夢をかなえる新聞・聖教新聞 -人間革命の指針-

聖教新聞は夢をかなえる新聞です。その中より「新・人間革命」、名字の言、体験から夢をかなえゆくための指針をつづります。

『どうなるのか』ではなく『どうするか』

2009-10-08 00:40:35 | スピーチ・メッセージ
問題は『どうなるのか』ではなくして、諸君が『どうするか』にかかっていることを熟知していただきたい。実際の革命の実践面は、すべて社会へ展開した諸君の手にゆだねられ、諸君の知恵と情熱とが、局面を左右するのであります。

『浅きを去って深きに就くは丈夫の心なり』」(509ページ)という有名な一句がある。丈夫の心とは、われわれ凡夫においては信行学である。広宣流布によって、よりよき社会を作り出そうとする我々は勇気ある信心をもつならば、すべからく他人が困難と感じる分野へも決然と踏み込んで、そこへわが身をおくべきである、と私は思う。

このことは組織を担当するにあたっても、また将来、諸君が職業を選択するさいにも通ずる一つの原則ではないかと思う。人生の目的と職業の目的といった問題や、信仰と組織と社会の関係というような問題も、浅きを去って深きにつこう、という発心さえあれば、すなわち、この一念の強い姿勢さえあれば、しぜんに実践的に解決してくると訴えたい。

私の45年の人生を振り返ってみても、私は思索や思考にすがりついて、今日まで戦い抜いてきたのではけっしてありません。思索や思考も当然、必要であったが、より必要であったことは「深きにつこう」「丈夫の心でいこう」という決意の方であった。わが身を、まずそのようにおき定めることが、万事の原点である、私は思う。深きにつく、ということは、人生、社会に対する、そしてまた、人々に対する、そしてまた人々に尽くす偉大な姿勢でもあるし、自分自身の人間革命の原点の思想ともいえる。

そのように「深きにつこう」という〝境〟があれば、仏法という最高の法がある以上、そこで創造的な活力は発揮される。つまり、対境との対決において〝智〟と〝行〟とを発揮せざるをえなくなるともいえる。御本尊に祈り、しぜんのうちに自分自身の勝利をえたときには、同じく、しぜんのうちに、社会における自分の〝位〟というものが決まっていくものであります。

「広宣流布」は単なる“スローガン”ではない

2009-01-20 10:30:14 | スピーチ・メッセージ
「広宣流布」は、単なる“スローガン”ではない。言葉として、いくら高く掲げても意味はない。具体的に一歩一歩、実現していかなければ、大聖人が開かれた無上の幸福の「大道」を後世に広げていくことはできない。それではあまりに、大聖人に申しわけない。このことは戸田先生も、厳しくおっしゃっていた。

そして広宣流布は、この現実世界を舞台としての、魔軍との熾烈な闘争の連続である。正法の勢いが弱まれば、それだけ魔の軍勢が勢いづいてしまう。

ゆえに、現実のあらゆる局面において、「仏法は勝負」との証を示していかねばならない。闘争に闘争を重ね、勝ち抜いていく以外にない。個人の幸福も社会の繁栄も、着実な広宣流布の発展も、その上にしか築かれていかないからだ。

私どもにとっても本年は、ますます「正」と「邪」が明確になっていくに違いない。大聖人門下の誇りと確信に燃えて、誉れの広布の戦いに勇気凛々と臨み、堂々と勝利の栄冠を勝ち取ってまいりたい。

【第25回本部幹部会 1990-01-18 創価文化会館】

自分自身のカを開花させるには

2008-01-19 09:22:12 | スピーチ・メッセージ
自分自身のカを開花させるには、どうしたらいいのか。
戸田先生は、自身の小説『人間革命』で、主人公の「巌さん」に、こう語らせている。

「死物狂いで頑張っていると、次々に、自分になかった力が出てくる。
いや、持っているのに出さなかった力が湧いてるんだな」
本当に、その通りである。

「自分には無理だ」などと決めつけては絶対にいけない。
生命には字宙大の力がある。それを引き出すのが妙法である。
「必ずできる!」と固くく心に決めるのだ。
「一心不乱の祈りと行動」が、限界の壁を突き破るのである。

