夢をかなえる新聞・聖教新聞 -人間革命の指針-

聖教新聞は夢をかなえる新聞です。その中より「新・人間革命」、名字の言、体験から夢をかなえゆくための指針をつづります。

話をしたことが機縁となり、時を経て仏性が芽吹く 11/16

2011-11-17 01:56:00 | 名字の言
桜の木が多い信濃町も紅葉の季節を迎え、緑色だった葉の中からきれいな赤や黄の色が生まれている。一枚の葉に秘められた深い命の力を感じる▼各地で青年を中心に弘教が進み、歓喜の話題が相次いでいる。職場の友人の幸福を祈り続けていた女子部員のもとへ、ある日、その友から「私も信心をしたい」と連絡が。以前にもらった励ましの手紙を、友人が悩みの渦中で読み返したのだった▼妙法という幸福の種が、友の中で発心の芽を出したといえよう。誰の生命にも備わる仏性は、縁によって開かれる。仏法対話をしたことが機縁となり、時を経て仏性が芽吹く▼信心の話を聞いてすぐに入会の決意をする人もいれば、しない人もいる。大事なことは一人でも多くの人に妙法の種を植え、信仰の機縁をつくることだ。日蓮大聖人は「法華経を耳にふれぬれば是を種として必ず仏になるなり」(御書552㌻)と仰せだ▼「必ず」といわれている。仏法の話を聞いた人によって、受け入れる状態がそれぞれ異なるから、発心の時はさまざまだが、間違いなく時は来る。仏とは能忍(能く忍ぶ)といわれる。折伏は、仏の境涯を目指す仏道修行だ。すぐさま仏法理解が得られなくても、忍耐強く、友の幸福を祈り続けよう。(弓)

この励まし「一生の感激」11/15

2011-11-17 01:54:31 | 名字の言
古代インカ帝国の「空中都市」マチュピチュ。その発見100周年を記念する展覧会が、愛知・犬山市の野外民族博物館リトルワールドで開かれている(「謎のアンデス文明5000年展」。今月27日まで)▼標高2400メートルの断崖の頂に築かれた奇跡の街。日本初公開となる5000年前の神殿の一部や、多種多様な色彩の土器、黄金の装飾品、脳外科手術の跡を残す頭蓋骨などに目を奪われる▼同展の主催団体の一つは、ペルーの「天野博物館」。池田名誉会長は同博物館を2度訪れ、創立者の故・天野芳太郎氏と語り合っている。氏は終戦後、ペルーに渡り、実業家として活躍する傍ら、私財を投じてアンデスの文化遺産を守り抜いてきた▼「天野先生は、ペルーの文化史に、偉大な貢献の足跡を残されました。日本の誇りです」。1974年、2度目の訪問の時、療養中だった氏の背中をさすりながら、名誉会長は言った。後年、氏はこの励ましを「一生の感激」と語り残した▼「誰と一緒に過ごすか。それによってあなたが何者かが分かる」とは、インカの言葉ケチュア語の格言。古代文明の魅力を伝える品々は、ペルーに尽くした日本人と、「誠実」を貫いた名誉会長の美しい友情の歴史を思い起こさせてくれた。(和)

共戦4

2011-11-17 01:53:12 | 小説「新・人間革命」
 五月十八日昼、福岡は見事な五月晴れであった。九州の幹部たちは、さわやかな青空のもとで、本部幹部会が開催できるとあって、どの顔も晴れやかであった。

 山本伸一は、九州平和会館の窓辺に立ち、彼方を仰ぎながら、側にいた九州担当の副会長に言った。

 「雨もあがって、皆、元気に頑張っているとのことだ。本当によかった」

 すると、その副会長は、怪訝そうな顔で答えた。

 「九州は、この二、三日、ほとんど雨は降っておりません。今日は、ことのほか美しい青空が広がり、九州の船出にふさわしい天気だと、皆、大喜びしておりますが……」

 伸一は、少し険しい口調で言った。

 「私は、岩手の人たちのことを思っていたんだよ。水害で、今、いちばん、苦しんでいる人たちじゃないか」

 十五日から十七日にかけて、宮古市、釜石市、大船渡市などの岩手県沿岸部に大雨が降り、床上浸水などの被害が続出していたのだ。陸前高田市では、土砂崩れによって死者も出ていた。

 学会としては、十六日、釜石会館内に水害対策本部を設け、救援に当たってきた。

 伸一も、救援のためのさまざまな手を打つ一方、被災地の友に見舞いの電報を送った。そして、寸暇を惜しんで、唱題を重ねてきたのである。

 「最高幹部は、常に、日本中、世界中に心を配り、最も苦しんでいる人、大変な思いをしている人のことを考えていくんだ。最も苦しんでいる人と、同苦していこうとする心――それが、大聖人の御心であり、学会の心です。そこに、仏法の人間主義がある。

 私は、夕べも、被災地の同志のことを思って、ずっと、お題目を送っていたんです」

 伸一は、幹部が〝人びとの苦悩を凝視する心〟を失うことを、最も恐れていた。その心を失えば、いつか組織は、形式化、官僚化していくからだ。

共戦3

2011-11-17 01:52:11 | 小説「新・人間革命」
九州平和会館の由来を記した碑をはじめ、初代会長・牧口常三郎の「創価精神」、第二代会長・戸田城聖の「立正安国」などの文字を刻んだ石碑の除幕が行われた。

 山本伸一は、それから館内に入ると、地元幹部の代表らと、九州平和会館の開館を記念して勤行を行った。

 その後、九州や福岡の十人ほどの幹部と懇談した伸一は、感慨をかみしめて語った。

 「いよいよ明日は、この九州平和会館で本部幹部会だ。すごい時代になったね。福岡から、全国、全世界に、広宣流布の潮流を起こしていくんだ。これからは、各県が、一つの創価学会になれるぐらい、総合的に力をつけていかなければならない。今回の本部幹部会は、その前哨戦だよ」

 本部幹部会は、東京の日大講堂や日本武道館などで行われてきたが、伸一は、新しい流れを開こうと、三年半前に、こう提案した。

 「本部幹部会は、いつも東京の大会場で開催するのではなく、各地で行い、地方から新しい前進の活力を送ってはどうだろうか」

 そして、一九七四年(昭和四十九年)の一月度本部幹部会は、福岡県の九電記念体育館、二月度は千葉県総合運動場体育館と、各地の外部会場で開催されてきた。

 さらに、全国に次々と学会の新しい会館や研修所が誕生すると、そこで本部幹部会を行うようになった。

 この七七年(同五十二年)を見ても、一月度は和歌山県の関西総合研修所、二月度は川崎文化会館、三、四月度は、東京の創価文化会館、目黒平和会館で開催されている。

 伸一は、東京という一つの機関車が、全国を牽引する時代は終わったと思っていた。各車両がモーターを備えた新幹線のように、各方面、さらには各県区が自力で走行し、他地域をリードできる力をもってこそ、各地の個性をいかんなく発揮した、広宣流布の新たな大前進が可能になるからだ。

 地域があらゆる実力を備えてこそ、「地方の時代」の到来がある。