍵は、己心に巣くう臆病との戦いにあるといってよい。伸一は今、一人ひとりの一念の変革を成そうとしていた。人間革命といっても、そこに始まるからである。

第一 唱導之師の事

2008-03-04 08:41:05 | 御書
第一 唱導之師の事

御義口伝に云く涌出の一品は悉く本化の菩薩の事なり、本化の菩薩の所作としては南無妙法蓮華経なり此れを唱と云うなり導とは日本国の一切衆生を霊山浄土へ引導する事なり、末法の導師とは本化に限ると云うを師と云うなり、此の四大菩薩の事を釈する時、疏の九を受けて輔正記の九に云く「経に四導師有りとは今四徳を表す上行は我を表し無辺行は常を表し浄行は浄を表し安立行は楽を表す、有る時には一人に此の四義を具す二死の表に出づるを上行と名け断常の際を踰ゆるを無辺行と称し五住の垢累を超ゆる故に浄行と名け道樹にして徳円かなり故に安立行と曰うなり」と今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱え奉る者は皆地涌の流類なり、又云く火は物を焼くを以て行とし水は物を浄むるを以て行とし風は塵垢を払うを以て行とし大地は草木を長ずるを以て行とするなり四菩薩の利益是なり、四菩薩の行は不同なりと雖も、倶に妙法蓮華経の修行なり、此の四菩薩は下方に住する故に釈に「法性之淵底玄宗之極地」と云えり、下方を以て住処とす下方とは真理なり、輔正記に云く「下方とは生公の云く住して理に在るなり」と云云、此の理の住処より顕れ出づるを事と云うなり、又云く千草万木地涌の菩薩に非ずと云う事なし、されば地涌の菩薩を本化と云えり本とは過去久遠五百塵点よりの利益として無始無終の利益なり、此の菩薩は本法所持の人なり本法とは南無妙法蓮華経なり、此の題目は必ず地涌の所持の物にして迹化の菩薩の所持に非ず、此の本法の体より用を出して止観と弘め一念三千と云う、惣じて大師人師の所釈も此の妙法の用を弘め給うなり、此の本法を受持するは信の一字なり、元品の無明を対治する利剣は信の一字なり無疑曰信の釈之を思ふ可し云云。

祈りを叶えられる人になろう

2008-03-04 00:54:18 | 名字の言
ある会合で、婦人部の方の確信あふれる言葉を聞いた。「祈れば祈った分だけ、必ず結果がある」、だからこそ「祈りを叶えられる人になろう」と。祈りは、わが一念を大宇宙に響かせ、三世十方の仏菩薩や諸天善神を動かしゆく根源の力。祈りの結果はわが一念の反映である以上、格好だけの唱題や惰性、疑い、逃避の心では、本当の功徳はない。先日、来日したSGIの友も語っていた。「創価の信仰には、これまでの人生で実現できなかったことを実現する力があります」「信仰とは挑戦の異名です」。御書には「つるぎなんども・すすまざる人のためには用る事なし」(1124ページ)と。自身の限界突破へ、勇気を奮い起こし、懸命の唱題と行動に徹するなかに、勝利と前進の実証が刻まれる。妙法は、無限の希望の源泉。広布誓願・師弟不二の一念で、御本尊の宝塔に飛び込む思いで祈る時、汲めども尽きぬ智慧と確信、そして福徳と大歓喜がわきあがる。池田名誉会長は「祈りを続けていく。題目を唱えていく。行動していく。その信心が即『仏界』です。その信心が即『勝利』なのです」と語っている。

2005/11/12名字の言より