(平成16年8月 最高協議会スピーチ)

戸田先生が第2代会長に就任される道を命を賭して

2007-04-07 07:15:11 | スピーチ・メッセージ
この日の誓願を、“大楠公”の精神に託して、次のように日記に書き留めたのである。

「先生は、正成(まさしげ)の如く、吾れは、正行(まさつら)の如くなり。奥様は、落涙。此の日の、感動、厳粛、感涙、使命、因縁、生き甲斐は、生涯、忘るることはない。後継者は、私であることが決まった。 激越の、年も刻々と明けて来た。いかなる苦悩にも打ち勝ちて、男らしく、青年らしく、若人らしく、本年も戦いきろう」(『若き日の日記1』聖教ワイド文庫)

この日、この時の「師弟の誓い」のままに、私は、死にものぐるいで戦った。広宣流布の大師匠であられる戸田先生に、ただ一人、お仕えし、ただ一人、お守りし抜いた。これが学会の歴史である。師弟の本当の姿である。この一点にこそ、学会の魂があり、原点がある。

幹部であっても、戸田先生と苦衷(くちゅう)を分かつ者は、ほとんどいなかったといっていい。理事長を務めた人間までが、戸田先生を誹謗したのである。しかし、だれがどうあろうとも、私は心に決めていた。“断じて、戸田先生に、次の会長になっていただくのだ。そして、広宣流布の指揮を縦横無尽に執っていただくのだ”

私は祈った。先生のために。学会のために。激闘の中で祈り抜いた。丑寅勤行(うしとらごんぎょう)もやった。 もう寝ても覚めても題目。歩いていても題目。車の中でも、電車に乗っても、時間さえあれば、すべて題目。ただただ、題目を抱きしめて、この世の残酷な苦難をはね返し、戸田先生が第2代会長に就任される道を、命を賭して、切り開いていったのである。

師を護る城壁

2006-12-16 16:22:12 | スピーチ・メッセージ

 一、戸田先生は、その模様を描いた文章を残している。
 当時30歳0若き戸田先生は、時習学館(じしゅうがっかん)を経営する激務のなか、
牧口先生を慕う父母会や、各界の実力者などにも働きかけ、正義の牧口先生をお護
りする手を打っていった。
 ちなみに、.牧口先生の大著『創価教育学体系』は、戸田先生が自ら志願し、編集・
発刊の一切に携(たずさ)わった。この時、その題辞(だいじ=本の巻頭に記す言葉)
を、時の政友会(せいゆうかい)総裁であった犬養毅氏(いぬかいつよし=のちの首
相)に依頼したのも戸田先生である。
 そのようにして戸田先生は、敵たちが容易に手を出せないような城壁を、牧口先生
の周囲に固めていった。
 それは、陰謀を企てる連中に「戸田さえいなければ」と言わしめる、師子奮迅の戦い
であった。
 牧口先生を追い落とそうとする勢力は、牧口先生を辞めさせることが不可能とわか
ると、卑劣なやり方で他校に転任させた。
 師をお護りする戸田先生の闘争は、それ以後も人知れず続けられた。
 『創価教育学体系』第1巻発刊の2年後、牧口先生は校長を退職されたが、その際、
最高の待遇となるように陰で布石を打ったのも、戸田先生だったのである。
 大校長として、晴れ晴れと有終の美を飾られた牧口先生のお姿を、退任の宴の席
で、戸田先生は万感の思いで見つめていた。
 その真情を、先生は「人に見せまいとする涙を幾度ふいた事であった事か」と記され
ている。

