100年前の「明治の三陸」写真帖 明治の大津波から復興した三陸の姿を伝える

明治45年(1912年)に刊行された「写真帖」掲載の岩手県三陸沿岸の貴重な写真や資料を順次公開

VOL23 明治の学校1 「岩手県立水産學校」(下閉伊郡宮古町)

2014-07-12 14:19:25 | 明治の下閉伊郡(現宮古市他)

 「岩手県立水産學校」(下閉伊郡宮古町)

 当時の三陸沿岸地域には、小学校を卒業した後の上級学校といえば、本稿の「岩手県立水産学校」(現在の岩手県立宮古水産高校)と、次稿の「遠野中学校(現在の岩手県立遠野高校)の2校しかなかったので、漁業関係の子弟にかぎらず地域の秀才が競って入学し、鈴木善幸元首相・熊谷義雄元衆議院議員(普代村出身)などの人材を輩出しています。(私の祖父は8期生でした)

 因みに内陸には盛岡中学校(同盛岡一高)や一関中学校(同一関一高)、福岡中学校(福岡高校)などの中学校があり、宮古から盛岡中学校へ入る生徒も大勢いたようです。

 さて岩手県立水産学校ですが、明治28年(1895年)に水産補習学校として設立、その後下閉伊郡立水産学校を経て明治34年(1901年)に県立移管されています。校舎は現在宮古市磯鶏地区にありますが、写真の当時は藤原地区(現在の藤原小学校)にあり白い外壁が一際目立つ存在でした(当時の上級学校は、盛岡中学や遠野中学もなぜか校舎は白く塗られています)。《VOL6.明治の宮古の街並み其の1 参照》

 明治末期の三陸沿岸地域においては学校の重要度は現代の比ではありませんでした。この写真が本写真帖には各郡役所の次の頁に掲載されていることからも推し量れます。

 

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