◆「戸田先生を断じて会長に」
 一、牧口先生・戸田先生の師弟による学会創立から20年後の1950年(昭和25
年)の11月 ── 。
 戦後、牧口先生の不二の弟子として、学会再建のすべてを担ってこられた戸田先生
は、自らの事業の苦境のため、学会の理事長職を辞任された。
 莫大(ばくだい)な負債を抱え、絶体絶命とも言える状態に陥った先生は、この時、
牢にも入り、命をも捨てる覚悟であった。
 そして、22歳の私は、先生の弟子として、すべてを捧げてお仕えしゆく覚悟であっ
た。
 戸田先生が直面しておられる一切の試練に打ち勝って、先生に断じて第2代会長に
就任していただこうと深く決意していた。
 そのために、先生の事業の重責を一身に背負い、阿修羅のごとく戦い抜いた。あら
ゆる攻撃の矢面(やおもて)に立ち、先生の防波堤となった。
 苦手な仕事も体当たりしてやり切った。無認識の報道を何とか食い止めようと、新聞
記者との渉外にも当たった。
 多くの人が先生のもとから去った。口を極めて罵(ののし)る者もいた。しかし私はた
だ一人、戸田先生こそが広宣流布の大師匠であられることを、訴え、叫び抜いていっ
た。
 戸田先生が「聖教新聞の発刊」の構想を私に語られたのも、「創価大学の設立」の
夢を私に託されたのも、この最大の苦難の最中であった。
 その一切を、私は、師の心のままに実現していった。それは、皆さまがご存じの通り
である。
 いずれにせよ、この苦難の中の大闘争がなければ、今日の学会はなかった。

◆先生の晴れ姿を見つめる喜び
 一、1951年(昭和26年)の5月3日、ついに戸田先生は、第2代会長に就任した。
 先生の晴れ姿を見つめる私の喜びは、かつて牧口先生をお護りし抜いた、若き戸
田先生のお心と同じであった。
 師を厳護するために、断じて弟子が勝つ。これが、創価学会の創立の歴史に刻まれ
た魂である。
 創価三代の師弟の道である。
 〈牧口初代会長、戸田第2代会長、池田第3代会長のもとで戦った小泉隆理事長は、
生前、こう語っていた。
 「戸田先生は牧口先生を抱きかかえるようにして、守り仕えておられた。
 そして、池田先生は、その戸田先生を抱きかかえるようにして、守り支えておられ
た。
 それが、三代の師弟不二だ」〉
 一、私は、戸田先生から、「師弟不二」の魂を受け継いだ。
 先生のもとで、ありとあらゆる訓練を受けた。
 広布の指導者として、一から十まで手を打てる力をつけてくださった。
 その訓練が、どれほど真剣だったか。どれほど厳しかったか。
 恵まれた環境に甘えて、峻厳な学会精神を忘れるようなことがあってはならない。
 短命と言われていた私が、現在もこのように健康で広布の指揮が執れるのも、先生
の薫陶(くんとう)のお陰であると感謝している(大拍手)。

三代の師弟ありてこそ学会はここまで世界的に

2006-12-15 09:00:44 | スピーチ・メッセージ
戸田先生は、弟子の姿勢について、こう訴えておられた。「師匠の話を全身で受け止め、信仰の上でも、生活の上でも、信・行・学を実践していくべきである」

「牧口先生の話を話として聞いては駄目で、耳でなく、また頭でもなく、体で聞くという態度でなければなりませぬ」

私もまた、戸田先生が言われる一言一句を全身で受けとめ、そのまま実践してきた。すべてを実現した。先生は、周りの幹部に言われていた。

「大作を見よ!」
「大作は一を聞いて百を知る。お前たちは何十ぺん聞いてもわからない。格段の差だ」
 
先生が、どれほど私を大事にしてくださったか。私は体が弱く、医者からも30歳までしか生きられないと言われた。先生は、「大作さえ健康でいてくれたら! 」と何度も言っておられた。

ある時は、私の妻の実家を訪れて、“大作には本当に苦労ばかりかけてしまった。
大作がいなければ、学会の将来は真っ暗だ”と大泣きして語られた。こういう師弟だった。師弟不二だった。

どんなことがあっても、大作を丈夫にして、第3代の会長にしたい ── これが先生の思いだった。昭和32年(1957年)の大阪事件で、私が大阪へ向かう途中、羽田空港で先生は言われた。

「もしも、お前が死ぬようなことになったら、私もすぐに駆けつけて、お前の上にうつぶして一緒に死ぬからな」本当にありがたい師匠であった。

創価の三代の師弟ありてこそ、学会はここまで世界的になった。あらゆる迫害をは
ねのけて、未曾有の大発展を遂げたのである。この一点を断じて忘れてはならない。未来のために、強く訴えておきたい。

創価の「師弟の道」に対する大きな共感

2006-12-15 08:57:51 | スピーチ・メッセージ
創価学会の創立76周年を、世界からの200の「名誉学術称号」をもって荘厳し、牧口先生、戸田先生に捧げることができたことは、弟子として、この上ない誉れである。

ありがたいことに、いくつもの大学が、名誉学術称号の授与の理由として、創価の「師弟の道」に対する大きな共感を挙げてくださっている。「師弟」とは、「信仰」の真髄であるとともに、「教育」の真髄でもある。

アルゼンチンの名門フローレス大学のケルテース学長も、こう語っておられた。

「私もまた、この素晴らしき師弟の関係を尊重し、自身の行動の基本としていく所存であります。我がフローレス大学におきましても、恩師を顕彰するための特別室がございます。恩師の現代科学と人類への貢献は、我が大学の発展と前進を促しました」

「(恩師は)私たちを英知の光で照らし、進むべき道を切り開いてくださいました」

どこまでも、恩師を大切にし、宣揚(せんよう)する。徹して創立の師を重んじ、その恩に報いる。そうであってこそ、組織や団体は、いかなる歳月の淘汰(とうた)にも揺るがない、堂々たる精神の伝統を構築していけるのだ。

「師弟不二」であれば、打ち破れない「壁」などない。

2006-12-15 08:55:46 | スピーチ・メッセージ
仏法の根幹は「師弟」である。

戦後、事業が挫折し、絶体絶命だった戸田先生を、青春の一切を捧げてお守りしたのは私である。先生は、その私に第3代を託し、全身全霊で育ててくださった。先生が、病弱だった私をどれほど心配され、どれほどの思いで御本尊に祈ってくださったか。その大恩は計り知れない。

私は戸田先生の弟子である。その誇り高き自負を抱(いだ)いて、師匠のため、学会のため、広宣流布のために、あらゆる難を一身に受けながら、あらゆる批判に耐えて、私は、ここまできたのである。 この崇高なる師弟に、学会の世界的発展の原点がある。

「師弟不二」であれば、打ち破れない「壁」などない。「師弟不二」に徹し抜いていけば、今の何倍も、学会は発展していくことができる。

仏法の師弟を忘れた恩知らずの輩に、大切な学会を食い破られてはならない。妙法の宝剣で、魔と戦い、魔を断ち切っていくのである。

なぜ五老僧は背いたのか?

2006-12-15 08:51:17 | スピーチ・メッセージ
「なぜ、五老僧は大聖人の御心に背いてしまったのか」との質問に答えて、戸田
先生は、こう指導されたことがある。
「第一に五老僧は、大聖人のおそばでの常随給仕(じょうずいきゅうじ)が足りなかった。ゆえに、師弟としての深い境地の一致に欠けたからだ」 結局は、「師匠が中心」ではなく、「自分が中心」であったのである。

仏法の真髄の継承は、弟子の「常随給仕」、すなわち身・口・意の三業(しん・く・い のさんごう)をもって、広宣流布の師匠に「信伏随従(しんぷくずいじゅう)」することによって、成し遂げられてきた。

戸田先生は、牧口先生に常随給仕された。牢獄にまで、お供されたのである。私は、戸田先生に常随給仕した。私が、どれほどの思いで、戸田先生にお仕えしたか。学会の土台をつくったか。

体が弱かった。お金もなかった。そのなかで、全生命をたたきつけて、学会のため、戸田先生のために戦った。火の中に入って。氷の中に入って。ただ一人である。 一人で立ち上がったのである。

そんな私を、諸天善神が見るに見かねて守ってくださった。まさに御仏意(ごぶっち)によって、今の学会ができあがったのである。

ただひたすらに、命をかけて、広宣流布のため、学会員の幸福のために戦い抜
いたのが学会の三代の会長であった。本当の学会精神は、牧口先生、戸田先生、そして私の中にある。三代の会長に脈々と流れている。

これからの学会を担(にな)っていく皆さん方は、この「三代の精神」を断じて守り抜いていっていただきたいのだ。自分のことを言うのはいやだけれど、学会の未来のために、あえて明快に言い残しておきたい。